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吉田祐二

書評『利己主義という気概』

アイン・ランド著 藤森かよこ訳

アンジェリーナ・ジョリー Angelina Jolie とサンドラ・ブロック Sandra Bullock はともにハリウッドを代表する女優である。意外に思われるかもしれないが、映画もまた製作者(および有力な出演者)の思想を表現するためのメディアなのであり、アンジーの出演する作品には、たとえば途上国支援の現実を描いた「Beyond Borders」(邦題:すべては愛のために)などリベラル色の強いものが多く、逆にサンドラの出演する映画には、たとえば法と秩序を護るFBI捜査官が美人コンテストに出場する「Miss Congeniality」(邦題:デンジャラス・ビューティー)や、リベラルな弁護士が金持ちの企業家と結ばれる「トゥーウィークス・ノーティス」など、伝統的価値観を擁護する保守的な作風が多い。

この「リベラル」派と「保守」派こそが、アメリカ政治における二大潮流である。前者が支持するのが民主党であり、2008年の選挙で初の黒人大統領であるバラク・オバマを選出した。後者が支持するのが共和党である。共和党はもともと財界が支持するビジネス(企業)優先の政党であるが、近年は宗教右派 religious right とよばれる、キリスト教原理主義者の支持を増やして、ブッシュ政権の8年間を支えた。

政治思想の異なるふたりの映画女優が、共通の「愛読書」として挙げているのがアイン・ランド(Ayn Rand, 1905-1982)というアメリカ女流作家の小説である。代表作には邦訳で1000ページ近い大部の『水源』と『肩をすくめたアトラス』がある。アメリカでは、知的な大学生ならば一度は通らなければならないほど知られた小説であり、彼女の本は地方の小さな書店でも見つけることができる。日本でいえば司馬遼太郎なみの知名度であり、読まれ方ならばクリスチャン作家の三浦綾子に近いだろうか。むろん作風はまったく違う。

アイン・ランドは日本ではこれまで紹介されることの少なかった作家であるが、近年ビジネス社より邦訳が続けて出ている。ここで紹介する本書は、小説家ランドの背後にある、自身の思想や哲学について書いたエッセイをまとめたものである。その内容は、本書のなかから言葉を拾ってみると以下のようなものである。

「倫理とは、人間が生き延びるための客観的形而上的必需品です」(p.47)
「人間の究極の価値である生命と人生の実現の手段であるような三つの価値、それは理性と目的と自尊です」(p.53)
「自分自身の幸福の達成こそが人間の最高の道徳的目的である」(p.57)
「客観主義という倫理の基本的政治的原則は、何人たりとも、他人に対して物理的強制力の行使を始めてはいけないということです」(p.71)
「人間の権利の源泉、根拠とは、神の法でもないし議会が決定した法でもなく、これはこれであるという事物の固有性の法(law of identity)である」(p.178)

このように全編にわたって、私たちがこの現実を強く生きていくための原理を熱く、ときには扇動的に論じている。つまり、本書は「倫理」をテーマにした本なのである。

アイン・ランドはロシア系ユダヤ人であり、21歳のときにロシアから革命を逃れてアメリカへ亡命した。ウエイトレスや店員など職を転々としながらハリウッドのシナリオ作家となり、書いた小説がベストセラーとなった。アメリカの成功物語を地でゆく人生である。

そのためか、アメリカのセレブリティには彼女のファンが多い。冒頭のふたりのほかにコメディアンのジム・キャリーやラテン系ビューティーであるエヴァ・メンデスなどがランドの信奉者として知られている。その一方で、FRB(連邦準備銀行)の前総裁アラン・グリーンスパンのような、金融界の大御所と目される人物までが、アイン・ランドの影響を受けているのは有名な話である。

彼女が創ったこの独特な政治思想は、のちにリバータリアニズムとして形成されてアメリカの言論界・思想界に影響をあたえることになる。それは、人間の「自由」を高らかに、誇り高く謳った思想である。個人の能力を最大限に伸ばす社会体制として、資本主義を擁護する考え方である。彼女のバックグラウンドである、ユダヤ人気質の良いところが結晶した思想である。アカデミックな思想や哲学の狭い壁を破って、広い層に大きな影響を、いまでも与え続けている。

その激しいものの言い方から、おそらく読み手によって好き嫌いがはっきりと分かれる作家であることは間違いない。しかし、好きな方はそのアクの強さに惹かれて次々と他の本も手にすることになるはずである。好き嫌いを抜きにしても、これだけ長年アメリカでベストセラーを続ける以上、ここにアメリカ人の考え方の最も重要な部分、琴線に触れるものが書かれていることは確かであろう。つまりランドを読めば、表層的なアメリカ文化からは決して見ることのできない、アメリカ人の心象の原風景のようなものが見出せるはずである。アメリカに興味のある方は読んでおいて損はしない本である。

訳文は丁寧だが、抽象的な観念を扱っているためにどうしても難しいところがある。<a right>と<rights>と<right>の違いなどは、政治思想を知らないとなかなか訳しきれない。<integrity>ひとつをとっても、これを単純に「誠実さ」と訳していいのか、<reason>は「理性」でほんとうにいいのか、訳者の考えについても述べられている。『水源』の翻訳者でもある藤森かよこ訳。

2009年1月13日号