藤岡啓介の翻訳玉手箱 第3篇
公開講座 プロになるぞ!! 第10回
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■だから、時代背景を知らなければ
前回の「番外その5」で、眠り姫がどうしてwatchが「(腕)時計」でなく「懐中時計」なのか、気がつかなかった、と嘆いていました が、これなんか、まさに翻訳者心得番外編ですね。物語を書いているコリンズがどの時代の作家であったかを念頭に読んでいれば、電話も自動車も飛行機もない時代で、時計もまだ「懐中時計」だった――と、威張ってみるのですが、眠り姫さんだけでなく、偉い先生と目されている翻訳者が、とんだ時代錯誤の翻訳をしていることがままありますから、ここはおとなしく「日ごろの読書で気をつけて」くらいのアドバイスにしておきます。
■袂時計が『道草』に
たまたま今年に入って『三四郎』『それから』『門』と漱石を読み継いで『道草』を読んでいた時『袂時計(たもととけい)』という時計がでてきました。これが懐中時計で、明治がほどなく大正なるという時代のことです。(懐中時計は紳士の持ち物で、日本でも明治生まれの紳士でしたら、終生大事に使っていたはずです。)
――彼は自分の脈を取って見て、その早いのに驚いた。指頭に触れるピンピンいう音が、秒を刻む袂時計の音と錯綜して、彼の耳に異様な節奏を伝えた。それでも彼は我慢して、するだけの仕事を外でした。(『道草』)
漱石を読むだけで、極端にいえば巻末にある「注」を見るだけで、明治の文物のことが分かります。電燈、電話、電車(市街)、人力車、建売住宅、書生、おさんどん、和服(半襟、襦袢、とんび、etc.)、洋服、足袋、下駄、銭湯、芝居などなど、日常生活の様子が語られていて面白いですよ。人力車の車輪にゴムが巻かれるようになった、という話など、あの時代の新聞の読者には新しいご時世だったのですね。
漱石といえば、昭和40年、見事な編集、用紙・印刷、造本の『漱石全集』が出たのですが(岩波書店)、このとき、巻末に大々的に(大げさに)語注を加えていました。「なんだい、おさんどん、書生、車夫にも注を振るのかい、こんな言葉が分からなくなるなんて、明治も遠くなりにけりだな」と嘆いたものですが、それから半世紀はたっています。語注があっても漱石そのものが読まれていないかもしれません。
■もしも漱石が八十歳までご存命であったなら
といっても、コリンズだってそうじゃないか、一五〇年は昔のことだ、シェイクスピアはどうだ、あれは四〇〇年も昔だ、訳したって読む奴なんていないよ、見栄で手にはするが本気で読むものか、ヤーメタ。でも待てよ、もし漱石が一九一六年に亡くならず、五十歳ではなく八十歳まで生きたとしたら、米騒動、龍之介の自殺、関東大震災、満州事変、太平洋戦争、広島・長崎への原爆投下を知っていたのです。もしかしたら進駐軍のアメリカ青年と話をして、耳新しい米語に仰天していたかもしれません。太宰治の玉川上水入水自殺だって新聞で読んでいたかもしれません。(このたとえは、ぼくの竹馬の友近藤忠道がふと漏らした言葉の受け売りですが、こういう風に考えると、人物・時代の見方が変わってきますね)。
■耽読、乱読、多読、雑読のすすめ
翻訳者にとって耽読、乱読、多読、雑読、本を読むことが大切です。「あなたは本を翻訳しているのだから、あなたの訳した本を他人に読んでもらうのだから、日ごろ、何をおいても本、本、本の暮らしをしないとおかしいぞ」、とこれは年来の持論ですが、たとえばW.コリンズを読んでいると、夫婦ものがウィーンの郊外をdriveする情景 があります。これは自動車ではなく馬車での散策です。bootsは「ブーツ、半長靴」であったり「ホテルの雑役夫、下男、下僕」です。
■網野史学が炸裂!!
翻訳を心がけていると、こうした言葉が気になり、記憶に残るようになります。そこが普通の読者と違うところでしょう。
ところで、人と会うと、「今何を読んでいるの?」ときいています。すいぶんと子供のときからのことで、こうきいたからといってすぐその本を読むのではなく、これは挨拶だったのですね。その人の書斎を訪れるような、訪れて「あなたの脳細胞探訪」をするような習慣ですが、他人にきけば自分もきかれる。そこで、いつでも答えられるよう記憶に整理しておくのですが、その例をお見せしましょう。この1か月くらいの間の「わが書斎」です。いわゆる仕事の本もあるし、他人から教えられて読みだしたほんもあります。
『日本の歴史00 、01』(網野善彦 他)、”The Woman in White
”(W. Collins), “The Haunted House
”(C. Dickens)、“Mugby Junction
”(C. Dickens)、『山岸徳平校注 源氏物語』、『アーサー・ウェイリー英語訳
佐復秀樹日本語訳 紫式部源氏物語』、『江戸文学問わず語り
』(円地文子)、『イングランド紀行
』(プリーストリー、橋本槇矩訳)、『回想のブライズヘッド
』(E.ウォー、小野寺健訳)、“The Alchemist’s Kitchen”(Guy Ogiluy,
藤岡啓介訳、4月刊行予定)、『上海
』(横光利一)、『明暗
』(夏目漱石)、『ブリタニキュス ベレニス
』(ラシーヌ、渡辺守章訳)、『死体とご遺体
』(熊田紺也)、『団十郎と歌右衛門
』(中川右介)、『訓読みのはなし』(笹原宏之)、『ガウディの伝言
』(外尾悦郎)、『文章は接続詞で決まる
』(石黒圭)、『チャールズ・ラム伝』 (福原麟太郎)、『ハチはなぜ大量死したのか
』(R.ジェイコブセン、中里京子訳)、『高嶋あき歌集 蜻蛉』
これが、順不同、眼についた順ですが、わが机上、周囲、寝室にある本で、読んだもの、感銘に浸っているもの、これから読むもの、買ったはいいがいつ読めるかな、と危ぶんでいるもの――少しも系統だっていない、まさに典型的な乱読・雑読、少々イカレテいるようですが、本人に言わせれば、案外と筋が立っている、それどころか、必然性のある「選択」なのです。いただいた四点を除き、あとは乏しいお小遣いで買っているのですから、当然といえば当然ですね。そのいただいた四点も、当然ぼくが読まなければならなかったもの。
■翻訳者必読の『源氏』
中でも『アーサー・ウェイリー英語訳 佐復秀樹日本語訳 紫式部 源氏物語』だけは別格で、翻訳者なら、ぜひとも座右に。いろいろと文明論も併せて「翻訳とは何か」を考えてしまう(考えさせてくれる)立派な仕事です。佐復さんの訳者あとがきを読まれれば、この訳書のもつ意義が分かるし、翻訳者の苦心も理解できますが、もっとも敬意を払うべきはこの企画を実現させた平凡社の編集者ですね。出版不況と言われる中、すごい仕事をされました。参考につけ加えると、五十嵐力『国語の愛護』(講談社学術文庫)があって、ここに「ウェーリー氏の『英訳源氏物語』を読む」という章があります。佐復さんの解題といっしょに読むと、源氏の現代語訳が世界的に、近代文学としてどのような意味をもつものか、「翻訳という作業そのもの」の意味が理解できるでしょう。
円地文子さんの本を読むと、『雨月物語』、『南総里見八犬伝』をのぞきたくなるのですが、頼りの岩波文庫でも秋成、馬琴は品切れのようです。どうして円地文子なのか? といえば、上田万年博士のお嬢さんで、与謝野晶子同様に幼いときから日本の古典を読まれて、ついには源氏まで口訳された才媛、ぼくの教養など生まれ変わったとしてもとうてい及ばない方だから、ときにはこうした先人に教えを請わなければならない、という思いがあるのです(事実、今回は近松、西鶴も読め、と教えられています)。対照的な教養の持ち主である福原麟太郎先生の『ラム』は何度目かの通読のため。こういうとクリスチャンに叱られるかもしれないけど、礼拝堂にこもるような気持で福原ラムに接しています。
このほかもう既読書の棚に振り分けていますが、『爆笑問題のニッポンの教養』シリーズも福岡伸一、上田泰巳さんの2冊を読み、今度は発生生物学、渋滞学を読もうかと。すごいすごい、学問の最先端、刺激的といえばあまりにも刺激的!! みんなノーベル賞をもらうべき研究じゃない!!
またまた脱線。話を変えていよいよ講座に移ります。こうしたとき、閑話休題、といいますね。「かんわきゅうだい」と読んでもいいのですが、円地文子さんは「あだしごとはさておきつ」とルビを振っておられます。これ大和言葉、含蓄のあるいい言葉ですね。(大昔の受験参考書で、「閑話休題、ところで、そうはいっても」のつなぎの言葉で、not to change the subject, but……という常套句を教えていたけど、今でも使っているのかしら)。
今回も、講座の進め方を変えてみました。
■疑問が山ほど浮かんでくる
まずtext:09の原文、それから「眠り姫訳」「ビュシーノ訳」と掲げます。「解題」と「藤岡訳」は次回として、今回は読者のみなさんがそれぞれ課題訳を作成されるのを期待して、それぞれのセクションにコメントを挿入します。がんばってください。(ちなみに、次回掲載しますが、藤岡訳はほぼ1時間で訳了しています。訳したものを「眠り姫」「ビュシーノ」の二人の課題訳と並べて、しばらく唸っています。ここをどうしてこう訳したのか? 他の言葉が浮かばなかったのか? 英語そのものが分からなかったのか? 問題は日本語の語彙なのか? などなど、疑問が山ほど浮かんできて、それに対する解題もこれまた山のように現れます。これが1週間続くときもあれば、数時間で「講座」を書き始めることもあります。今回は、その前段、「疑問が山ほど浮かんでくる」ところですね。
Text 09:
Mr. Meadowcroft's invalid chair had been wheeled to the head of the table. On his right-hand side sat his sad and silent daughter. She signed to me, with a ghostly solemnity , to take the vacant place on the left of her father. Silas Meadowcroft came in at the same moment, and was presented to me by his brother . There was a strong family likeness between them, Ambrose being the taller and the handsomer man of the two. But there was no marked character in either face. I set them down as men with undeveloped qualities, waiting (the good and evil qualities alike) for time and circumstances to bring them to their full growth.
The door opened again while I was still studying the two brothers, without, I honestly confess, being very favorably impressed by either of them. A new member of the family circle , who instantly attracted my attention, entered the room.
He was short, spare, and wiry; singularly pale for a person whose life was passed in the country. The face was in other respects, besides this, a striking face to see. As to the lower part, it was covered with a thick black beard and mustache, at a time when shaving was the rule, and beards the rare exception, in America. As to the upper part of the face, it was irradiated by a pair of wild, glittering brown eyes, the expression of which suggested to me that there was something not quite right with the man's mental balance. A perfectly sane person in all his sayings and doings, so far as I could see, there was still something in those wild brown eyes which suggested to me that, under exceptionally trying circumstances, he might surprise his oldest friends by acting in some exceptionally violent or foolish way. "A little cracked"--that in the popular phrase was my impression of the stranger who now made his appearance in the supper-room.
ご覧のように、翻訳するとなると、この小説でもとくに厄介な部分です。新たな人物が登場するのですが、それも只者ではない、この小説の重要人物の一人なのです。もし翻訳力テストをするとしたら、この辺が格好の課題になるでしょう。
二人の訳文では吹き出しのコメントでなく、気になった箇所を赤字で示すだけにしました。
眠り姫訳:
メドウクロフト氏の坐っている車いすはテーブルの前のほうへと動かされ、彼の右側には悲しげで無口な娘が坐っていました。その娘はメドウクロフト氏の左側の空いている席につくように、私にとてもちいさな声で厳粛に合図をしました。それと同時にシラス・メドウクロフトがやって来たので、アンブローズは私を紹介しました。彼らは似ているところがあり、強い絆で結ばれている家族でした。アンブローズはシラスより背が高くてハンサムなのですが、ふたりの顔にはこれといって特徴はありませんでした。私はそのふたりを、じゅうぶんに成熟するための時間と状況、同様に幸福と不幸を待っているような未熟な性格の人物だとみなしました。
私がこの兄弟をまだじっくりと観察している最中に、ふたたび扉が開きました。私はこのふたりからまったく良い印象をうけなかったことを正直に告白します。一家の新しい一員が部屋の中に入ってきて、私はすぐにその人物に興味を持ちました。
彼は背が低く、やせているけれどもたくましく、奇妙なことに、田舎で生活をしてきた人間のわりにはとても青白かった。それに加えて、人目を引く顔をしていることに気づきました。顔の下半分についていえば、アメリカで髭そりがしきたりになっていて、あご髭が珍しかった時代に、黒色の濃いあご髭と口髭をはやしていました。顔の上半分については、野性的で茶色のきらきらと輝く目をしており喜びに輝いていました。そしてこれらの表情から、どこか精神的にバランスを崩しているにちがいないと感じました。私が見る限りでは、彼はすべての言動においてまったく良識のある人間だけれども、野性的な茶色の目にはまだ何かがあり、とても腹をたてると、かなり凶暴な、あるいは愚かな振る舞いをしていちばん古くからの友人たちを驚かせるかもしれないと思いました。「少しいかれている」-これが世間でよく使われている表現のなかで、夕食を食べる部屋にいま現われた見知らぬ者への私の印象でした。
ビュシーノ訳:
メドウクロフト氏の乗った車椅子はすでにテーブルの上席に着いていた。その右側にはあの悲観的でひどく無口な娘が坐っており、宗教的ともいえる厳粛なしぐさで私に父親の左側の席に着くようにと合図した。ちょうどその時、サイラス・メドウクロフトが食堂に入って来たので兄のアンブロ―ズが私たちをひき合せた。この兄弟は本当によく似ていたが、二人のうちではアンブローズの方が背も高く、顔立ちも整っていた。しかし兄弟共に、内面からにじみ出る個性がその顔に見あたらず、私の見立てでは、二人ともまだ精神的に成長しきっておらず、これから時間と経験が、善くも、悪くも二人の品性を仕上げて一人前になっていくところなのだ。
ドアが再び開いた時、私はまだこの兄弟の様子を見つめながら、正直なところ、二人ともあまり好きになれそうもないと思っていた。そこに入ってきた、初めて顔を合わせる内輪の人間に、私の注意は瞬時に引き寄せられた。
彼は背が低く痩せているのだが、筋骨はたくましくて、田舎で暮らしてきた人間にしては際立って色白だった。それはともかくとして、その顔といったら、目を見張るものがあった。まず顔の下半分だが、なんと黒くて濃い口ひげとあごひげで覆われていたのだ。その頃のアメリカではひげをそるのが常識だったし、あごひげなどめったに見かけない代物だった。顔の上半分はというと、狂気を含んだようなぎらぎらとした二つの茶色い目が光を放っており、その表情から私は男の精神バランスにどこか危ういものがあるような感じを受けた。見た限りでは言う事もやる事もすべてまったく正常な人間なのだが、その危険な茶色い目の中には何かがひそんでいて、ものすごく苦しい立場に追い込まれたら彼の一番古い友人達さえ驚愕するような、思いもよらない乱暴な行いや馬鹿げた事をしでかすのではないか、という感じがした。流行の言葉でいうなら「ちょっと、やばい奴」というのが今食堂に現れた見知らぬ人間に私が抱いた印象だった。
新しい提案です
本誌は「翻訳者の登竜門」です。読者の皆さんの翻訳作品を「わたしの新訳」欄に積極的に推薦していこうと 考えています。条件は「本誌の読者」であること。この「公開講座 プロになるぞ!」は当然ですが、「翻訳勝ち抜き道場」を担当されている斎藤静代さんや新 しく「入門翻訳勝ち抜き道場」を担当される藤田優里子さん、「部屋」をもたれている原田勝さん、岩坂彰さんの愛読者・講座登録者が、「私の翻訳を読んでく れ」と希望されれば、藤岡啓介が原文・翻訳を読みます。よかったら(あるいは何回か改訂をしてもらってから)本誌の編集部に推薦して、掲載を依頼します。条件は、あなたが新人で、これまで公けの媒体に翻訳を発表したことのない人(原稿料・翻訳料をもらった経験のない人)。版権がない英米作家の文芸作品で、短編小説かエッセイが対象作品。【この提案を真剣に考える】


























