ハッピリー・エバー・アフターのその先にある物語
――小説『クレアモントホテル』に寄せて――
そうしてお姫さまは、王子さまといつまでも幸せに暮らしました。
ロマンチックなおとぎ話は、こんな風に終わるものと相場が決まっている。けれども残念ながら(本当に残念ながら)、現実の世界では「いつまでも幸せに暮らす」なんてことはありえない。たとえ女の子が運良く“白馬の王子さま”と出会えたとしても、いつかは二人のうちのどちらかが先に逝き、どちらかが残されるときがやってくる。そして残された側には、「その先の人生」が待っている。
エリザベス・テイラー作/最所篤子訳の『クレアモントホテル』(集英社刊)は、そんな「ハッピリー・エバー・アフター(めでたしめでたし)のその先の人生」を描いた小説だ。
主人公のパルフリー夫人は初老の未亡人。年をとってなお「威厳がある」振舞いを大切にする上品な女性だ。かつては愛する夫と「完璧な結婚」生活を送った彼女だったが、一人になった今、自立した老後を過ごそうとロンドンの小さなホテルにやってくる。決して高級とはいえないそのホテルで彼女は、やはり人生の残りの日々を過ごすためにここに長期滞在をしている老人たちの仲間入りをする。彼女たちの一番の楽しみは、家族の訪問を受けることだ。パルフリー夫人も、孫がやって来る日を心待ちにするが、当のデズモンドは連絡さえ寄越さない。そんな彼女がある日、作家志望の貧乏青年ルドと出会うところから、物語が動き出す。
ルドとの出会いは劇的だ。珍しく図書館まで遠出した帰り道、パルフリー夫人はふとした拍子に転び、動けなくなってしまう。そこへ、通り沿いの部屋に住むルドが駆けつけてくる。
・・・・・・若い男が急ぎ足で階段を上ってきた。彼は彼女を腕に抱え、恋人のように無言で抱き寄せた。受け止めてもらえた心地よさが苦痛を覆い、彼女は心から感謝しながら彼の手に身を委ねた。
なんてドキドキする出会いだろう。年齢差を考えれば、この出会いの先にあるのが恋愛ではないということは想像がつくのだが、では老婦人と見知らぬ青年というこの珍しい組み合わせの二人が、これから築いていく関係とはどんなものだろう。そんな新鮮なドキドキに、読み手は次へ次へとページをめくらされることになる。
その後、ルドはなりゆきから、夫人の孫のデズモンドのふりをしてクレアモントホテルに食事にやってくる。パルフリー夫人を「お祖母さま(グランママ)」と呼び、いっときの家族ごっこを楽しむルド。ホテルの長期滞在組のメンバーは、ハンサムでやさしいパルフリー夫人の“孫”を、羨望のまなざしで見つめる。夫人はそれまで、こうした“先輩たち”との生活に溶け込むことができずにとまどっていたのだが、ルドは結果的に、そんな彼女の気持ちまで見事に救ってくれる。まるで窮地に陥ったお姫さまのもとにやってきた、白馬の王子さまみたいに。
ルドの方にも、パルフリー夫人に惹かれる理由はあった。自分を認めてくれない母親への失望だ。夫人とルドは互いにとって、心の大切な部分にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる相手であったのだ。
とはいえ、物語を読み進むにつれ切なくなるのは、二人の気持ちの温度差だ。二人はルドの部屋で一緒に食事をするなどして徐々に親しさを増していくのだが、パルフリー夫人がルドへの思いを募らせる一方で、ルドは夫人からお礼として受け取ったお金を、女の子をナンパするのに使ってしまったり、夫人との会話の最中も、これを小説のネタに使えないかと考えていたりする。しかもその小説とは、出版されたら「どんな借財よりもパルフリー夫人の機嫌を損ねるだろう」という代物なのだ。
二人の気持ちの温度差を生み出すものはしかし、ルドの冷たさではないだろう。それはきっと、二人に残された時間の差だ。年老いた者にとって残された時間は少なく、大切なことに費やす時は「今」しかない。しかし若者にとっては、時間など空気のように当たり前に、無限に存在するものだ。
たとえば、ルドはよんどころない事情から夫人にお金を借りるのだが、それを働いて返そうと、夫人には連絡をせずにアルバイトに精を出す。一方の夫人は、お金を貸して以来なしのつぶてのルドに、自分はもう忘れられたのだと思いこむ。そして挙げ句の果てにこんな気持ちにまで追いつめられてしまう。
・・・・・・困ったときに頼ることができ、腕をとって道路を渡してくれ、慰めてくれ、良いことであれ悪いことであれ、彼女に起きるニュースに耳を傾けてくれる人を持つことは二度とないのだ。
今が今しかないということは、長い時を生きた人だけが本当の意味で知ることのできる智慧なのだろう。夫人にとっては、会いたい人には「今」会わなければ意味がない。ところが若者は、時の残酷さにも、追いつめられた夫人の気持ちにも気づかないまま、大切なことを後回しにしてしまう。そのすれ違いが読んでいてなんとももどかしい。
先ほどルドのことを「白馬の王子さま」のようだと書いたが、実は先日、それよりもっと適切な呼び名を、この小説を原作とした同名映画『クレアモントホテル』のなかで見つけた。パルフリー夫人が、ルドの頬にやさしく手を当てながらこんなセリフを口にするのだ。
「あなたはわたしを明るくする係ね」
そう、ルドは、寂しさを抱えて生きるパルフリー夫人に小さなときめきをもたらしてくれる「彼女を明るくする係」なのだ。それは人生をともに生きる「王子さま」とは違うだろう。しかし、自分には「明るくする係」がいてくれると考えることで、人はどれだけ強く心を支えられることか。
この物語では、パルフリー夫人とルドとの心の交流と平行して、ホテルに長期滞在する人々がそれぞれに抱える人生と孤独も丁寧に描かれる。年老いた滞在客たちは、一歩ずつ歩んできた長い年月の輝きと、今ホテルで一人きりになり、体も満足に動かない自分とのギャップにとまどいながら、日々をなんとか意味あるものにしようと懸命に生きている。
作者はそうした人々の“衰えた”姿を臆することなく描き出すのだが、不思議とそこに残酷さは感じられない。なぜなら読み手は、この物語を読むことで、人は誰でも寂しさを抱えているのだという、当たり前の事実を再確認することができるからだ。折に触れそれを確認しなければ、わたしたちは寂しさに押しつぶされてしまいそうになるからだ。いくつになろうとも、人の心から寂しさが消えることはない。だからこそ、人は自分を「明るくする係」に出会いたいと願う。しかしそんな相手に出会うというだけのシンプルなことが、人生においてはなんと難しく、レアであることか。この物語を読み終えた後、若くして愛する夫アーサーと出会い、そして晩年にルドという若者に出会えたパルフリー夫人の「幸運」を、素直にうらやましいと思うのはわたしだけではないだろう。
『クレアモントホテル』は、おとぎ話のその先で語られるべき、もうひとつのおとぎ話だ。それは華やかなばかりではないけれども、「その先」でも変わらず続いていく日々の大切さと、そこで出会えるだろう小さな奇跡の存在を、確かにわたしたちに示してくれている。
(映画は2010年12月4日より岩波ホールでロードショー・全国順次公開)
(第4巻178号)





























