入門翻訳勝ち抜き道場

翻訳玉手箱

藤岡啓介の翻訳玉手箱 第3篇
公開講座 プロになるぞ!! 第2期第6回
ウィルキー・コリンズ作『死者は生きていた』

藤岡啓介
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第一期で、第一章と第二章が終了しました。
藤岡先生の全訳はこちらです。
ウィルキー・コリンズ作、藤岡啓介訳 『死者 は生きていた』 [PDF 版]

text: 19

She stopped as the word passed her lips, looked back over her shoulder, and started violently.
I looked where my companion was looking. The dark figure of a man was standing, watching us, in the shadow of the elm-tree. I rose directly to approach him. Naomi recovered her self-possession, and checked me before I could interfere.
"Who are you?" she asked, turning sharply toward the stranger. "What do you want there?"
The man stepped out from the shadow into the moonlight, and stood revealed to us as John Jago.
"I hope I am not intruding?" he said, looking hard at me.
"What do you want?" Naomi repeated.
"I don't wish to disturb you, or to disturb this gentleman," he proceeded. "When you are quite at leisure, Miss Naomi, you would be doing me a favor if you would permit me to say a few words to you in private."
He spoke with the most scrupulous politeness; trying, and trying vainly, to conceal some strong agitation which was in possession of him. His wild brown eyes--wilder than ever in the moonlight—rested entreatingly, with a strange underlying expression of despair, on Naomi's face. His hands, clasped lightly in front of him, trembled incessantly. Little as I liked the man, he did really impress me as a pitiable object at that moment.

今回のtext:19は訳文の文字数でざっと650字、原稿用紙でいえば1枚半ほど、前回はA4で丸1頁、原稿用紙で4枚、しかもナオミのモノローグでしたから、だいぶ趣が異なっています。情景も、ここでは木陰に潜んでいた男が姿を現せて、ナオミにin privateで話がある、というのです。訳すとなると難しいですね。ただ辞書を追って訳すわけにはいかないことを、例の「文節区切り対訳法」で考えてみます。といって、文節ごとに並べるといたずらに行数が増していくので、一見、区切りのよいところで区切り、そのあとみかんみかん訳、ガブガブ訳、藤岡訳と続けてみました。逐語的に区切ってみた「文節区切り法」の訳文をみて、それを頭の中で変換していきます。翻訳の発想を鍛えることができると思います。

the wordがキーワードだった

でも、その前に前回text:18の末尾と藤岡訳を掲げておきます。この流れで話が進んでいきます。

text: 18

The main blame of the quarrel between Silas and John the other day lies at his door, as I think. I don't want to excuse Silas, either. It was brutal of him--though he _is_ Ambrose's brother—to strike John, who is the smaller and weaker man of the two. But it was worse than brutal in John, sir, to out with his knife and try to stab Silas. Oh, he did it! If Silas had not caught the knife in his hand (his hand's awfully cut, I can tell you; I dressed it myself), it might have ended, for anything I know, in murder--"

藤岡訳:

この間のサイラスとジョンの喧嘩だって、ご老人が原因なのよ。サイラスも、いえ、ジョンも、どちらも許そうとは思わないけど、サイラスが凶暴だったわ。アンブローズの兄弟だから贔屓したいけど、サイラスは自分よりも小さくて弱いジョンに一撃見舞ったのよ。でも、凶暴というならジョンの方がひどかったわ。ナイフでサイラスを突こうとしたんですもの。そうなったら、大変だったわ。サイラスがナイフを腕で受けたからよかったけど、きっと殺人事件になっていたわ。おかげで、サイラスは大怪我、そうなの、わたしが腕の手当をしたので、どんな怪我か、よく知っているの」

解題:

She stopped as the word passed her lips, looked back over her shoulder, and started violently.

文節区切り:

彼女は中断した、その言葉が彼女の唇を通過したので、肩越しに後ろを見た、そして、激しく驚いてぎくっとした。

the wordはtext:18の末尾にあるmurderですね。ナオミは「殺人、殺害、殺し」という、普段は口にしない言葉をいってしまって、はっと何かに気がついたのです。the wordにはそういう思いがあるので、ここでは原文と同じように、

――サイラスがナイフを腕で受けたので、サイラスは大怪我ですんだのよ。そうなの、わたしが腕の手当をしたので、どんな怪我か、よく知っているの。受け損じていたら、きっと事件になっていたわ、それも殺人――」

とした方がよかったかな。藤岡さんは「しまった!」と叫んで、不面目ながら上記のように訂正します。翻訳で定冠詞のtheを疎かにしないように、と講釈しているのですから、面目なんていっていられないですね。みかんみかんさんは、これとは違った「しまった!」でした。「何かを言いかけた」ではなく、もう口にしたのです。

改訂を恐れぬCobuildには版の違いがある

started violentlyで、みかんみかんさんは動詞がstartedではなくstaredではないか、「誤植だぞ!」と思い込んだようです。でも、さすが思い直して……

みかんみかん自問自答:

誤植かどうか悩むとき、いったいどうしたらよいのか。時間があればそれらしきところに問い合わせもできる。が、問い合わせたからといって、返答が返ってくる可能性は高いとはいえない。やはり信頼できる原書を持っていなければ……翻訳しようと思うなら、最善のテキストを手許においていないとダメなんだ!

しかし、英語であれ日本語であれ、言葉の森は広大で奥が深いので、とんでもない魔物が棲んでいそうだ。

startでCOBUILDをみたら明解でした。「ナオミはきっと睨みつけた」などと考えたのがいかに愚かであったかがよく分かりました。英和(ジーニアス大&リーダーズ)にもちゃんと説明してありましたが。

If you start, your body jerks as a result of surprise or fear.

violentlyをsuddenly にとらえると、すべてスッキします。「後ろを振り返ったとたん、びくっ、と身体を震わせた」。辞書を精読することを怠ったため、「誤植だ!」と悪態をつきました。大反省です。

以上が、みかんみかんさんの反省の弁です。本件でガブガブさんが「独り言」を。

ガブガブ独り言:

started violently:startは(Cobuild)によればIf you start, your body suddenly moves slightly as a result of surprise or fear. ここではナオミはベンチから立ち上がっているのかいないのか? violentlyという激しい言葉を使っているし、ランダムハウスには「思わず跳び上がる」(up)とある。後の「わたし」の行動と考え合わせると、立ち上がっていると取るのが自然だろう。ちなみに『しぐさの英語表現辞典』には記載なし。身体部位別になっていて、身体全体の動きがないのは片手落ちではないか? 「しぐさ」ではないということか――。

ここで、二人ともCobuildを使っているのに、語義の記事が違うとはどういうことか。版が違うかな? 手元にあるCobuild第3版ではガブガブさんの語義でした。問い合わせたらみかんみかんさんは1995年の第2版でした。Cobuildは刻々更新されていく膨大なデータベースから語義・語法を積極的に改訂している辞書ですが、みかんみかんさんの第2版で使用頻度の低い動詞jerkを使っているのを改めてmove slightlyとしたのでしょう。後者の方が国際的だといえますね。いずれにしても動詞startは難物です。ここでは「ギクッとする」がいいでしょう。「驚いて跳び上がる」としてもいいかな? でも、この状況で、「跳び上がる」かな? ぼくはおとなしく「ひどく驚いた様子をみせた」とましたが、困ったところです。

みかんみかん:

彼女は何かを言いかけたところで急に口をつぐみ、肩越しに後ろを振り返ると、そのとたん、びくっ、と大きく体を震わせた。

「体」もいいのだけど、小説だったら「身体」がいいな。

ガブガブ:

その言葉が口元からもれるや、彼女は話をやめ、肩越しに後ろを振り返って思わずびくっと跳び上がった。

藤岡:

彼女は「殺人」という言葉を口にすると、はっと息をのみ、肩越しに後ろを見ると、ひどく驚いた様子をみせた。

I looked where my companion was looking. The dark figure of a man was standing, watching us, in the shadow of the elm-tree.

文節区切り:

わたしは見た、わたしの話相手が見ているところを。ひとりの男の暗い姿が立っていた、私たちを注視して、楡の木の影の中で。

みかんみかん:

わたしは彼女の視線を追った。人影だ。楡の木の陰から、男とおぼしき姿がこちらを見ている。

ガブガブ:

彼女の見つめる先に目をやると、楡の木陰のなかに、男の暗い影がこちらを見つめながら立っている。

ガブガブさんはmy companionで、

――律儀に「(わたしの)連れ」とすると、読者は一瞬にせよ誰のこと?と思ってしまうのではないか。単に言い換えてるだけだろうから「彼女」ですませる。

とコメントを寄せてきています。「連れ」はともかく「話相手」としても、たしかに読者には違和感がありますね。作家の「言い換え」はあくまでも彼の母語の領域内での感覚なので、翻訳では深くこだわることもないでしょう。

まるで異なる語彙の海を泳いで

藤岡:

ナオミの視線を追うと、楡の木の陰に男が立っていて、じっとこちらを見ているように思えた。

I rose directly to approach him. Naomi recovered her self-possession, and checked me before I could interfere.

藤岡訳:

self-possessionは「冷静、沈着」。before節が厄介。「私が介入できる前に私を制止した」となりますが、これでは日本語にならない。「私」が二人の間に立つのをナオミが拒んで、自分で切り出した、という状況です。みかんみかんさんは「冷静」を欠き困ったな。ガブガブさんの「口を差しはさませなかった」のは誰かな? 翻訳者は、訳しながら「ここは我ながらうまくいった、どこがいいか、語りたくなるな」といった気分で自己満足することがあります。類語を求めていって、いつのまにかまるで異なる語彙の海を泳いでいることもあります。注意!

文節区切り:

わたしは直ちに立ち上がり、彼に近づいていった。ナオミは彼女の冷静を回復した、そしてわたしを制したので、わたしは介入できなかった。

みかんみかん:

だれの仕業か確かめてやろうと、すっくと立ち上がった。ナオミは元の姿勢に戻ると、一歩を踏み出そうとするわたしを制し、声をあげた。

ガブガブ:

彼に近づこうとわたしはすぐに立ち上がった。ところがナオミは落ち着きを取り戻し、わたしを制して口を差しはさませなかった。

藤岡:

わたしはすぐさまベンチから立ち上がり、男のいる方に向かった。ナオミは気を取り直し、わたしを引き止め、自分から口を切った。

藤岡訳では「ベンチ」を補っています。みかんみかんさん、「仕業」に惚れ込んだのかな? 訳語にふとうまい言葉が浮かんでくると、誤訳という落とし穴が待ってますよ。

The man stepped out from the shadow into the moonlight, and stood revealed to us as John Jago.

解題:

stood revealed to us asが難しい。ここはみかんみかんさん上手く訳したぞ!!

文節区切り:

その男は楡の木の蔭から、月光の中に踏み出してきた。そしてわたしたちの前に現れ、立っていたのは、ジョン・デェイゴだった。

みかんみかん:

男が暗がりから月明かりの下にぬっと姿を現した。なんとジョン・ジェイゴではないか。

ガブガブ:

男は木陰から月明かりの中に歩み出ると、立ち止まってジョン・ジェイゴであることを私たちに明らかにして見せた。

藤岡:

男は物陰から月明かりの中に姿を見せたが、私たちの前に姿を見せたのは、ジョン・ジェイゴだった。

丁寧な言葉遣い?

"I hope I am not intruding?" he said, looking hard at me. "What do you want?" Naomi repeated.

解題:

I hope I am not intruding? これが「丁寧な言葉遣い」であるなら、訳文も対応しなければならない。ガブガブさんの「お邪魔でないといいのですが」がよかった。「文節区切り訳」のように文字を追っただけでは翻訳にならない。否定形の文型を肯定に置き換えた方が読みやすいでしょうが、「丁寧」であるなら、回りくどくてもnotを生かして訳した方がいいでしょう。

文節区切り:

「わたしはお邪魔をしているのではないことを願いますが?」といって、ジョンはじっとわたしを見詰めた。「あなたは何をしようと思っているの?」と、ナオミが繰り返した。

みかんみかん:

「お邪魔だったでしょうか?」と口では云いながら、わたしに向けられたのは刺すような眼差しだった。「あなた、いったいここで何をしてるの?」ナオミがふたたび訊ねた。

ガブガブ:

「お邪魔でないといいのですが」彼はわたしをひたと見据えながら言った。「何のご用?」ナオミが繰り返す。

藤岡:

「お邪魔じゃなければいいんですが」といって、ジョンはじっとわたしを見詰めた。「何か用があるの?」ナオミが問い質した。

"I don't wish to disturb you, or to disturb this gentleman," he proceeded. "When you are quite at leisure, Miss Naomi, you would be doing me a favor if you would permit me to say a few words to you in private."

文節区切り:

「あなたの邪魔をしようと思っているのではありません、あるいは、この紳士の邪魔をしようとも」と、彼は言葉をつづけた。「あなたがまったく暇になったとき、ミス・ナオミ、あなたはわたしに好意を示してはくれませんか、もしお許しいただけるなら、あなたと内密にお話がしたいのです」

みかんみかん:

「ご迷惑をかけるつもりはなかったのですよ、あなたにも、こちらの紳士にも」ジョン・ジェイゴはそう返すと、「お時間に余裕のあるときで結構ですから、ミス・ナオミ、あなたと二人だけでお話させていただけないでしょうか」とつけ加えた。

ガブガブ:

「あなたのお邪魔をするつもりも、こちらの紳士のお邪魔をするつもりもありません」と彼は言葉を継いだ。「あなたのお手すきなときで結構です、ミス・ナオミ、内密にちょっとばかしお話しさせていただくことをお許し願えると、まことに有難いのですが」

ここで、ガブガブさんが舞台裏を披露してくれました。

ガブガブ独り言:

you would be doing me a favor if you would permit me to~:あくまでyouを主語にした言い方。直訳すると恩着せがましくていやらしい感じ。英語ではそういうニュアンスはないのだろうか。ねっちりした丁寧さ、しゃちほこばった感じを出したい。

藤岡:

「いや、あんたの邪魔をしようとも思っているわけではないし、この紳士を困らせるつもりでもないんです」こういうと、ジョンは用件に入った。「ほんの少しの間だけど、ぜひとも時間をとってほしいんですよ、ミス・ナオミ、二人で少し話しておきたいことがあるんです、どうでしょう」

He spoke with the most scrupulous politeness; trying, and trying vainly, to conceal some strong agitation which was in possession of him. His wild brown eyes--wilder than ever in the moonlight—rested entreatingly, with a strange underlying expression of despair, on Naomi's face.

文節区切り:

彼は最上の用心深い丁寧な言葉で語った。努力していた、無駄に努力していた、何か強い動揺を隠そうと、その動揺は彼を占有していた。彼の狂った眼は――月光の下でいっそうとぎらぎらしていたが――不思議な絶望の表情を浮かべて、懇願するようにナオミの顔にとどまっていた。

みかんみかん:

彼は言葉を慎重に選んで、如才なく話をしたつもりだったのだろう。が、そんなことでは内心の動揺は隠そうにも隠しきれなかった。ジョン・ジェイゴの茶色の野卑な眼(ルビ:まなこ)は、月明かりを受けいっそうぎらぎらと輝いてはいたものの、言いようのない不安の色をにじませながら、どうかお情けを、といわんばかりにナオミの顔をじっと見つめていたのだ。

ガブガブ:

彼の話しぶりは周到で丁寧なことこの上なかった。内心ひどく狼狽しているのを努めて隠そうとしているが、隠し切れていない。その狂気じみた茶色の眼、月明かりのなかで前よりいっそう狂気じみた眼が、奇妙な絶望の色をにじませながら、懇願するようにナオミの顔を見つめている。

ガブガブ独り言:

with the most scrupulous politeness; trying, and trying vainly ~:日本語にしづらい。セミコロンは補足だろうが、trying vainlyで覆ってしまいそう。基本的構造はあくまで並列だが、意味的に逆接になっていいものか。『英語正誤マニュアル』を今一度確認。セミコロンに逆接の意味はないらしい。「無駄な努力だった」としてもいいが、否定語を使ったほうがしっくりくるようだ。

藤岡:

彼は言葉を選び、しごく丁寧に話した。しかし、何かに心を捉えられ、ひどく動揺していているようだった。気持ちの乱れは隠しようもなかった。彼の茶色の眼は狂気じみて、月明かりの中で、いっそうと激しく、懇願の思いをこめてナオミに向けられていた。そこには切羽詰まった思いがあった。

His hands, clasped lightly in front of him, trembled incessantly. Little as I liked the man, he did really impress me as a pitiable object at that moment.

文節区切り:

彼の両手は、彼の前で軽く握られ、絶え間なく震えていた。わたしはこの男を少しも好きでなかったが、彼はわたしにたしかに印象付けた、その瞬間に、哀れな男として。

みかんみかん:

その両手も、体の前で軽く組まれていただけなのに、ずっと小刻みに震えていた。この男に対してひとかけらの好意も抱いていなかったわたしも、このときばかりはさすがに彼を気の毒に思ったものだ。

ガブガブ:

体の前で軽く握られた両手は絶え間なく震えていた。わたしはこの男が全然好きではなかったが、その時の彼はいかにも哀れむべき人物に思えた。

藤岡:

両の手を握り合わせて頼みこんでいたが、その手はぶるぶると震えていた。わたしにはこの男が少しも好きになれなかったが、このときばかりは、いかにも哀れな、不憫な奴と思えた。

みかんみかん訳:

彼女は何かを言いかけたところでに急に口をつぐみ、肩越しに後ろを振り返ると、そのとたん、びくっ、と大きく体を震わせた。
わたしは彼女の視線を追った。人影だ。楡の木の陰から、男とおぼしき姿がこちらを見ている。だれの仕業か確かめてやろうと、すっくと立ち上がった。ナオミは元の姿勢に戻ると、一歩を踏み出そうとするわたしを制し、声をあげた。
「だれなの?」一瞬のうちに、ナオミは闖入者のほうに向き直っていた。「あなた、いったいここで何をしてるの?」
男が暗がりから月明かりの下にぬっと姿を現した。なんとジョン・ジェイゴではないか。
「お邪魔だったでしょうか?」と口では云いながら、わたしに向けられたのは刺すような眼差しだった。
「あなた、いったいここで何をしてるの?」ナオミがふたたび訊ねた。
「ご迷惑をかけるつもりはなかったのですよ、あなたにも、こちらの紳士にも」ジョン・ジェイゴはそう返すと、「お時間に余裕のあるときで結構ですから、ミス・ナオミ、あなたと二人だけでお話させていただけないでしょうか」とつけ加えた。
彼は言葉を慎重に選んで、如才なく話をしたつもりだったのだろう。が、そんなことでは内心の動揺は隠そうにも隠しきれなかった。ジョン・ジェイゴの茶色の野卑な眼(ルビ:まなこ)は、月明かりを受けいっそうぎらぎらと輝いてはいたものの、言いようのない不安の色をにじませながら、どうかお情けを、といわんばかりにナオミの顔をじっと見つめていたのだ。その両手も、体の前で軽く組まれていただけなのに、ずっと小刻みに震えていた。この男に対してひとかけらの好意も抱いていなかったわたしも、このときばかりはさすがに彼を気の毒に思ったものだ。

ガブガブ訳:

その言葉が口元からもれるや、彼女は話をやめ、肩越しに後ろを振り返って思わずびくっと跳び上がった。

彼女の見つめる先に目をやると、楡の木陰のなかに、男の暗い影がこちらを見つめながら立っている。彼に近づこうとわたしはすぐに立ち上がった。ところがナオミは落ち着きを取り戻し、わたしを制して口を差しはさませなかった。
「誰なの?」見知らぬ男の方にぱっと向き直り、尋ねる。「そこで何の用?」

男は木陰から月明かりの中に歩み出ると、立ち止まってジョン・ジェイゴであることを私たちに明らかにして見せた。
「お邪魔でないといいのですが」彼はわたしをひたと見据えながら言った。
「何のご用?」ナオミが繰り返す。
「あなたのお邪魔をするつもりも、こちらの紳士のお邪魔をするつもりもありません」と彼は言葉を継いだ。「あなたのお手すきなときで結構です、ミス・ナオミ、内密にちょっとばかしお話しさせていただくことをお許し願えると、まことに有難いのですが」

彼の話しぶりは周到で丁寧なことこの上なかった。内心ひどく狼狽しているのを努めて隠そうとしているが、隠し切れていない。その狂気じみた茶色の眼、月明かりのなかで前よりいっそう狂気じみた眼が、奇妙な絶望の色をにじませながら、懇願するようにナオミの顔を見つめている。体の前で軽く握られた両手は絶え間なく震えていた。わたしはこの男が全然好きではなかったが、その時の彼はいかにも哀れむべき人物に思えた。

藤岡訳:

彼女は「殺人」という言葉を口にすると、はっと息をのみ、肩越しに後ろを見ると、ひどく驚いた様子をみせた

ナオミの視線を追うと、楡の木の陰に男が立っていて、じっとこちらを見ているように思えた。わたしはすぐさまベンチから立ち上がり、男のいる方に向かった。ナオミは気を取り直し、わたしを引き止め、自分から口を切った。

「だれなの?」こういって、ナオミはするどく男を見据えた。「そこで、何をしようとしてるの?」

男は物陰から月明かりの中に姿を見せたが、私たちの前に姿を見せたのは、ジョン・ジェイゴだった。
「お邪魔じゃなければいいんですが」といって、ジョンはじっとわたしを見詰めた。
「何か用があるの?」ナオミが問い質した。
「いや、あんたの邪魔をしようとも思っているわけではないし、この紳士を困らせるつもりでもないんです」こういうと、ジョンは用件に入った。「ほんの少しの間だけど、ぜひとも時間をとってほしいんですよ、ミス・ナオミ、二人で少し話しておきたいことがあるんです、どうでしょう」

彼は言葉を選び、しごく丁寧に話した。しかし、何かに心を捉えられ、ひどく動揺していているようだった。気持ちの乱れは隠しようもなかった。彼の茶色の眼は狂気じみて、月明かりの中で、いっそうと激しく、懇願の思いをこめてナオミに向けられていた。そこには切羽詰まった思いがあった。両の手を握り合わせて頼みこんでいたが、その手はぶるぶると震えていた。わたしにはこの男が少しも好きになれなかったが、このときばかりは、いかにも哀れな、不憫な奴と思えた。


―― 「わたしの新訳」に挑戦しましょう ――

本誌は「翻訳者の登竜門」です。読者の皆さんの翻訳作品を「わたしの新訳」欄に積極的に推薦します。条件は「本誌の読者」であること。この「公開講座 プロになるぞ!」をはじめとして、「翻訳勝ち抜き道場」を担当されている斎藤静代さんや新しく「入門翻訳勝ち抜き道場」を担当される藤田優里子さん、「部屋」をもたれている原田勝さん、岩坂彰さんの愛読者・講座登録者が、「私の翻訳を読んでほしい」と希望されれば、本講座の藤岡先生が原文・翻訳を読み、一応のレベルに達していると判断したら(あるいは何回かダメをだして改訂をしてもらってから)本誌の編集部に推薦して、掲載を依頼します。条件は、あなたが新人で、これまで公けの媒体に翻訳を発表したことのない人(原稿料・翻訳料をもらった経験のない人)。翻訳する作品は、版権がない(原則没後50年たった)英米作家の文芸作品で、短編小説かエッセイ。サキ、O・ヘンリー、ビアスなどの短篇作家には、新しい翻訳が望まれていますよ。ハーディーやD.Hロレンスにも短編があります。

応募を受けて推薦しない場合、その旨を伝えします。

手をつけている作品がありますか? 新刊の版権フリー本だけが市場ではありませんよ。編集部宛てに「自己紹介」と翻訳する作者(作品)を教えてください。手順を案内します。

新企画、ぞくぞく

この欄でご紹介させていただいた北海道在住の「みゅうの母」さんこと佐藤志敦(さとうしのぶ)さんのバーネット夫人『わたしのロビン』。奥津絵葉さんの素敵な文章とともに掲載し、大変好評でした。みなさまも、あたためている企画がある、大好きな作家のわたしなりの新訳をした、など、発表したい作品があったら編集部までご連絡下さい。佐藤さんからは、次回作の企画書の提出もあり、今、一緒に練っているところです。また、他の方々からの企画書も検討中。『わたしの新訳』コーナーは、にぎやかになりそうです。翻訳したものがある、翻訳したからには誰かに読んでもらいたい、けど、自信がない、はずかしい…などと躊躇している方。心配しないで下さい。藤岡先生が的確なコメントとアドバイスをくださいます。

ここで、藤岡先生が佐藤さんに宛てたフィードバックの一部を紹介します。これから挑戦されることを検討していらっしゃるみなさまに、参考にしていただければ幸いです。

藤岡先生コメント(抜粋)

  • 提出していただいた翻訳は、翻訳コンテストでは優秀作でしょうが、でも、これを翻訳者が実名で発表するとなると、もうひと工夫ふた工夫がほしくなります。登竜門への挑戦です。頑張りましょう。
  • (藤岡先生の)参考訳をよくごらんください。翻訳しながら悩んだこと、迷ったことへの回答があるでしょう? 英文解釈もさることながら、この作品は低学年の子供たちが読むものです。こどもの読解力に迎合してやさしくするのではなく、一定の語彙・表記・表現の幅を踏まえながら、子供たちに日本語の正しい発想で読み書きすることを教えなければなりません。いわゆる「翻訳臭」を徹底的に避けます。基本的には、みゅうの母さんの日本語は温かく、すてきな感性を表しています。
  • 語りかける作家の姿勢は?ここで翻訳者は「翻訳者」でなく、日本の作家にならなければ駄目でしょうね。参考訳は一案で、他にもいろいろ考えられるところです。この商品の「決め手」になるでしょう。

このほか、原稿のフォーマットについての指示など丁寧なアドバイスをしています。
藤岡先生の参考訳は、A4 一頁に及び、訳文を改訂する際に十分な量の訳例を提示しています。
どうぞみなさん、果敢に挑戦してください。お待ちしております。

編集部記

2009年11月2日号