入門翻訳勝ち抜き道場

翻訳玉手箱

藤岡啓介の翻訳玉手箱
公開講座 プロになるぞ!! 第3期
第9回
ウィルキー・コリンズ作『死者は生きていた』(第四章 その8)
――【text】をクリックするとテキスト全文が現われます――

藤岡啓介
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THE DEAD ALIVE
By Wilkie Collins
CHAPTER IV.
THE BEECHEN STICK.

送る言葉

この公開講座の「第3期」もいよいよ「送る言葉」の章になりました。モーモーさん、ヨシノスケさん、お疲れ様でした。これまで六人のお弟子さんを迎え、訳文、自問自答の感想をとおして、それぞれの人柄に触れることができ、ぼくも「世間」が広くなり、自分一人では気づかなかった英語の問題や日本語の表現で、ずいぶんと勉強することが出きました。ありがとうございます。

六人の新弟子を預かって、何か月か経ち、さぁ、これからは独り立ちだよ、武者修行に出ておいで、というわけですが、過去の四人のうち、一人は翻訳とは別の道に往き、一人は、語学は生かしていても文芸翻訳には手がまわらない、もう一人は己が道を歩むというのかな、藤岡さんと気が合わないようで、消息がつかめないでいます。いま、はっきりと武者修行に出て、再び道場に戻ってきたのが桜井則子さん。本誌WEBマガジン『出版翻訳』の『わたしの新訳』欄に『アンソニー・トロロープ自伝』を連載しています。もう、ぼくの手を離れた、と言っていいでしょう。

さて、モーモーさんとヨシノスケさんだ、なんという言葉を送ればいいのだろう。

○モーモーさんに中村白葉訳の『アンナ・カレーニナ』を読むようにすすめたのだけど

モーモーさんの翻訳は、半年前の入門時とそう変わっていない。丁寧に訳しているところがあるが、その割に見落とし、思い込みがある。いわゆるムラのある翻訳です。外国語がよくできる人にある特徴です。少し厄介な文章に出会うと、ここぞとばかり息をひそめて(集中して)訳すので、当然のことながら「原文」に負けてしまう。日本語が「息をひそめてしまう」のです。

具体的にどこが窮屈になっているのか指摘するのは難しいけど、たとえば前回のtext:30です。第4章の章末です。

モーモー訳:

「わかりました。ご一緒できたらいいんですが、今朝は仕事がありましてね。サイラスも自分の仕事があるんです。来た道を戻ったら庭に出ますよ。もっと遠くに行きたいなら、突き当たりの小門のゲートを開けると小道に出ます」

まったく深く考えもせず、わたしはたいへん愚かなことをしてしまった。言われたとおり引き返して、この兄弟を一緒に、厩舎の裏庭のゲートに置いてきてしまったのだ。

この翻訳では、読み手がどうにも調子に乗れない。言葉が(不必要なまでに)丁寧なのは別の議論として、

「サイラスも自分の仕事があるんです」
「この兄弟を一緒に、」

とくにこの部分が気になります。「サイラスに頼もうと思っても、彼には彼の仕事があるし」と発想するのが小説的だし、小説家コリンズだと思えるのですが、モーモー訳は不適切訳でも誤訳でもないけど、面白くない。「この兄弟を一緒に、」も「この兄弟二人を」と「二人」を加えた方がリズムがとれる。

原文を読み違えるような個所でなくても、上のように言葉足らずに読めてしまう。これを「息をひそめて、窮屈だな」というのです。次に同じ部分の藤岡訳を掲げますが、明らかに藤岡訳の方が「読ませる」でしょう。章の末尾にふさわしい、(次の章を予感させる)緊張感もあります。モーモー訳は5行180字、藤岡訳は5行184字、ほぼ等量ですね。

藤岡訳:

「それは残念、いっしょに散歩できたらよかったんですがね、今朝はぼくにはやることがあるし、といって、サイラスに頼むわけにいかないし。散歩なら、来た道を戻ればいいや、庭に出ますよ。その先に行けば、回転木戸があって、小道に出ますよ」

いかにも考えなしだった。とんでもない馬鹿なことをしてしまった。わたしは言われたように来た道を戻り、兄弟二人を厩舎のゲートに残してきたのだった。

そこで、モーモーさん、これからどうしよう?

英語も翻訳も忘れよう。この公開講座に参加することで、モーモーさん、すっかり緊張してしまった。「藤岡先生」を意識することで、くったくなく英語を読んでいた楽しい気分が吹っ飛んで、「上手に翻訳しよう」という緊張感が暗雲のように覆ってきた、いや、翻訳者が生涯で何度もぶち当たる「壁」につき当たっているのかもしれない。

そこで、猛暑の中だったけど、中村白葉訳『アンナ・カレーニナ』を読みなさい、とアドバイスしたのです。とにかく、文庫本でいえば最低でも四、五冊になる長い小説で、読みだしたら一気に読みたくなるもの、質のいい日本語、翻訳者が生涯をかけて原著者と対峙しているもの、というのが狙いで、たまたま白葉訳のトルストイを思いついたのですが、『戦争と平和』でもよかったし、宮本正清さんが何度も訳し変えたロマン・ロランの『魅せられたる魂』でも、もっと古いけど豊島与志雄訳『ジャン・クリストフ』でもよかった、とにかく、「脳細胞から、英語も翻訳も講座も追い出してしまえ」というわけです。モーモーさんが男の子だったら迷うことなく『モンテクリスト伯』なんだけど。

ときには、こうした試みをして「壁」を越えていきます。ぼくと付き合いのあった達人たちの話をきいても、異口同音に「翻訳が下手になる壁がある」といいます。それを乗り越えるために恋人と別れたり、蔵書を売り払ったり、転職したり、酒におぼれたりしたといいます。

今勉強中のコリンズですが、モーモーさん、今あなたの脳細胞には日本語(原稿用紙でほぼ3000枚)の雲がぎっしり詰まっていて、これまで培ってきた七面倒臭い翻訳論も構文・語法・語義の英語経験もなにもかも、もったいないけど、すっかり追い出されていますね。トルストイ、中村白葉、すばらしい世界ですね。この世界の住人になってコリンズを読むのです。きっと、こんな具合かな?

「なかなかやるね」「これはどうにかならないかい、三文小説になるよ」「なんだ、物知りぶっているのか」「ここは月並みだな」「うまいッ! ディケンズだな、泣かせるな」「調子よくリズムをとってるな、名文だ」「ここで、読者の興味をつないでいるな」「ここは遠慮するところではないのに」

どうですか? コリンズを読むモーモーさんの「基準」がトルストイと白葉になっているのです。学校のゼミではやらなかった原文の読み方ができませんか? 同じことはヨシノスケさんにも通じますね。

○ヨシノスケさんには辻邦生・水村美苗『手紙、栞を添えて』(ちくま文庫)を読むようにすすめましたが

ヨシノスケさんは上手い。たとえばモーモーさんのところで引用したtext:30の同じ個所を見てみると、

ヨシノスケ訳:

「そうですか。ご一緒できたらいいんですがね。今朝はやらなければならないことがありますので。サイラスも用事があるようだ。来た道をもどると、庭に出ます。その先へ行きたければ、突き当りの小門を抜ければ細道がありますよ」

わたしは完全に軽率だった。恐ろしく愚かなことをしてしまった。言われるまま来た道を引き返し、厩舎のゲートにあの兄弟二人を一緒に残して去ったのだ。

これだったらどこの翻訳教室も卒業です。気になるのは「その先へ行きたければ、突き当りの小門を抜ければ細道がありますよ」かな。せっかく「突き当たりの小門を抜ければ」とスマートに訳したのに、「その先に行きたければ」が変だな。言葉遣いの問題で、ここはモーモーさんに学ばなければならない。「その先を行くと」くらいがいいかな。

これまでヨシノスケさんの「翻訳後の感想文」を読んでいると、たとえば、

――May I die if …慣用的な表現なのかと思い調べましたが、辞書では見つかりませんでした。本当に死んでしまうというほど深刻なものではないのでしょうが、「絶対にわたしのステッキだ」など強く表現したかったのでしょうか。グーグルで検索してみると、大げさな表現で使われていることが多いように感じました。ここでは(色々試してみたのですが、わたしの考えついた訳では)大げさに訳すと唐突でしっくりこない感じなので、さらっと「わたしのステッキじゃないですか」としました。

という感想があります。せっかく「絶対に」と浮かんだものが、だんだんと平凡な発想になっていく。まだ負けていますね。モーモーさんが、catechismでルターの『小教理問答』や「禅問答」にまで藪を掻き分けていったのと同じですね。ヨシノスケさんが感じた「唐突でしっくりこない感じ」の方がコリンズなのですね。

ヨシノスケさんに読むようにすすめた、辻邦生・水村美苗『手紙、栞を添えて』(ちくま文庫)は、1996、7年に朝日新聞に連載された、往復書簡の形をとった小説の味わい方です。日本人にめったにないような教養のある二人の作家が、ちょっと得意げに、ちょっと遠慮勝ちに、それぞれの読書を語っています。

この本を読んで、ヨシノスケさん、「こんちくしょう、負けないぞ、読むぞ、訳すぞ、書くぞ」と叫びながら、いつか、辻、水村の名前を忘れるまで「奮闘」しましょう。若いヨシノスケさんにはまだ時間がある。

ヨシノスケさんから便りが来て、

――前回先生にお教えいただいた『手紙、栞を添えて』を読んでいます。このなかで話題にのぼった本を実際に読み、自分もこの文通に参加しているつもりで、じっくり時間をかけて読みたいと思います。

と、あったけど、分かってくれましたね。翻訳の勉強は、「読み、解き、訳す」で、これに「書く」も入れるかな。「読み」では原書だけではない、いや原書の何倍かの本を読まなければいけない――これをつめてぼくは近頃は「恋愛小説を読もう」と叫んでいます。まず、楽しまなければ。

もう一度、ヨシノスケさんの言葉を引用します。

――屋根裏部屋にあこがれたり、砂漠ってどんなんだろう、海賊って、魔女って……? とにかく本を読むことが楽しくて、自分では経験できないことを経験した気になったり、貧乏にも金持ちにもなれるし、性別も国籍も関係なく、物語の中に入り込む。 そういう本の世界に携わりたくて翻訳家を目指していたのに、最近では「読書は勉強のため」とばかり考え、楽しいという気持を忘れてしまうことさえありました。 自分の訳文を後から読み返してみて、「上辺だけで薄っぺらいなあ」と感じることがあるのですが、原作に入り込んで溶け込むことができていなかったんだと思います。(上手く表現できないのがもどかしいのです……)

ヨシノスケさん、分かっているな。もちろん、モーモーさんも出来ている、二人は武者修行に出るけれど、それぞれの個性を生かして強気で歩んでください。まずは本誌の『わたしの新訳』への挑戦だな。訳文が10頁から15頁程度の短篇を探して、本名で訳そう。この間に、改めて「企画書作り」の勉強だ。いい本を見つけなくては。

―― 「わたしの新訳」に挑戦しましょう ――

本誌は「翻訳者の登竜門」です。読者の皆さんの翻訳作品を「わたしの新訳」欄に積極的に推薦します。条件は「本誌の読者」であること。この「公開講座 プロになるぞ!」をはじめとして、「翻訳勝ち抜き道場」を担当されている斎藤静代さんや新しく「入門翻訳勝ち抜き道場」を担当される藤田優里子さん、「部屋」をもたれている原田勝さん、岩坂彰さんの愛読者・講座登録者が、「私の翻訳を読んでほしい」と希望されれば、本講座の藤岡先生が原文・翻訳を読み、一応のレベルに達していると判断したら(あるいは何回かダメをだして改訂をしてもらってから)本誌の編集部に推薦して、掲載を依頼します。条件は、あなたが新人で、これまで公けの媒体に翻訳を発表したことのない人(原稿料・翻訳料をもらった経験のない人)。翻訳する作品は、版権がない(原則没後50年たった)英米作家の文芸作品で、短編小説かエッセイ。サキ、O・ヘンリー、ビアスなどの短篇作家には、新しい翻訳が望まれていますよ。ハーディーやD.Hロレンスにも短編があります。

応募を受けて推薦しない場合、その旨を伝えします。

手をつけている作品がありますか? 新刊の版権フリー本だけが市場ではありませんよ。編集部宛てに「自己紹介」と翻訳する作者(作品)を教えてください。手順を案内します。

英語圏以外の知られざる作品も

ドイツ語翻訳者のたかおまゆみさんの『ヤギ飼い少年 モニ』は、ヨハンナ・シュピリの隠れた名作です。「隠れた」というのは、『ハイジ』に隠れて、あまり一般には知られていない、といった意味ですが、そういった、英語以外の古典新訳も受け付けています。あなただけのとっておきの名作を発表しませんか?藤岡先生が的確なコメントとアドバイスをくださいます。藤岡先生によるフィードバックの一部をご紹介します。これから挑戦されることを検討していらっしゃるみなさま、参考にしてください!

藤岡先生コメント(抜粋)

  • 提出していただいた翻訳は、翻訳コンテストでは優秀作でしょうが、でも、これを翻訳者が実名で発表するとなると、もうひと工夫ふた工夫がほしくなります。登竜門への挑戦です。頑張りましょう。
  • (藤岡先生の)参考訳をよくごらんください。翻訳しながら悩んだこと、迷ったことへの回答があるでしょう? 英文解釈もさることながら、この作品は低学年の子供たちが読むものです。こどもの読解力に迎合してやさしくするのではなく、一定の語彙・表記・表現の幅を踏まえながら、子供たちに日本語の正しい発想で読み書きすることを教えなければなりません。いわゆる「翻訳臭」を徹底的に避けます。基本的には、みゅうの母さんの日本語は温かく、すてきな感性を表しています。
  • 語りかける作家の姿勢は?ここで翻訳者は「翻訳者」でなく、日本の作家にならなければ駄目でしょうね。参考訳は一案で、他にもいろいろ考えられるところです。この商品の「決め手」になるでしょう。

このほか、原稿のフォーマットについての指示など丁寧なアドバイスをしています。
藤岡先生の参考訳は、A4 一頁に及び、訳文を改訂する際に十分な量の訳例を提示しています。
どうぞみなさん、果敢に挑戦してください。お待ちしております。

編集部記

2010年10月12日号
(第4巻171号)