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奥津絵葉

家族の絆 ――『三人にひとり』を読んで――

アダム・ウィシャート著 北川知子訳

三人にひとり

アダム・ウィシャート著
北川知子訳

『三人にひとり』を、父と息子の渾身の共同作業として私は読んだ。父子はむつまじく、著者は六歳から科学を父に教わる。以来、親子は折りごとにさまざまなことを語り合うが、やがて父はがんに倒れる。父親ががんとたたかう姿をつづるとき、息子は科学者である父を思う。父はがんについて、自分よりもはるかに詳しい知識を持っていたはずだ、と。父の物語は、だからがんと人類のたたかいの歴史から始めなければならない、この歴史の中で父はがんになり、亡くなっていった。

こうして本書は「生命の謎を解くがんと科学の未来」を語るドキュメンタリーになった。

エピローグで、父が最後に贈ってくれたものに息子が気づくくだりは、一編のドキュメンタリーのしめくくりさながらだ。息子の喪失体験を少しでも軽くしようと案じる父、その思いに答える息子、共鳴しあう親子の姿が胸をうつ。

ロイヤルアカデミーの古代文化展からの帰り道、大またで先を行く父の大きな手に遅れまいとしがみつく六歳の著者。直後に入ったパブで、父は語りだす。「ずいぶん昔のことだ。ひどい伝染病が流行り、たくさんの人が死んでいった……」。一八五四年に流行したコレラについての話だった。少年はこの日を、父から受けた最初の教育として記憶した。以後、話は科学者、数学者、発明家へと広がっていく。やがて息子が十代になると、母親が眠りについた頃合に、父子は毎晩語り合うことを習慣にする。「歴史を学んでおけば、私の人生の舵取りになるだろうと父は考えていた」。父の発病がきっかけとなり、再び語り合いの時間を取り戻す父子は、「長い歴史の中でがんに懸命に挑んだ科学者や医者、患者たちについて語り合った」。このようなプロローグで始まる長い物語は、以下のエピローグで閉じられる。「父の遺灰が自然に帰っていくのを見ながら、私は気づいた。父はまた、過去の物語が私に希望を与えてくれることを知っていたのだろう。まもなくこの世を去るときですら、父は私に、科学が長い歴史の中で成し遂げてきたことを教えたがっていた」

何日で読み終えたか。分からない。たった一日であったような気がするし、一週間、いや二週間だったかもしれない。読後の感動を時間で測ることはできない。万言費やしても表わすことができない。語ることができるのは、自分にも「事実」があったということ。じっと潜んでいた、胸の内に、もう終わったことだ、と仕舞い込んでいた「事実」がよみがえってきた。それは「タマゴ」から始まる。

ある日国際電話がかかってきた。米国はボストンに在住する姉からだ。「エバちゃん、タマゴをもらえるかな」と姉は声を弾ませて言った。

五歳上の姉から耳慣れない新奇な言葉を教わる機会は多かった。「あなたは『えご』よ!」、ほっぺたを膨らませた姉に食卓で宣告された。目を白黒させた私はたしか小三か小四。「え・ご・・・?」「エゴイストの『エゴ』!身勝手なこと。知らないの?」。ははあ、姉はまた新しい言葉を仕込んできたらしい。それを単に使いたかっただけなのだ、と思おうとしても、呪文みたいな『エゴ』の響きが妙にまとわりついて、ちょっとへこんだ。

長じて、年の差のギャップは減ったが、天性のおしゃべり雀、加えて、結婚後の滞米生活が長期に及ぶ姉とは、もとよりボキャブラリーの量がちがう。さて「タマゴ」。

姉には子どもができなかった。スーツを甲冑のように着こんで、平日は単身ニューヨークの金融界で働いている。今さら子どもがいなくても、と何となく周囲はそんな目で見ていた。でも姉はほしかったのだ。子どもがないのは私も同じだったので、「タマゴ」が卵子のことだとわかったとき、妹に頼んだほうが……と私は答えた。妹には子どもがいたからだ。おっちょこちょいなところがある姉妹だった。まるでニワトリの卵をやりとりする気安さだった。万が一、自分に似た子ができたらいやだなとちらりと思ったくせに、私のタマゴがいいとなぜか主張する姉の言に、私は舞い上がった。そもそも妹は幼い子を抱えてそれどころではなかったのだが。姉と私は愉快な思いつきにすっかり夢中になった。妻の軽佻浮薄が伝染してしまったのか、夫は姉妹の企図をあっさり認めた。かろうじて夫の両親が困惑の色を見せたが、これを機に息子夫婦が家族計画を真剣に考えることを期待して結局賛成してくれた。

診察を受けた東京の医師は興味を示した。不妊に悩む夫婦のために長野県の医師が違法の卵子の提供を行なったという報道がされる少し前の話だ。米国でがんばっていらっしゃいと送り出された。

『愛を乞うひと』という邦画がある。戦後まもない時代、台湾人男性と結婚した女性が、いつからか娘を虐待する。見かねた夫が幼い娘を守るために妻の元を去るも、病死。女性は施設で暮らす娘を迎えに行った。しかしせっかく引き取った娘に対して再び自分をおさえきれずに暴力をふるいだす。働き始めた娘はついに出奔し、やがて自身の家庭をもち、離婚も経験する。後年年老いた母と再会するが、互いに気づきながら名乗りあうこともなく別れる。娘は自立したのだ。実はこの母も虐待を受けていた?という連鎖の悲劇もほのめかしている。狂ったように暴力をエスカレートさせた母親が、いったん怒りがおさまるとけろりとして娘に声をかけるシーンがあった。

「髪を梳(す)いておくれよ」

娘はおびえながらも喜びをかくしきれない。震える手で母の長い髪をくしけずる。 母親を演じた原田美枝子という女優に姉は似ていた。きれいなひとなのだ。もちろん姉に暴力の気はない。でも映画を観ながら、母を乞う娘に自分を重ね、「母」を姉に重ねていた。子どもの頃、姉は反抗的な私を疎んじ、聞き分けのいい妹ばかりを相手にした。私は姉のそばに行きたいのにと素直になれない自分をもてあました。たまに姉に呼ばれれば、期待と緊張ではちきれそうになって駆けつけるが、そう長くはもたずいつのまにかけんかになる。そんな二人が大人になったら、仲良しになった。それでも子ども時代とかわらないのは、一緒にいる時間が長いといつのまにかけんかになることだった。その代わりあとにはひかない、そんなことを飽かず繰り返す姉妹だった。二十代にさしかかった頃、姉が感に堪えぬという面持ちでいった。「マチュアになったわねえ」と。その誉め言葉は百年早い、、私は身をよじらんばかりに恐縮した。

姉にタマゴをと頼まれたときの私は、境遇はまったく違ってはいたが、髪を梳いてと言われた少女と、嬉しくて仕方ないという点においてはよく似ていた。

ボストンのクリニックに行った。アイリッシュ系の医師が、卵子提供による人工授精は何例も手がけているが、姉妹間の症例は初めてだと歓迎してくれた。姉夫婦と私たち夫婦でサイコロジストの自宅にも出掛けた。好んで提供することを証明する書類を作成するためだった。いちばん大変だったのは、卵子誘発剤の注射だ。クリニックで腿に赤い印をつけてもらって、自宅で自分で注射しなければならなかった。毎晩姉と儀式のように打った。針の長さが5センチもあるから、手を上方に高く掲げ、勢いをつけて打ち込まないと入らない。米国女性はたくましいと感心した。一連の大騒ぎを経て、姉と私の計画はどんな結末を迎えただろうか。

手術の当日、全身麻酔と部分麻酔を選択できるが、と訊かれた。一部始終を見たかったので部分麻酔を希望した。自己申告した体重がちがっていたらしい。目覚めたときにはなにもかも終わっていた。摘出した卵子はすべて空(から)だった、と告げられた。受精もできずに失敗。姉を失望させたのだ。私はすごすごと帰国の途に着いた。「スカだった」と友人に報告したら、それって英語でなんて言うの、と質問された。‘vacant’だと聞き覚えた単語を伝えた。姉と私の一世一代の共同作業は、ささやかな冒険で幕を閉じた。

まさか毎日をばんやりと過ごしてはいないだろうが、『三人にひとり』、読んでごらん、息が詰まるかもしれない、何かが始まるような気分になるぞ――そういわれた。そしてたしかに何かが始まった。家族の顔が浮き上がってきた、その「絆」に思い当った。すばらしい絆があった。