藤岡啓介の翻訳玉手箱
公開講座 プロになるぞ!! 第3期
第7回
ウィルキー・コリンズ作『死者は生きていた』(第四章 その7)
――【text】をクリックするとテキスト全文が現われます――
THE DEAD ALIVE
By Wilkie Collins
CHAPTER IV.
THE BEECHEN STICK.
ヨシノスケさん、川遊びするんだ!
「課題訳」の期日がくると、二人のお弟子からメールが来て、そこにちょっとした挨拶を書いてくれる。前回モーモーさんの文章を掲げて読んでもらいましたが、今回はヨシノスケさん。いろいろと「猛暑、残暑、炎暑見舞い」をいただくけど、「川遊び」はなかった。ご隠居さんは鎌倉の滑川の交差点で、ここなんだな、他ではない、信号の変わり目にいきなりにょきにょき地面から生え出してくる「脚たち」に目を奪われて……。そうなんだ、交差点では車からの目線がついつい下を向いているんだ。
時候の挨拶を調べてみると、八月の例に「暑さもようやく峠をこしたようで……」「朝夕はずいぶん過ごしやすくなり……」などとありましたが、まだまだ厳しい暑さの毎日です。
昨年までは、新潟の実家が海のすぐ近くでしたので、毎日愛犬を散歩させながら夏の海を楽しんでいたのですが、今年は海のない埼玉に越してきたので、川へ行ってきました。
小魚や小エビ、どじょうをつかまえてきて、飼っています。元気に泳ぎまわる姿を見るだけで思わず笑顔になってしまいますが、魚たちは狭い水槽に入れられてどんなことを考えているのでしょうか。ディズニー映画『ファインディング・ニモ』のニモのように親と離されて悲しんでいる魚もいるのでしょうか。かわいそうな気もしますが、もう連れてきてしまったのだから、大切に育てたいと思っています。
それにしても、どじょうの泳ぎ方や小エビのえさの食べ方は、本当にかわいいです。
ヨシノスケ拝
さて、勉強です。text:29ですが、3パラグラフに分割して解説します。全文は【text:29】をクリックしてください。今回は文章ごとに「藤岡式文節区切り対訳法」に準じた訳文を添えました。吹き出しのコメントも加えています。ヨシノスケさん、モーモーさん、次回のtext:30で武者修行に出ます。だんだん思い切った翻訳ができるようになってます。先が楽しみですね。
text:29-1
I left it to the man of the wild brown eyes to speak first.
"In half an hour's time, sir," he said, "I shall be going on business to Narrabee, our market-town here. Can I take any letters to the post for you? or is there anything else that I can do in the town?"
I thanked him, and declined both proposals. He made me another deferential bow, and withdrew into the house. I mechanically followed the path in the direction which Silas had taken before me.
彼が話しだすのに任せる、彼が話すのを待つ、難しいや
解題:
I left it to the man of the wild brown eyes to speak first.:わたしは、それ(口をきくこと)を野蛮な(野卑な)茶色の眼をした男(ジェイゴ)にゆだねた。
itはto speak first。いい争いがあって、ステッキを振り上げたサイラスが去り、残ったジェイゴと仲裁したルフランクが、少し間をおいて向かい合うところです。
「最初に口を切る」、「話しだす」、「口を開く」、「口火を切る」など思いつくでしょうが、軽く「先に話しだす」がいいかな。動詞leaveは、「(人にことを〉任せておく, 任せる, 預ける, 頼む)という」という意味ですから、「間の悪い思いで向かい会っていたが、うまい具合に彼の方で口を開いた」。ここでは、彼に話させるのではなく、彼が話すのを待つ、のが自然な発想です。でも、そうは考えても、と翻訳者は苦闘します。
モーモーさん:
――“left” は、辞書にある「~を(人に)任せる」のままだと堅苦しい感じがして、いろいろ考えました。「男が話し始めるのを待った」にしようかと思いましたが、それでは少しニュアンスが変わってしまうかもしれないのでやめました。
ヨシノスケさん:
――直訳では「わたしはその男に、最初に話すことをゆだねた」でしょうか。状況として、ジェイゴと二人残されて、どことなく居た堪らなくなって、めくばせしたりなんかして、ちょっとの後に話し始めたのではないか、と想像したのですが、「わたし」を主語にもってこようとすると良い表現がうかばなかったので、「ジェイゴが話の口火を切った」としました。これでは、ジェイゴが「待ってました」とばかりにべらべら話し始めた様子で、気まずい雰囲気が出ていないと思います。そもそも、ジェイゴの性格からして、気まずさなど感じていなかったのでは、とも思うのですが、どうでしょうか。
二人とも状況をよく読んでいます。感覚的には「このままではばつが悪かった」という気持ちです。二人の解釈を読んでいると、舞台の演出家のようです。そうですね、翻訳者は舞台装置から衣装から台詞まで、何から何まで考え抜いて「作品」に仕上げているんです。
講座の第1期ですが、ジェイゴのことをthe man of the wild brown eyesと同じ言葉で書いています。ヨシノスケさんは「brown eyes は、(鳥の)鳶の印象とジェイゴの印象が合うと思ったので、『茶色の目』ではなく、『とび色の目』としてみました」とコメントしていますが、語感はどうかな?「とび色の目」は女性に冠したくならないかな。text:9では次のようになっています。
As to the upper part of the face, it was irradiated by a pair of wild, glittering brown eyes, the expression of which suggested to me that there was something not quite right with the man's mental balance. (で、顔の上半分はどうだろう。茶色をした二つの眼がぎらぎらと、野卑な光を放っていて、この表情をみて、何だかこの男の精神生活が常軌に外れているように思える。藤岡訳)
初登場のジェイゴを印象付けようと、上のように元気良く訳してしまいましたが、この男は好印象を与えていません。状況が異なるので同じ語句であっても繰り返す必要はないのですが、「精神的なバランス」が崩れているかも知れないので、
――また、”wild” も、「野蛮」だけでなく、本当にたくさんの意味があるのですね。
ここでは、喧嘩の後でまだ興奮しているでしょうし、「狂気を宿らせた」としてみました。
というモーモーさんのコメントがもっともかな。
"In half an hour's time, sir," he said, "I shall be going on business to, our market-town here. :半時間のうちに、わたしは仕事でナラビーに行くつもりです(予定です)、ナラビーはわれわれの(この地域の)市の立つ町です。
何気ない文章ですが、ジェイゴがいつ、どこへ行くか、この事件の主要な伏線です。ヨシノスケさんが考えてくれました。
――market-townは、「農地の近隣にあり、大都会ではないという含みがある」と出ていました。ジェイゴは様々なことを馬鹿にしている感じがして、ここでも「わたしなんかにしてみれば大したことない町ですがね、あなたも都会から来られたんだからそう思われるでしょう、でもここの田舎者にとったら……、ねえ」という言葉が暗に匂っていると感じました。そこで「大都会ではありませんが」という言葉を足してみたのですが、少しやりすぎたでしょうか?
そうですね。ジェイゴは農場の雇われ管理人です。それにしては雇い主の一家である家族の人たちに対して敬意を払っていない、というのがヨシノスケさんを含めた読者の印象です。ロンドンから来たルフランクに一目置いている様子も、ヨシノスケさんと同じように受け取るでしょう。
赤毛のアンを思い出しちゃった!
Can I take any letters to the post for you? or is there anything else that I can do in the town?":なにか手紙があれば郵便局にもっていくことができますが、いかがですか?それともほかに、町でわたしにできることがありますか?
TVドラマだったか、『赤毛のアン』でたしか町の情報交換所である郵便局が描かれていましたね。手紙や小包を扱ったり、そのうえ噂話まで広めていたんですね。このコリンズの描くナラビーは十九世紀のアメリカです。残念ながらこの作品の中では、ナラビーがどの地方か具体的な記載がありませんが、1819年に米国ニューイングランドのヴァーモントで実際にあった冤罪事件をもとにしてこの法廷スリラーを書いたとされています。
I thanked him, and declined both proposals. He made me another deferential bow, and withdrew into the house. I mechanically followed the path in the direction which Silas had taken before me.:わたしは彼に感謝し、二つの提案を丁寧に断った。彼はわたしに向かって新しい(改めて)恭しくお辞儀をし、そして屋敷に入っていった。わたしはこれといった考えのあったことではないが、少し前にサイラスが歩んでいった方向に道をとった。
another deferential bow:anotherは「別の、新しい」で、ここでは「改めて」がいい。
mechanically:前回のtext:28に出てきました。そのとき、これを「機械的に」としたのですが、素直に「無意識に」とすべきでした。「これといってとりたてた理由があるわけではなかったが、何か気になることがあったのだろう、自然とサイラスを追うことになった」という「無意識」です。
ヨシノスケ訳:
とび色の目を血走らせて 、ジェイゴが話の口火を切った。
「半時間後、農場の用事でナラビーへ出かけます。大都会ではありませんが、ここらへんでは市が立つ町ですから 、手紙がありましたら投函してきましょう。それとも、ほかに何かわたしでお役にたてることはありますか」
わたしは礼を言い、どちらの申し出も丁重に断った。ジェイゴはもう一度恭しく頭を下げると、屋敷の中に引っ込んでいった。わたしは、無意識のうちにサイラスの消えた方へと歩いていた。
モーモー訳:
茶色い目に狂気を宿らせたジェイゴが先に口を開いたので、そのまま話を聞いた。
「半時間したら用事でナラビーへ行くつもりでしてね。市場が立つ、このあたりでは大きな町なんです。お手紙でも出してきましょうか? それとも何かほかに、町でわたしにできる用事がありませんか?」
わたしはありがとうと言ってから、両方の申し出を丁重に断った。ジェイゴはもう一度恭しく礼をすると、屋敷の中に引っ込んだ。わたしは何となく、サイラスが先ほど去った方へ道をたどっていった。
藤岡訳:
野卑で茶色の眼をしたジェイゴが先に口を開いて、
「あと半時間ほどで、仕事があってナラビーに行きます。この地方の市のたつ町です。手紙など、郵便局に用があったらどうぞ、それと、他に何か町ですることでもあれば」といった。
礼をいって、どちらの申し出も断った。ジェイゴはあらためて丁寧に頭を下げ、屋敷に入った。わたしはといえば、これという理由があったわけではないが、先刻、サイラスが立ち去った方に小道をたどった。
text:29-2
Turning the corner of the house, and walking on for a little way, I found myself at the entrance to the stables, and face to face with Silas Meadowcroft once more. He had his elbows on the gate of the yard, swinging it slowly backward and forward, and turning and twisting a straw between his teeth. When he saw me approaching him, he advanced a step from the gate, and made an effort to excuse himself, with a very ill grace.
解題:
Turning the corner of the house, and walking on for a little way, I found myself at the entrance to the stables, and face to face with Silas Meadowcroft once more. :屋敷の角を曲がって、少し歩いて行くと、厩舎の入り口に出たのに気付いた(入口にいる自分に気がついた)。そしてふたたびサイラス・メドウクロフトと顔を合わせた。
He had his elbows on the gate of the yard, swinging it slowly backward and forward, and turning and twisting a straw between his teeth. :彼は両肘を裏庭のゲートにおき、ゆっくりとゲートを前後に振っていた。そして、歯にくわえた麦わらを、くるくるひねっていた。
画像検索をしたら下の画像が出てきました。サイラスがひじを立ててゆすっていたゲートにしては立派すぎますが(柱の上部の横木が無ければいいかな)、母屋、裏庭、農場、牧場、厩舎などのある土地です。いろいろな仕切りがあったのでしょう。

When he saw me approaching him, he advanced a step from the gate, and made an effort to excuse himself, with a very ill grace.:わたしが彼に近づくのを見ると、彼はゲートから一歩前に出て、ひじょうに面目ないといった様子で、精一杯謝ろうとした。
麦わらを口にくわえて、というところで、ディケンズの『ボズのスケッチ』(情景篇)にある描写を思い出しました。粋な御者ですよ、サイラスとはだいぶ違うようですね。次に引用の文章は1836年に24歳のディケンズが書いたもの。コリンズも読んでいたかも知れません。

[ごく素朴で、好感のもてる顔をした辻馬車キャブリオレの御者で、コートを着ず、白のハットをかぶり、口ひげは茶で鼻はいつも赤く、彫師がたくみに刻み込んだような奥深いくぼみから、青い眼がきらりと浮き上がってみえた。ひざまでのコーデュロイの半ズボンをはいていて、そのズボンの裾までブーツを引っ張り上げていた。ブーツはウエリントン型、すこしばかり寸法が足らず、裾まではうまく伸びていなかったが、それはそれ、ときにはぴたりと合わさっていた。首にはいつも明るい黄色のネッカチーフをひっかけていた。 そして夏には口に一輪の花をくわえ、冬には、一本の藁しべ。わずかなことだが、自然を愛(め)で、草木の営みに感じ入る気持ちが表れていて、風流とはこのことをいうのかと感じ入っていた。――藤岡訳]
ヨシノスケ訳:
屋敷の角を曲がり、しばらく進むと、厩舎の入り口に出た。そこで再びサイラスと向い合った。サイラスは囲いの柵の上にひじをつき、口にくわえた麦わらを上下にゆっくりと動かしては、くるりとまわしていた。わたしが向かって来るのに気がつくと、柵から一歩こちらに寄ってきて、ひどく気が進まない様子で弁解を始めた。
モーモー訳:
屋敷の角をまがって少し歩くと、馬小屋への入り口に出て、サイラス・メドウクロフトと再び顔を合わせた。サイラスは庭の門扉の上に両ひじをつき、ゆっくり前後に揺らしていた。わらを一本口にくわえ、歯の間で回したり、よじったりしている。わたしが近づくのを見ると、門から離れてこちらへ歩を進め、渋々ながら何とか言い訳しようとした。
藤岡訳:
屋敷の角を回って少し歩くと、厩舎の入り口に出たのだが、ここで、ふたたびサイラス・メドウクロフトに対面することになった。裏庭のゲートにひじをつきゆっくりと前後にゆすっていた。藁しベを口にくわえ、くるくるよじっていた。わたしが近づくのを見ると、ゲートから一歩進み出て、いかにも気まずそうに弁解しだした。
text:29-3
"No offense, mister. Ask me what you will besides, and I'll do it for you. But don't ask me to shake hands with John Jago; I hate him too badly for that. If I touched him with one hand, sir, I tell you this, I should throttle him with the other."
"That's your feeling toward the man, Mr. Silas, is it?"
"That's my feeling, Mr. Lefrank; and I'm not ashamed of it either."
"Is there any such place as a church in your neighborhood, Mr. Silas?"
"Of course there is."
"And do you ever go to it?"
"Of course I do."
"At long intervals, Mr. Silas?"
"Every Sunday, sir, without fail."
Some third person behind me burst out laughing; some third person had been listening to our talk. I turned round, and discovered Ambrose Meadowcroft.
解題:
"No offense, mister. Ask me what you will besides, and I'll do it for you. But don't ask me to shake hands with John Jago; I hate him too badly for that. If I touched him with one hand, sir, I tell you this, I should throttle him with the other.":悪気でいったのでないよ、ねえきみ、あれ(握手しろ)だけは別にして、他のことをしろというのだったら、おれはそいつをやるからさ。だが、ジョン・ジェイゴと握手しろとおれに頼むのは駄目だ。あいつと握手するには、おれはあまりにもあいつを憎んでいる。手が彼に触れたら、もう一方の手で彼を絞め殺すだろう。
"That's your feeling toward the man, Mr. Silas, is it?":「それがあの男(ジェイゴ)に対するあんたの気持なのか?」
"That's my feeling, Mr. Lefrank; and I'm not ashamed of it either.":「おれの気持ちだよ、ミスター・ルフランク、そして少しも恥ずかしくない」
"Is there any such place as a church in your neighborhood, Mr. Silas?":「ミスター・サイラス、あんたの近くに教会のような場所があるかな?」
"Of course there is.":「もちろん、あるよ」
"And do you ever go to it?":「そしてあんたは礼拝に出席しているのか?」
"Of course I do.":「もちろん出ているよ」
"At long intervals, Mr. Silas?":「長い間隔をおいてかな、ミスター・サイラス」
"Every Sunday, sir, without fail.":「日曜ごとに、そりゃ、間違いなく」
Some third person behind me burst out laughing; some third person had been listening to our talk. I turned round, and discovered Ambrose Meadowcroft.:「日曜ごとに、そりゃ、間違いなく」
“I won't waste any more words on him, Mr. Lefrank, to please _you_. But (saving your presence) I'm d--d if I take his hand!" :だれか第三者がわたしの後ろで声高に笑いだした。そのだれか第三者はわれわれの話を聞いていた。わたしは振り返った、そして、アンブローズ・メドウクロフトを見つけた。
ここでヨシノスケさんがコメントを
――最後の二文、some third person という言葉が二回でてきますが、訳文でも同じ表現を繰り返して強調した方がいいのでしょうか。「第三者」などというと大仰すぎると思ったので、ここはさらっと訳してみたのですが、次の文のそこにアンブローズがいたというところもあわせて、この二つの文章はミステリー特有の「じゃじゃーーん」というような、次が読みたくてハラハラするような感じで訳す文だったのでしょうか。ここで章が変わるわけではないので、そこまで盛り上がるところではないと思ったのですが、どうでしょうか。
そのとおり、「と、このとき」と作者が力を入れたところですが、「第三者」を重ねることで済ませています。コリンズの感覚(文章法)ではこれでいいのでしょう。翻訳では、困ったな、面白くない。もしかしたら「third person=第三者、三人称」という言葉が当時の新聞記事などで、あるいは文法教育などで流行っていたのかもしれません。
ヨシノスケ訳:
「悪く思わないでください。他の頼みでしたらおっしゃる通りにしてさしあげるんですがね。ただね、ジェイゴのやつと握手しろなんてのはやめてください。あいつのことはどうも気に入らなくてね、さっぱりだめなんですよ。いいですか、こっちの手であいつに触ったとしますよ、そうしたらこっちの手があいつを絞め殺そうとするでしょうね」
「それがジェイゴに対するあなたの気持というわけですか、ミスター・サイラス」
「これがわたしの気持ですよ、ミスター・ルフランク。それにね、わたしはこの気持を恥じちゃいません」
「この辺りには、教会か何かないんですか」
「もちろん、ありますよ」
「そこに行くことは?」
「もちろん、あります」
「たまにですか?」
「毎週日曜日ですよ、欠かさずにね」
突然、背後から大きな笑い声が聞こえた。誰かが、わたしとサイラスの会話を聞いていたのだ。振り返ると、そこにはアンブローズがいた。
モーモー訳:
「悪気はなかったんですよ、ミスター・ルフランク。ほかに何かお望みなら言ってください。なんでもしますから。でも、ジョン・ジェイゴと握手することだけは勘弁してほしいな。あいつのことは憎くてたまらないから、とてもそんなことできやしない。もし片手が奴に触れたりしたら、いいですか、もう一方の手で絞め殺してしまいますよ」
「それが、ジェイゴに対する君の気持ちなんですね、ミスター・サイラス?」
「そうですよ、ミスター・ルフランク。それに、そのことを恥ずかしいとも思っていませんね」
「この近所に教会のようなところはありますか、ミスター・サイラス?」
「もちろん、ありますよ」
「教会へは、ちゃんと行ってますか?」
「もちろん、行ってます」
「たまにでしょう、ミスター・サイラス?」
「毎週日曜日ですよ、欠かしたことはありません」
わたしの後ろで、だれか別の人間がげらげら笑い出した。わたしたちの話を聞いていたのだ。振り返ると、アンブローズ・メドウクロフトがそこにいた。
藤岡訳:
「悪気はなかったんですよ。他の事ならなんだってあんたのいうとおりしますがね、でも、ジョン・ジェイゴと握手しろなんて、金輪際、あいつと握手なんてご免だな。もしも片手が奴に触れようでもしたら、もう一方の手で奴を締め上げてますよ」 「ジェイゴのことを、ほんとうにそう思っているの、ミスター・サイラス?」 「そうですよ、ミスター・ルフランク。手を出したら最後だな、どうしようと、恥ずかしかないね」 「あんたの近くに教会のようなところあるのかな、ミスター・サイラス」 「もちろんあるさ」 「通っているのかな?」 「もちろん、通っているさ」 「でも、だいぶ間をおいてだろうな、ミスター・サイラス」 「日曜ごと、そりゃ、欠かすことなく通ってる次第でござりまするよ」
私の後ろで、だれか第三者がぶふっと吹き出した。その第三者は、わたしたちの話を立ち聞きしていたのだった。振り向くと、アンブローズ・メドウクロフトだった。
さて、以上がtext:29の解題です。続いてヨシノスケ訳、モーモー訳、藤岡訳と並べます。翻訳の上達法では、何よりも「読み比べ」ですね。性別も年齢も、教育も仕事もまったくことなる三人の訳文で、あなたはだれが自分に「近い」と思うかな?
ヨシノスケ訳:
とび色の目を血走らせて、ジェイゴが話の口火を切った。
「半時間後、農場の用事でナラビーへ出かけます。大都会ではありませんが、ここらへんでは市が立つ町ですから、手紙がありましたら投函してきましょう。それとも、ほかに何かわたしでお役にたてることはありますか」
わたしは礼を言い、どちらの申し出も丁重に断った。ジェイゴはもう一度恭しく頭を下げると、屋敷の中に引っ込んでいった。わたしは、無意識のうちにサイラスの消えた方へと歩いていた。
屋敷の角を曲がり、しばらく進むと、厩舎の入り口に出た。そこで再びサイラスと向い合った。サイラスは囲いの柵の上にひじをつき、口にくわえた麦わらを上下にゆっくりと動かしては、くるりとまわしていた。わたしが向かって来るのに気がつくと、柵から一歩こちらに寄ってきて、ひどく気が進まない様子で弁解を始めた。
「悪く思わないでください。他の頼みでしたらおっしゃる通りにしてさしあげるんですがね。ただね、ジェイゴのやつと握手しろなんてのはやめてください。あいつのことはどうも気に入らなくてね、さっぱりだめなんですよ。いいですか、こっちの手であいつに触ったとしますよ、そうしたらこっちの手があいつを絞め殺そうとするでしょうね」
「それがジェイゴに対するあなたの気持というわけですか、ミスター・サイラス」
「これがわたしの気持ですよ、ミスター・ルフランク。それにね、わたしはこの気持を恥じちゃいません」
「この辺りには、教会か何かないんですか」
「もちろん、ありますよ」
「そこに行くことは?」
「もちろん、あります」
「たまにですか?」
「毎週日曜日ですよ、欠かさずにね」
突然、背後から大きな笑い声が聞こえた。誰かが、わたしとサイラスの会話を聞いていたのだ。振り返ると、そこにはアンブローズがいた。
モーモー訳:
茶色い目に狂気を宿らせたジェイゴが先に口を開いたので、そのまま話を聞いた。
「半時間したら用事でナラビーへ行くつもりでしてね。市場が立つ、このあたりでは大きな町なんです。お手紙でも出してきましょうか? それとも何かほかに、町でわたしにできる用事がありませんか?」
わたしはありがとうと言ってから、両方の申し出を丁重に断った。ジェイゴはもう一度恭しく礼をすると、屋敷の中に引っ込んだ。わたしは何となく、サイラスが先ほど去った方へ道をたどっていった。
屋敷の角をまがって少し歩くと、馬小屋への入り口に出て、サイラス・メドウクロフトと再び顔を合わせた。サイラスは庭の門扉の上に両ひじをつき、ゆっくり前後に揺らしていた。わらを一本口にくわえ、歯の間で回したり、よじったりしている。わたしが近づくのを見ると、門から離れてこちらへ歩を進め、渋々ながら何とか言い訳しようとした。
「悪気はなかったんですよ、ミスター・ルフランク。ほかに何かお望みなら言ってください。なんでもしますから。でも、ジョン・ジェイゴと握手することだけは勘弁してほしいな。あいつのことは憎くてたまらないから、とてもそんなことできやしない。もし片手が奴に触れたりしたら、いいですか、もう一方の手で絞め殺してしまいますよ」
「それが、ジェイゴに対する君の気持ちなんですね、ミスター・サイラス?」
「そうですよ、ミスター・ルフランク。それに、そのことを恥ずかしいとも思っていませんね」
「この近所に教会のようなところはありますか、ミスター・サイラス?」
「もちろん、ありますよ」
「教会へは、ちゃんと行ってますか?」
「もちろん、行ってます」
「たまにでしょう、ミスター・サイラス?」
「毎週日曜日ですよ、欠かしたことはありません」
わたしの後ろで、だれか別の人間がげらげら笑い出した。わたしたちの話を聞いていたのだ。振り返ると、アンブローズ・メドウクロフトがそこにいた。
藤岡訳:
野卑で茶色の眼をしたジェイゴが先に口を開いて、
「あと半時間ほどで、仕事があってナラビーに行きます。この地方の市のたつ町です。手紙など、郵便局に用があったらどうぞ、それと、他に何か町ですることでもあれば」といった。
礼をいって、どちらの申し出も断った。ジェイゴはあらためて丁寧に頭を下げ、屋敷に入った。わたしはといえば、なにという理由があったわけではないが、先刻、サイラスが立ち去った方に小道をたどった。
屋敷の角を回って少し歩くと、厩舎の入り口に出たのだが、ここで、ふたたびサイラス・メドウクロフトに対面することになった。裏庭のゲートにひじをつきゆっくりと前後にゆすっていた。藁しベを口にくわえ、くるくるよじっていた。わたしが近づくのを見ると、ゲートから一歩進み出て、いかにも気まずそうに弁解しだした。
「悪気はなかったんですよ。他の事ならなんだってあんたのいうとおりしますがね、でも、ジョン・ジェイゴと握手しろなんて、金輪際、あいつと握手なんてご免だな。もしも片手が奴に触れようでもしたら、もう一方の手で奴を締め上げてますよ」
「ジェイゴのことを、ほんとうにそう思っているの、ミスター・サイラス?」
「そうですよ、ミスター・ルフランク。手を出したら最後だな、どうしようと、恥ずかしかないね」
「あんたの近くに教会のようなところあるかな、ミスター・サイラス」
「もちろんあるさ」
「通っているのかな?」
「もちろん、通っているさ」
「だいぶ間をおいてだろうな、ミスター・サイラス」
「日曜ごと、そりゃ、欠かすことなく通ってる次第でござりまするよ」
私の後ろで、だれか第三者がげらげら笑い出した。その第三者は、わたしたちの話を立ち聞きしていたのだった。振り向くと、アンブローズ・メドウクロフトだった。
ヨシノスケ・コメント
毎回そうなのですが、今回は特に自分が読み取った(と思う)ことを思った通りに表現できずに、歯痒い思いをしました。
以前、「意味は分かるけど日本語に訳せないというのは、実際は理解できていないのだ」と聞いたことがあります。頭の中では情景が浮かんでいるのに、その通りに訳せない、訳してみると印象が違う……。
きっと、きちんと理解できていないということなのでしょうね。(それと、読書量が足りなすぎて、言葉・表現の蓄積が不足しているのもあると思います)
ヨシノスケさんは、文学ものに限らずさほど苦しまずに翻訳するんだろうな。センスがいいんだ。テキストによっては「過度の工夫」があって自分でも面白くない翻訳をするんだろうが、そうだな、ときには、ぼくがモーモーさんに勧めたように、翻訳を離れてなにか大きな読み物を読むといい。脳細胞を組み替えるんだな。ぼくは仕事の翻訳をするときは、それとまったく離れたところにある考古学、古代史を読んでいます。ヨシノスケさんのことだ、もう読んでいるかも知れないけど、ちょっとキザな名著(?)『手紙、栞を添えて』(辻邦生、水村美苗、ちくま文庫)があるけど、ここで語られている「名作」を全部読むのもいいかな。翻訳ものだけではない、紫式部、潤一郎、荷風、太宰などなど、日本文学もたくさん語られている。その読みぶり、語りぶりが、文章上達法になるかも。もちろん、とりあげている作品は全部読まなければ。
モーモー・コメント
サイラスの口調でも迷いました。もう少し砕けた感じの方が良かったでしょうか?
でも、途中で “mister” や ”sir” が入るので、先程よりかなり落ち着いて、丁寧に話しているのかなと想像しました。原文の雰囲気を感得するって、本当に難しいです。
中村白葉訳の『アンナ・カレーニナ』が届いたので、今読んでいるところです。
はじめは、旧い仮名遣いや漢字に戸惑いましたが、読んでいくうちに違和感も忘れて物語にのめり込んでいます。学生の頃読んだはずなのに、とても新鮮です。名作だからこそでしょうか、または、翻訳が違うから……ひょっとして私が変わったからでしょうか。そう言えば当時、英語の詩の講義の中で、英文学の先生が、「君たちみたいなヒヨッコに、この詩のエロスはわからないね。二、三回離婚してから、また勉強しにいらっしゃい」とおっしゃったのが、とても印象的で忘れられません。まだ読んでいる途中ですが、読み終わったときに、少しでも成長できていたら嬉しいです。
白葉先生の『アンナ・カレーニナ』を「暑気除け」になろうと勧めたのだけど、面白いかな、進んでいるかしら? 翻訳ではまず語学力と思うでしょうが、外国語がほんとうに理解できるはずはない。自分の持っている理解力、表現力がまずあって、それから言葉だ。モーモーさんがなかなか上達しないと嘆いていたので、英語、翻訳、勉強、の三つを忘れて、脳細胞にあふれるほど「言葉」を積み込んでみたらどうだろうと思ったわけ。それには積み込む言葉の「質」も考えなければ。モーモーさんは小野理子さんに学んだというから、小野さんが愛読したであろう中村白葉だったら、もしかして、深いところで翻訳を教えてくれるんではないかな。
~~夏の間に読んだ本をおしえてください!~~
フィクション、ノンフィクションいずれもOK。本のタイトルと著者名、出版社名、おすすめする理由を添えて以下の応募フォームよりご連絡下さい。締切りは、9月末。ご応募いただいた方みなさまの、おすすめ本とコメントを10月に一挙公開します。抽選で1名様にアマゾンギフト券1000円を進呈します。さてさて、どんな本のリストが出来上がるでしょうか。お気軽にご応募ください。お待ちしております!(編集部)
―― 「わたしの新訳」に挑戦しましょう ――
本誌は「翻訳者の登竜門」です。読者の皆さんの翻訳作品を「わたしの新訳」欄に積極的に推薦します。条件は「本誌の読者」であること。この「公開講座 プロになるぞ!」をはじめとして、「翻訳勝ち抜き道場」を担当されている斎藤静代さんや新しく「入門翻訳勝ち抜き道場」を担当される藤田優里子さん、「部屋」をもたれている原田勝さん、岩坂彰さんの愛読者・講座登録者が、「私の翻訳を読んでほしい」と希望されれば、本講座の藤岡先生が原文・翻訳を読み、一応のレベルに達していると判断したら(あるいは何回かダメをだして改訂をしてもらってから)本誌の編集部に推薦して、掲載を依頼します。条件は、あなたが新人で、これまで公けの媒体に翻訳を発表したことのない人(原稿料・翻訳料をもらった経験のない人)。翻訳する作品は、版権がない(原則没後50年たった)英米作家の文芸作品で、短編小説かエッセイ。サキ、O・ヘンリー、ビアスなどの短篇作家には、新しい翻訳が望まれていますよ。ハーディーやD.Hロレンスにも短編があります。
応募を受けて推薦しない場合、その旨を伝えします。
手をつけている作品がありますか? 新刊の版権フリー本だけが市場ではありませんよ。編集部宛てに「自己紹介」と翻訳する作者(作品)を教えてください。手順を案内します。
英語圏以外の知られざる作品も
ドイツ語翻訳者のたかおまゆみさんの『ヤギ飼い少年 モニ』は、ヨハンナ・シュピリの隠れた名作です。「隠れた」というのは、『ハイジ』に隠れて、あまり一般には知られていない、といった意味ですが、そういった、英語以外の古典新訳も受け付けています。あなただけのとっておきの名作を発表しませんか?藤岡先生が的確なコメントとアドバイスをくださいます。藤岡先生によるフィードバックの一部をご紹介します。これから挑戦されることを検討していらっしゃるみなさま、参考にしてください!
藤岡先生コメント(抜粋)
- 提出していただいた翻訳は、翻訳コンテストでは優秀作でしょうが、でも、これを翻訳者が実名で発表するとなると、もうひと工夫ふた工夫がほしくなります。登竜門への挑戦です。頑張りましょう。
- (藤岡先生の)参考訳をよくごらんください。翻訳しながら悩んだこと、迷ったことへの回答があるでしょう? 英文解釈もさることながら、この作品は低学年の子供たちが読むものです。こどもの読解力に迎合してやさしくするのではなく、一定の語彙・表記・表現の幅を踏まえながら、子供たちに日本語の正しい発想で読み書きすることを教えなければなりません。いわゆる「翻訳臭」を徹底的に避けます。基本的には、みゅうの母さんの日本語は温かく、すてきな感性を表しています。
- 語りかける作家の姿勢は?ここで翻訳者は「翻訳者」でなく、日本の作家にならなければ駄目でしょうね。参考訳は一案で、他にもいろいろ考えられるところです。この商品の「決め手」になるでしょう。
このほか、原稿のフォーマットについての指示など丁寧なアドバイスをしています。
藤岡先生の参考訳は、A4 一頁に及び、訳文を改訂する際に十分な量の訳例を提示しています。
どうぞみなさん、果敢に挑戦してください。お待ちしております。
編集部記
(第4巻167号)





























