入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:保田卓夫の翻訳の話

何も言わない星––『さよなら、愛しい人』<9>

保田卓夫
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夏目漱石とレイモンド・チャンドラーの「筋のなさ」という共通項は、またべつの形をも取ります。

[漱石は、『彼岸過迄』]の序文で、『個々の短篇を重ねた末に、其の個々の短篇が相合して一長篇を構成するやうに仕組んだ』(『彼岸過迄に就て』)といっている。しかし、それは別に新しい趣向ではなくて、『吾輩は猫である』のように書くということにほかならない。」(柄谷行人「漱石と『文』」)

パルプ雑誌に短篇小説を売って生計を立てていたレイモンド・チャンドラーが、そのうちの3つをもとにして『Farewell, My Lovely』を書いたことは、『さよなら、愛しい人』の「訳者あとがき」にあるとおりです。その結果、「その努力にもかかわらず、結果的に見ると完全には整合できてはいない。あちこちに細かいほころびのようなものが見受けられる」(村上春樹)どころか、プロットが見事に宙づりにされたミステリー小説をチャンドラーが書き得たとしたら、それは祝福されねばなりません。

もちろん、人間はいわれもなく「時間」を因果づけているわけではなくて、コブラの毒や、サメの歯のかわりに、「知性」というものを授かったのが人間である以上、こうしなければとても生きていかれないからこうしているまでです。兄がコブラにかまれて死んだなら、自分もかまれたら死ぬだろう、という《予見》を立てられない弟は、やっぱりコブラにかまれて死ぬしかない。マーロウとて、人並み以上にそういう《予見》ができなかったら生き延びられない世界に身を置いている。しかし、その後のハードボイルドの「タフネス」がこぞって拠って立つように思われているマーロウの「タフネス」とは、「10001回目の保証のなさ」––言い換えれば、因果律だの幾何学だの形而上学だのといった《フィクション》を取り去ってしまった時の人間のvulnerability=かよわさ––を深く自覚した「知性」以上の何ものでもないのです。

「かくして、どんな哲学も、結果として人間の盲目ぶり、そのよるべなさを突きつけられ、ことあるごとにそれに行き当たることになる。われわれがどんなに身をかわそう、避けて通ろうと努めても、空しい。」(デイヴィッド・ヒューム『人間の理解力および道徳の原則に関する探究』)

「してみると知性の本質的な機能は、どんな環境にあっても困難を切り抜ける道をより出すことにあることとなろう。」(アンリ=ルイ・ベルクソン『創造的進化』、真方敬道・訳)

ベイ・シティーの黒幕、レイヤード・ブルネットは、度胸と頭脳だけを頼りに今の地位を手に入れた、と元警官のレッドがマーロウに語る時、それはそのままマーロウのことでもある(だからブルネットとマーロウのあいだには、妙な共感が生まれることになる)。腕っぷしから言うなら、『Farewell, My Lovely』におけるマーロウは見事に殴られっぱなしだし、拳銃だって「まず撃たない」と断言する。だから、冒頭で、巨漢ムース・マロイがマーロウの肩をぐしゃっとつかみ、階段3段分ひょいともちあげる時、その姿は、もう1人の––というよりもう1匹の––「タフ」な主人公と、ぴったり重なりあうのだ。

「系譜的にいえば、『吾輩は猫である』は滑稽本のやり方だが、『猫』は滑稽本の作者(語り手)とはちがう。それはたんに上から見おろしているのではない。『吾輩』と威張っている語り手は、逆に見おろされているのである。たとえば、『吾輩』は迷亭の膝の上に這い上がってみる。《すると迷亭は『イヨー大分肥つたな、どれ』と無作法にも吾輩の襟髪をんで宙へ釣るす。》そのまま会話が進行し、『迷亭はまだ吾輩を卸して呉れない』。」(柄谷行人「漱石と『文』」)

ここで、村上春樹がチャンドラーの「自我」というものをどう解しているのか、見てみましょう。

まず、先に引いたジョイス・キャロル・オーツの文章に続けて、村上春樹はこう言う。

「多くの小説家は意図的に、あるいは無意識的に、自己意識について語ろうとする。あるいは様々な手法を用いて、自己意識と外界の関わり方を描こうとする。それがいわゆる『近代文学』の基本的な成り立ち方である。……しかしチャンドラーはそうではない。文章的にはきわめて雄弁であるものの、人の意識を描こうというつもりは彼にはほとんどないようだ。」(村上春樹「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」)

ここまで僕らがたどってきた文脈からすれば、それはそのとおりだ。1イニング目は3者凡退に押さえた感じだ。

だが、このチャンドラーの身ぶりが、村上春樹にはどうにも信じがたいらしいのだ。これに続いて、「自我をまったく反映しない個人的所見や対応などどこにもない(はずだ)」とか、「自我の実相をどこかべつの場所に巧妙に隠匿しているのではあるまいかという疑いを、我々は、あくまで漠然とではあるが、しかし避けがたく抱いてしまう」などといった言葉がつぶやかれる。つまり、せっかく「近代文学」という言葉をカッコに入れていたのだけれど––そして、彼自身小説家としてはポスト=モダンの人と目されているのだけれど––こういう文章を書く時、彼の拠って立つところは、ふるって「近代的」なのです。

ヘミングウェイを評して、彼はこう言う。

「人の行為は自我の強い影響下にあり、自我によって多くの領域を支配されているがゆえに、作家は人のなす行為を具象的に精密に描くことによって、その自我の輪郭をより客体的に描くことができるというわけだ。」(村上春樹「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」)

この手法は、おそらくヘミングウェイなりの「近代文学」批判から生まれてきたのだろうけど、「人の自我」を「客体的に描く」以前に、まずは自分の「自我」が前提されていなければならないという意味で、それは「近代風景画」と大して変わらない。

「風景は『内部』あるいは『自己(セルフ)』とともに出現するのである。」(柄谷行人「文学について」)

もちろん、そのへんの事情は村上春樹もわかっているのだけれど、「ではその雄弁さをもってチャンドラーが描こうとしているのは、いったいどんなものなのだろう?」と自問してみる時、彼にはこう答えるしかない。

「それはひとことで言うなら、語り手フィリップ・マーロウの目によって切り取られていく世界の光景である。それはきわめて正確に切り取られた光景であり、綿密に雄弁に語られてはいるものの、ほとんどプロセスを受けていない光景である。」

「ほとんどプロセスを受けていない光景」が《言葉》で表現されたことなど、きっと一度もないだろう。ましてや、それが「雄弁さ=文彩」を駆使して描かれなければならないのはなぜか、と問われたなら、村上春樹も「うーん」と頭を抱えてしまうにちがいない。

そして彼は、こういう結論に導かれる。

「ヘミングウェイが『前提的にあるべきもの』とし、ハメットが『とくになくともかまわないもの』とした自我の存在場所に、チャンドラーは『仮説』という新たな概念を持ち込んだのだ。……チャンドラーは自我なるものを、一種のブラックボックスとして設定したのだ。蓋を開けることができない堅固な、そしてあくまで記号的な箱として。自我はたしかにそこにある。そこにあり十全に機能している。しかしあるにはあるけれど、中身は『よくわからないもの』なのだ。」

「自我」がないはずがないから、蓋の開かない箱の中に閉じ込めて、「見えない」ものとしてしまったのだ。

それはフィリップ・マーロウにだって「自我」がないことはないだろう。『猫』くらいには。しかし猫の「自我」をうんぬんしたって始まらないじゃないか。

などと茶化してもそれこそ始まらないが、しかし村上春樹の「近代性」がどこにいちばん表れているといって、彼がここで「箱」をもちだしてきたことにまさるはない。村上春樹にとって、「自我」とは、どうしても四角い「空間」でなければならなかったのだ。

しがない一翻訳家の僕だったら(そう、本当は大臣じゃないんです)、初めの一歩に立ち戻って、ジョイス・キャロル・オーツの使った「unselfconscious」という言葉を訳し直すところから始めると思う。辞書を引けば、「自意識過剰でない」とかいった意味が書いてあると思うけど(ふつうは「無意識な」とは訳されない)、これは他でもない、「近代的な自我意識を欠いた」と読めばいいのだ。さらっとこんなことを言うジョイス・キャロル・オーツさんという人は、やっぱりすごいし、これを引いてきた村上春樹も、本当はやっぱりすごいのです。


『何も言わない星』を第9回までお読みくださった方、9回全部は読んでいないけれどもちょっとは読んだという方、ばかいえこれから読むんだという方––ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。話はまだ中途ですが、「WEBマガジン出版翻訳」の休刊にともない、ここでいったんの幕引きとさせていただきます。とはいえ、発表できたのはまだ全体の半分くらいですので、残りをどこでどのように発表したらいいか、ちょっとこれから模索してみます。万が一続きを読みたいなどという酔狂な方がいらっしゃいましたら、72mo1871ho4@quacks.jpまで、「連絡希望」という件名でEメールをお送りください(本文はあってもなくてもかまいません)。続きをお読みいただけるようになった暁には、ご一報さしあげます。

それでは、遠からずまたお目にかかれますことを。

保田卓夫

2011年1月31日号
(第4巻184号)