A Short History of Tractors in UKRAINIAN
インターネットの影響が書籍の世界にも押し寄せている、などという記事が新聞の書評欄に掲載される週は、よほどネタがないときらしい。ところがどっこい、出不精の私にとっては、こんな記事があんがい面白い。日本でもおなじみのケータイ小説や、世界中の人が書き綴っていく小説 “wiki-novel”、無料で古典の名作が読める「青空文庫」や “Project Gutenberg”、電子書籍、オーディオ・ブックスのダウンロードなど、インターネットは本の敵どころか、強い味方のような気がしてくる。アマゾンでも、インターネット機能をフルに活用して、“Search Inside”(なか見!検索)や、著者と直接やりとりできるブログの掲載など、購入者に嬉しいサービスを展開しているが、そんな中でも、極めつけのキャンペーンで購入意欲を刺激されたのが、この一冊だ。
Marina Lewycka という発音にも戸惑うような著者名、ソビエト時代を彷彿とさせるひなびた表紙、おまけに『ウクライナ語で書かれたトラクター小史』などという奇妙な題名を持つこの小説は、昨年長いことベストセラーリストに列せられていた。書評や読者評もおおむね好評だったが、だからといって読みがいがあるかどうかはわからない。以前から新作が出るたびに読み続けている作家なら、そう当たり外れはないし、あっても許せるが、この本は著者の初のフィクションだった。
ところが、この本の場合、自著について語る著者の動画を観る機会があった。今となっては、どこで見たのかわからなくなってしまったが(おそらくAmazon UK)、この著者の姿と話しぶりを目にし、アクセントを耳にして、読んでみたいと思った。それに、Audible.co.uk ではabridgedとはいえ、無料で本書の冒頭部分を聞くことができたし、さらには、英米の出版社や書店のサイトでかなりの量の抜粋を読むこともできた。まさに、至れり尽くせり!
ケンブリッジ近郊で大学の教官をしているナディアのところに、父親から突然電話がかかってくる。
「ナジェージュダ、喜んでくれ。再婚することになったぞ!」
ナディア自身がもう四十七歳だから、父親は八十四歳。おまけに、この相手というのが三十六歳のバツイチ、子連れ、金髪、豊胸のウクライナ人。西側の豊かな生活とイギリス在住資格が狙いなのは火を見るより明らかだ。しかもナディアの母は二年前に癌で亡くなったばかり。悲しみも癒えないうちに、こんな愚行に走るなんて! ナディアとその姉ヴェラは母の遺産問題で不仲になっていたが、このピンク爆弾から父を守るため共同戦線を張ることになる。
離婚経験者で、この道には一家言を持っている右寄りの姉は迷わず離婚訴訟を手配。そして主人公のナディアは、標榜する人道主義に反することに一抹の罪悪感を抱きながらも国外退去処分に持ち込もうとする。ここに、ヴァレンティーナの元夫が現れ、当の父親と意気投合してしまったり、他の愛人たちの姿が見え隠れしたりと、状況はいよいよ混迷の度合いを深めるが、ヴァレンティーナの出産を控えて、事態はクライマックスを迎える。
というのが表面的なあらすじなのだが、この本がこれほど売れ、二十九か国語にも翻訳されたのは、キャンペーン力のみならず、ドタバタコメディーを浮ついたものにしない暗い歴史的背景——二〇世紀のウクライナ人の悲哀——という重石があるからだ。ナディアが知らなかった父の過去、母の過去、姉の過去、そして自分自身の過去。これが、全編を通して徐々に明らかになってゆく。奇妙な題名については伏せておこう。これがまた重要な小道具になっているから。
著者Marina Lewycka(ちなみに、ル(レ)ウィツカと発音するらしい)は、率直な人らしく、新聞社のインタビューなどでも驚くほど誠実にプライベートな質問に答えている。それでわかったことだが、この一見いかにも作りごとのような話は、彼女の身に本当にふりかかった出来事らしい。著者自身、シェフィールド・ハラム大学でメディア研究を教える教官で、ニュージーランド出身の温厚な夫との間に一人娘があり、八十代のウクライナ出身の父親が東欧人の妻をめとったあとに離婚している。この二度目の妻の連れ子で、オクスフォード大学を卒業した娘が国外退去処分の撤回命令を勝ち取った一件が、昨年メディアで取りざたされた。
それはそれとして、当初、無名で中年、おまけにまだ一冊も出版にこぎつけたフィクション作品のない物書きの売れない話として却下されたこの作品は、“The 2005 Saga Award for Wit”と“The 2005 Bollinger Everyman Wodehouse Prize”を受賞し、“The 2005 Orange Prize”の最終候補作品として作家の出世階段を駆け上がった。あのブッカー賞のlong list にも載った。一中年読者として、喝采を叫びたい。
この『トラクタ』がイギリス人側の立場から移民の状況を描いたものだとすれば、先月の末に刊行されたばかりの第二作“Two Caravans”は、移民側に視点を移したものらしい。今回もウクライナ人が登場するが、今度は主役だ。経済移民の問題、西側の資本主義の悪弊、集約的養鶏場の残酷さ、イギリス沿岸にある移民宿舎の劣悪な環境、不法労働者に対する搾取、人身売買などといった重いテーマを織り込みながら、イギリスで苺摘みをする出稼ぎ労働者の日々を、例によってコメディータッチで描いた作品だという。この作品については、本書を書くに至った経緯を述べる著者の映像を今でも観ることができる(TIMESONLINE)。書評も続々と多種のメディアに掲載されている。また、今年八月には“Strawberry Field”という新作の刊行も予定されているそうだ。インターネットのおかげで、面白い作家に出会えた。































