入門翻訳勝ち抜き道場

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山岡朋子

戯画翻訳への挑戦

ソレル氏の辛辣さと藤岡氏のつぶやき、一粒で二度おいしいアメのようだ……幼いときに聞いた秘密の枝の話を、トルストイは生涯信じていたことが「つぶやき」によって明らかにされる……私生活ではどうしようもない煩悩男(女)だったにしても、光るものがあるからこそ、その作品が後世まで伝わっている。ソレル氏にこきおろされた作家たち、この「つぶやき」を聞いたらほろりとするだろう。
文豪の真実
エドワード・ソレル 文と画、藤岡啓介訳
マール社、定価1200円
『文豪の真実』

珍しい翻訳書と出会った。訳者が表舞台に登場し、著者と訳者それぞれの魅力が味わえる。その本は『文豪の真実』、ニューヨークの人気風刺漫画家エドワード・ソレルが十人の文豪の生涯を戯画と短い文章で綴ったもので、日本語版は左の頁が訳文、右の頁が原文・原画となっている。

日本語版のいちばんの特徴は、どの頁を開いても左側の欄外に短く「訳者のつぶやき」がついている点だ。本文だけでは日本人にわかりにくい箇所の説明、本文には触れられていないエピソード、時代背景、個人的な感想等々、訳者の藤岡啓介氏が思いつくままに、時には惜しみなく知識を披露し、時にはお喋りを楽しんでいる。これが面白い。「訳者あとがき」でつぶやかれたり、各章末に訳注としてまとめて載せられたりしたら読みにくく、魅力も失われてしまうだろう。たとえばトルストイの最終頁に出てくる「緑の枝」。幼いときに聞いた秘密の枝の話を、トルストイは生涯信じていたことが「つぶやき」によって明らかにされる。トルストイを知る上でこのエピソードはうれしい。それからブレヒト最終頁。複数のゴーストライターを使っていたブレヒトは、代作料をきちんと支払わずにあの世へ旅立ってしまった。ブレヒトがすさまじい形相のゴーストライターたちに囲まれ、棺の中で眠っている。彼の吹き出しは── ”The check is in the mail”。直訳すれば「小切手は郵送中」だが、訳者はこれをふまえた上で、あえて「冥土払いの手形を切っておいたよ」とし、実はこれ、訳者の父君の言葉だと「つぶやき」で告白している。訳としては少々原文とずれるが、ニュアンスはしっかり伝わってくる。うまい、と思った。父君の言葉を今も忘れずにいる訳者をも思った。

それにしても、なんと毒のある本だろう。文豪たちの、生身の人間としての醜さをえぐり出し、強烈な皮肉を込めて描き出している。私にとっては「訳者のつぶやき」が救いだった。欄外だけでなく、各作家の冒頭部にも訳者の手による紹介文がついている。ソレル氏の文章からは見えてこない作家の魅力がここにはある。特にノーマン・メイラーの紹介は秀逸だ。訳者の思い入れがあるのだろうか、なんともいきいきした文章になっている。私生活ではどうしようもない煩悩男(女)だったにしても、光るものがあるからこそ、その作品が後世まで伝わっている。ソレル氏にこきおろされた作家たち、この「つぶやき」を聞いたらほろりとするだろう。

作家に対する訳者の愛情は、訳し方にも感じられる。原文は簡潔にずばりと書いてあるが、訳文は「ですます調」で、皮肉だけでなく、どこかユーモアすら感じられる。原文から受けるきついイメージとは異なるように私には感じられたが、訳文が醸し出すゆるりとした雰囲気のせいで、原文の持つ毒が多少は和らいだと思う。日本語訳を読んでいて、正直なところほっとした思いを味わった。

翻訳者はあくまでも原文のニュアンスを生かすべきとの考え方もあろう。ましてや著者は風刺漫画家、毒こそ命だ、と。だが、この本に出てくる作家の中には、日本ではあまり名を知られていない人もいる。名前だけは知っているが、まだ作品を読んでいないという作家もいるはずだ。醜聞だけでその作家を判断してしまうのはあまりに惜しい。だからこそ、訳者は敢えて表舞台にひっそり姿を見せることにしたのだろう。オブラートでくるむような訳し方をしたのだろう。ソレル氏の辛辣さと藤岡氏のつぶやき、一粒で二度おいしいアメのようだ。この日本語版、装丁が非常に美しいのも魅力である。