入門翻訳勝ち抜き道場

翻訳玉手箱

藤岡啓介の翻訳玉手箱 第3篇
公開講座 プロになるぞ!! 番外編 その9
ウィルキー・コリンズ作『死者は生きていた』

藤岡啓介
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第一期で、第一章と第二章が終了しました。
藤岡先生の全訳はこちらです。
ウィルキー・コリンズ作、藤岡啓介訳 『死者 は生きていた』 [PDF 版]

妻か細君か奥さんか……

本講座第5回、text:18で読者のみなさんに問い掛けをしたのですが、「ヨシノスケ」さんが考えを寄せてくれました。

今回の「番外」では問題としたwifeを考えますが、そのまえにお浚いです。当該個所を読んでみます。

text:18より

"Just my sentiments, sir. But I don't know: it's likely we may be wrong. There's nothing against John Jago, except that he is so odd in his ways. They do say he wears all that nasty hair on his face (I hate hair on a man's face) on account of a vow he made when he lost his wife.

藤岡訳:

これはわたしの考えなの、いいかしら、はっきりは言えないのだけど、きっとわたしたち間違っているのかもしれないわ。ジョン・ジェイゴには何も変なところはない、ただ自分流で押し通しているだけなのかもしれない。顔中、ムジャムジャ髭だらけだけど、それも奥さんが亡くなったときに誓ったのだという話でしょう。わたし、髭男なんてまっぴらなんだけど。

この部分のコメントで、

――his wifeは考えたでしょうね。「奥さん」がもっとも自然な発想だと思うけど、みかんみかんさんのようにあっさり「妻」とした方がいいのかも。藤岡訳は「奥さん」だけど、訳しながら、未だに迷っています。昔の小説だから「奥さん」でいいじゃないか、という意見もあるだろうし、村上春樹ではこうしているよ、という情報もあるかな。

と、問いかけたわけです。他の分野の翻訳では人名、家族名詞、愛称やuncle、aunt、brother、sisterなどの訳出で悩むことがないのですが、小説ではこれらが頻度高く現れてきます。日本語はほとんどの場景に相応しい言葉を持っているので、なに、悩むことはないさ、と軽く片付けていると「小説」が論文になってしまいます。

一家の縁者といっても交わってまだ日の浅いアメリカ生まれのナオミが、これまた遠路イングランドから静養のためやってきたばかりの縁者ルフランクに、この家の殺伐とした状況を伝えます。その中で、

when he lost his wife.

と言っているのですが、これを、

彼の妻が死んだとき、
彼の妻が亡くなったとき、
彼の奥さんが死んだとき、
彼の奥さんが亡くなったとき、

こう書いてみると、問題はwifeだけでなく動詞のloseにもありました。いや、それだけでない、

on account of a vow he made when he lost his wife.

このwh-節が修飾しているa vowにまで問題が及んでいるのですね。いやいや、text:18だけじゃないよ、この小説全体をどのレベルの日本語で訳すかの問題だ! と叫ばなければ駄目なようです。

こう言いだしたら問題はもっと深刻ですね。ぼく自身が「翻訳とは文化である」といって翻訳の論を書いているのですから、そこまで遡って議論しなければならなくなります。ここではいよいよ「ヨシノスケ」さんに登場してもらい、文化論は避けておきます。

ハンドルネーム:ヨシノスケ:

村上春樹訳、『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー)を読みました。そのなかで、wifeは、「奥さん」、または「細君」と訳されていました。警官が「細君」と言い、その警官と会話している時の主人公(マーロウ)もそれにあわせて「細君」と言っているときもありましたが、基本的には「奥さん」となっていることが多かったです。登場人物紹介のところでは、「ロジャーの妻」というように「妻」という言葉もありましたが、会話の中では使われていなかったと思います。ナオミが「細君」とは言わなそうですし、私もここでのwife訳は「奥さん」がいいと思いました。

有難う。問題が絞れますね。いわゆる写実的、客観的な記述をしていて、その地の文で「彼の妻」という表現がありますね。会話では話者によって、ぼくの妻、うちの細君、うちの奴、ナオミが、うちのナオミが、などとwifeの対応語を使わずに名前を口にすることもあるでしょう。「細君」は「きみのところの細君」などと、話している相手が同輩以下の場合に使いますね。試みに辞書で「妻のグループ」を見ると、次のようになっています。

〈妻〉のグループ(岩波 日本語表現辞典)

妻 かみさん 家内 女房 ワイフ 細君・妻君 フラウ 妻室 おかか 奥 嚊・嬶(かかあ)  妻女 内儀 山の神 上様 先妻 本妻 正妻 内妻 心妻 人妻 愛妻 恋女房 ベターハーフ 悪妻 愚妻 荊妻(けいさい) 山妻 継室 うわなり 後妻 後添い 継妻 一枚かわ 姉女房 押し掛け女房 世話女房 新妻 新婦 寡婦 後家 未亡人 好逑(こうきゆう)  良妻 梵妻(ぼんさい) 道念 大黒 主婦

時代臭があります。使いこなすのが大変ですね。ほとんどが死語ですね。漱石、子規がこよなく愛した落語の世界かな。

面白いのは「奥」があって「奥さん」がない。これはつぎに掲げる「奥さま」のグループです。

〈奥様〉のグループ(岩波 日本語表現辞典)

奥様 奥さん 夫人 令夫人 賢夫人 内室 令室 令閨(れいけい) 奥方 御内方 御寮 御内 簾中(れんちゆう)  御新さん 新造(しんぞ)  新造(しんぞう) 御新造 御寮人 裏方 御上おかみ  マダム

新劇、歌舞伎の言葉だな。

というわけで、レイモンド・チャンドラーを読んだ村上春樹さんの頭には、てんから上のような語はなかったでしょうね。彼の生活圏にある現代の言葉でしょう。

ところで、我らがコリンズです。「御内方」「御新造」「奥方」などを使って「時代色」を出したら噴飯ものでしょう。村上チャンドラーではないけど、チャンドラーから百年ほど昔のコリンズを訳すんです、落語歌舞伎もあったもんじゃない。翻訳者がもっとも適切と思える「コリンズの時代と言葉」を作るしか仕方ないでしょう。

ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』をみると面白いですよ。冒頭の第1章から、牧師館の主婦が夫の牧師さんに“My dear Mr. Bennet, have you heard ……”と呼びかけているのです。「ねえ、あなた」と訳してもいいし、藤岡訳だったら「あなたどうお思いになって? ミスター・ベネット、……という話なんですよ」になってしまう。オースティンは今から200年前の人だったけど。

―― 「わたしの新訳」に挑戦しましょう ――

本誌は「翻訳者の登竜門」です。読者の皆さんの翻訳作品を「わたしの新訳」欄に積極的に推薦します。条件は「本誌の読者」であること。この「公開講座 プロになるぞ!」をはじめとして、「翻訳勝ち抜き道場」を担当されている斎藤静代さんや新しく「入門翻訳勝ち抜き道場」を担当される藤田優里子さん、「部屋」をもたれている原田勝さん、岩坂彰さんの愛読者・講座登録者が、「私の翻訳を読んでほしい」と希望されれば、本講座の藤岡先生が原文・翻訳を読み、一応のレベルに達していると判断したら(あるいは何回かダメをだして改訂をしてもらってから)本誌の編集部に推薦して、掲載を依頼します。条件は、あなたが新人で、これまで公けの媒体に翻訳を発表したことのない人(原稿料・翻訳料をもらった経験のない人)。翻訳する作品は、版権がない(原則没後50年たった)英米作家の文芸作品で、短編小説かエッセイ。サキ、O・ヘンリー、ビアスなどの短篇作家には、新しい翻訳が望まれていますよ。ハーディーやD.Hロレンスにも短編があります。

応募を受けて推薦しない場合、その旨を伝えします。

手をつけている作品がありますか? 新刊の版権フリー本だけが市場ではありませんよ。編集部宛てに「自己紹介」と翻訳する作者(作品)を教えてください。手順を案内します。

新企画、ぞくぞく

この欄でご紹介させていただいた北海道在住の「みゅうの母」さんこと佐藤志敦(さとうしのぶ)さんのバーネット夫人『わたしのロビン』。奥津絵葉さんの素敵な文章とともに掲載し、大変好評でした。みなさまも、あたためている企画がある、大好きな作家のわたしなりの新訳をした、など、発表したい作品があったら編集部までご連絡下さい。佐藤さんからは、次回作の企画書の提出もあり、今、一緒に練っているところです。また、他の方々からの企画書も検討中。『わたしの新訳』コーナーは、にぎやかになりそうです。翻訳したものがある、翻訳したからには誰かに読んでもらいたい、けど、自信がない、はずかしい…などと躊躇している方。心配しないで下さい。藤岡先生が的確なコメントとアドバイスをくださいます。

ここで、藤岡先生が佐藤さんに宛てたフィードバックの一部を紹介します。これから挑戦されることを検討していらっしゃるみなさまに、参考にしていただければ幸いです。

藤岡先生コメント(抜粋)

  • 提出していただいた翻訳は、翻訳コンテストでは優秀作でしょうが、でも、これを翻訳者が実名で発表するとなると、もうひと工夫ふた工夫がほしくなります。登竜門への挑戦です。頑張りましょう。
  • (藤岡先生の)参考訳をよくごらんください。翻訳しながら悩んだこと、迷ったことへの回答があるでしょう? 英文解釈もさることながら、この作品は低学年の子供たちが読むものです。こどもの読解力に迎合してやさしくするのではなく、一定の語彙・表記・表現の幅を踏まえながら、子供たちに日本語の正しい発想で読み書きすることを教えなければなりません。いわゆる「翻訳臭」を徹底的に避けます。基本的には、みゅうの母さんの日本語は温かく、すてきな感性を表しています。
  • 語りかける作家の姿勢は?ここで翻訳者は「翻訳者」でなく、日本の作家にならなければ駄目でしょうね。参考訳は一案で、他にもいろいろ考えられるところです。この商品の「決め手」になるでしょう。

このほか、原稿のフォーマットについての指示など丁寧なアドバイスをしています。
藤岡先生の参考訳は、A4 一頁に及び、訳文を改訂する際に十分な量の訳例を提示しています。
どうぞみなさん、果敢に挑戦してください。お待ちしております。

編集部記

2009年11月16日号