『今夜、すべてのバーで
』
最近、自己啓発と称した安易なHOWTO本が増えたような気がする。「良い○○になる方法」だとか、「○○で成功するには」だとか、「交渉で絶対イエスと言わせるには」などといった、相手にしてみれば大変失礼なものまであったりする。これらの本を頭ごなしに否定するつもりはないのだが、いくつか手にとって読んでみると、どれも似たり寄ったりといった感じであり、しかも表層的な知識に終始している。
そんなものを読むよりも、過去の文豪が書いた骨太の作品を読む方が、はるかにためになるとおもうのだが、いかがだろうか。トルストイ、ドストエフスキー、ゲーテ、トーマス・マン、スタンダール、スタインベックなどなど、いずれの作家の作品も主人公とともに人生の苦悩を追体験することができる。いずれの主人公も、苦悩の中で思考し、力強く生きようとする。そして、ひとつの作品を読み終えたとき、その力を少しもらったような気がする。皆さん、小説を読みましょう。結局、知識はひとを助けはするが、救いはしないのだから。
標題の作品は、アル中の主人公の入院から退院までを描いたものだが、どちらかといえば、中島らものアル中体験ルポといった感じだ。ただ、体験ルポというのは、らもさんに失礼かもしれない、アル中は安易に体験できるものではないからだ。これは、らもさんが、アル中だったから書けたのであり、そう言う意味では、らもさんの自伝的小説というべきだろう。
それにしても、描かれているアル中の七転八倒ぶりは実に生々しい。色といい、においといい、痛みといい、発狂ぐあいといい、確かに経験者しかわかり得ない境地が描かれている。さらに、巻末の参考文献をみても分かるのだが、アル中の(そしてドラッグの)知識には舌を巻く。これだけの知識を擁していて、なぜにアル中でいられるのか・・・・・・。本人も弁解はしているが、結局、知識は、ひとを救いはしないということなのだ。
いずれにせよ、この話には笑いがあり、ハッピーエンドでおわる娯楽小説なのだ。むろん、その笑いには人生の辛酸を舐めたもののみが知るすごみを有している。ただ、ぼくは、そんな笑いやハッピーエンドをもった小説が、また読みたくなったりするものであり、書架に残っていくのではないかとおもったりする。だから、この小説に、どれほどくだらないクリシェが詰まっていようと、たまたま本棚に隙間があったから置かれているとは言いたくないのだ。そして最後まで読んだら、こう言いたくなる。らもさん、あんたは大したライターだよって。
この本を読むと、らもさんの最期を思い出す。いや、らもさんの最期を考えるとこの本を思い出すといった方がいいだろうか。深夜、酩酊状態で店を出て、階段から落ちて、脳挫傷をおこして死ぬなんて醜態は、なかなかできるものではない。きっと、チャップリンのライムライトに出てくる老喜劇役者のように美しい最期だったにちがいない。
ぼくは、以前、あるひとと死生観について語った際に、死ぬときは前に倒れて死にたいものだということで意気投合した。死ぬときに、わざわざ自分の過去をセピア色に塗って涙を流したりなどしたいとはおもわない。むしろ、あれもしたかった、これもしたかったと悔しがって死にたいものだと。七転び八起きなんていうのは生ぬるい。そう、運良く八回目に起きあがれたらどうするかなんて、野暮なことは聞かないでほしいのだ。そして、この小説の最後のように、グラスを高々と挙げて祝いたいとおもう。今夜すべてのバーに集う男と女に、乾杯。



























