藤岡啓介の翻訳玉手箱 第3篇
公開講座 プロになるぞ!! 第2回
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さて、「第2回」です。どのように展開していくか――まずは新弟子ふたりの第2回課題訳を見てみましょう。ぼくのいうことをいくらか理解してくれたかな、原文に難所が何か所かあるけど、うまく切り抜けられたかな、訳文の表記法(用字用語)で気を遣うようになったかな、という期待ではらはらどきどきしていたのですが。
眠り姫訳:
医者が診察をすませた時、「休息!」と私は繰り返しました。「私の良き友よ、それは一時的なことだとわかっているのかな?裁判は開廷している。私を待っている机の上の訴訟事件摘要書を見ろよ!私の場合、休息は破滅を意味するんだ」
「そして仕事は死を意味する」と静かに医者は付け加えました。
私はぎくっとしました。医者は私を怖がらせようとしていなくて、明らかに真剣でした。
「それは単に時間の問題です」医者は続けた。「ルフランクさんは丈夫な体質で、若い男性ですが、意識的に脳を使いすぎること、神経系統の調子をこれ以上長く狂わせることはできませんよ。一度、出かけてごらんなさい。もしルフランクさんが船酔いをしない人なら、船旅をするといい。もう一度、力強くなるためには海の空気が最適ですよ。いいや。私は処方箋を書きたくはないね。施薬するのをお断りするよ。もう言うことはありません」
これらの言葉と同時に友人の医者は部屋を去った。私は意地っ張りで、同じ日に、裁判所に行きました。
私が従事していた訴訟事件の先輩の法廷弁護士は、彼に伝えなければならなかった、ある情報を私に求めた。恐怖と驚きで、私はすっかり自分の見解をまとめることができなかった。心の中で、事実と日付、全ての事が混乱して混ざり合った。すっかり恐怖でいっぱいにさせられる法廷に私は引っ張り出されたのです。その次の日、私の訴訟事件摘要書は法定代理人に戻りました。そして、初めてニューヨークに向けて航海した汽船でアメリカへ旅行をすることによって、私は医者の忠告に従ったのでした。
text:02
ビュシーノ訳
「休養ですか!」医者が話し終えるや、私は繰り返した。「先生、今開廷期間中だというのをご存知ですか?法廷が開かれているのですよ。見てください、あのテーブルの上にある未処理の訴訟事件摘要書を!休暇を取ったりしたら私はもうおしまいです」
「そうだとしても働き続けることは」医者は静かに付け加えた、「死ぬということですよ」ぎくりとした。彼は私を脅かそうとしているのではなかった。率直に本音で話しているのだ。
「それは時間の問題に過ぎませんよ」と続けた。「あなたは生まれつき丈夫だし、まだ若い。だからと言って頭を酷使し、神経をかき乱すのはそろそろ限界に来ています。今すぐにでも出発するといい。もし船酔いをしないのならば、船旅になさい。海風は体を回復させるためには他のどんな風よりも最適だ。いや、処方箋は書きませんよ。薬は必要ない。さて、これ以上お話しすることはありませんな」
こう言って主治医は事務所から出て行った。ところが私は意地を張ってその日も出廷したのだった。
私が担当している事件の主席弁護士からある情報を求められ、それを知らせるのが私の任務だった。だが自分でもぞっとし、驚愕したことには、考えをまとめることが一切出来なくなっており、頭の中では事柄と日付がぐるぐると混ざり合っていた。自分自身の状態に途方にくれ、愕然としながら、私は法廷の外に連れ出された。翌日私の手許にあった訴訟事件摘要書を代訴人達の所へ戻し、医者の忠告に従いニューヨークに向かう最初の汽船に乗ってアメリカへの航海に出発した。
最近は、標題に動詞が入る本がよく売れるとか
講座の初めに、この小説の表題“The Dead Alive”をどう訳すか質問しましたが、読者の「まこと」さんから『死んだのかと思った男』、「ぱんだこ」さんから『生ける屍』、「ビュシーノ」さんが、最初の『生死の行方』のほか、『再生』、これに「眠り姫」の『生きている死者』を加えて、五通りの題名ができました。
小説の表題は洋の東西を問わず作者がもっとも腐心するところですね。コリンズの場合はちょうど小説が新聞や週刊誌に連載されたり、単行本で量産(?)されるようになった時代ですから、標題も、できるだけ話題になりやすい(評判になりやすい)ものが考えられたはずです。ビュシーノさんが最初『生死の行方』、それからtext:02の訳文の添えてこっそりと「『回復』かしら」とつぶやいて、さらに、7月7日に公開された講座をみて改めて最後まで読み直したのか、考え直したのか、
――『再生』はどうでしょうか。医者にこのまま働いていたら死ぬかもしれないと言われていた主人公が、アメリカで恋する女性に出会い体も心も回復して新しく生まれ変わったという意味です。
どうやらビュシーノさん、読み誤っているらしい。主人公が新天地で出会った女性と紆余曲折を経て最後には結ばれるのだから、上のように考えたのかもしれないけど、この小説でいっているthe deadは主人公ではなく別の人物。いわゆる「すり替わり」の拵えです。殺人事件で犯人とされた男が「冤罪」で、殺されたはずの真犯人が生きていた、という推理小説の鼻祖コリンズの得意としたお話。どうやらビュシーノさん、海外赴任をものともしないで元気に「新世界」を楽しんでおられるようだけど、意外とあわて者で気が短いのではないかな。
投稿の「ぱんだこ」さんの『生ける屍』はどうかな。「生きている屍」の文語表現で、表題らしく気取っているじゃないか、と思いつかれたのかな。「かろうじて生きているけど、今のままではまるで生ける屍だ」と、自分の身の上をかこつときの言葉だな。「まこと」さんの『死んだのかと思った男』はちゃんと読みとっていますね。でも説明的だな。表題にならない。「……のかと思った」はいかにも苦しいな。「死んだ……」とくると古い歌が聞こえてきませんか、「死んだはずだよお富さん」。
「眠り姫」さんは『生きている死者』としましたが、「死んだ……」よりずっと表題らしくなっていますね。
翻訳でいちばん悩ましいのは表題で、悩ましいけど、うまい言葉が現われてくれて得意になるのも表題です。コリンズの翻訳は『ウィルキー・コリンズ傑作選』(全12巻、臨川書店)がありますが、数ある彼の短篇小説はほとんど翻訳されていないようです。もしこの作品のように初訳ものであれば、こうしてWEB上で一般に公開したなら、書籍で出版するなら、自分が訳した表題が「既訳邦題」となって広がっていきます。
「であるならば」と翻訳者は元気づき、考え込みます。
ぼくのささやかな経験ですがディケンズのスケッチに“Sentiment”という小品があります。これを訳して『感情』『感傷』、どちらにしようかと考えたことがあります。この表題だけで当時の読者は読む気になったのだろうか、ディケンズがこの作品を新聞に書いた1830年代、sentimentという言葉が流行っていたのだろうか、芝居や小説にsentimentを主題にした話題作があったのだろうか、もしそうであれば日本語にした場合「感情」「感傷」のいずれが適切か?OEDで初出を探ったり、英文学古典の『センチメンタル・ジャーニー』(スターン、松村達夫訳、岩波文庫)をひっぱり出してきて読んだりしました。でも、結局は訳了してからの「直感」で決めました。話の内容は花嫁学校のお嬢様の駆け落ち騒動。皮肉たっぷりのお涙ちょうだい、ではない、お笑いください、いや、学校経営者の悲哀かな、というお話です。結局は『花嫁学校感傷賦』にしたのですが、なんとか「感傷」を生かしました。
脱線しましたが、“The Dead Alive”は文字どおりに訳すと『生きていた死者』、あるいは『死者は生きていた』。皆さんには、このいずれにするか迷ってもらいたかったな。素直に訳して『生きていた死者』にしましょう。眠り姫訳とは「る」と「た」の違いですが、意味合いが違いますね。こう訳すと、話の種が初めから割れているようで気がひけますが、その責任は著者のコリンズにもってもらいましょう。
いくらミステリーだといっても、「死者」が頭につくのは響きがよくない。そして出版界最近の教訓で「標題に動詞が入る本がよく売れる」も、心得ておくかな。
解題:
text:
"Rest!" I repeated, when my medical adviser had done. "My good friend, are you aware that it is term-time? The courts are sitting. Look at the briefs waiting for me on that table! Rest means ruin in my case."
"And work," added the doctor, quietly, "means death."
どうですか? 上の四行の文章で、どうしても辞書で調べなければ分からない単語がありますか? term-timeを調べる程度かな。ここでは「裁判が開廷している(行われている)期間」のことですね。my medical adviserは前回のthe doctorを言い換えているだけ。The courtsはしっかりと睨んでおいた方がいいですね。もろもろの法廷、大きな建物の中にいくつもある複数の法廷、と理解します。
だれもがするように、原文を読みながら日本語にしていきます。直訳というよりも、眼で追いながら、手で書きながら、という作業です。
「休養だって!」と、私は繰り返した。私の医学的助言者(医者)が診察を終えたときに。「わがよき友よ、お分かりですよね、もう裁判開廷期に入っているんです。どこの法廷も開かれています。あの机の上でわたしを待っている弁論趣意書をごらんなさいよ! 休養はわたしの場合、破滅を意味します」
「そして仕事は」と、ドクターは静かに加えた。「死を意味します」
ここで作者が得意になっているのは、rest means ruin とwork means deathの対句ですね。これをはずして訳すとコリンズが泣きます。
注意!! 記号!?に耳傾けよ
さて、眠り姫よ! 気がつかなかったかな? 本講座第1回に出たrestを藤岡訳は「しばらくは休養をとりなさい」としていたのだけど、文中にある単語を借りていえば姫はobstinateなのか、不注意なのか?「休息」と「休養」では意味が違う。前者は「ちょっと仕事などをやめて、身体を休ませる」で、後者は「仕事などをやめて、時間をかけて体力を養う」という意味で語法も違います。
――「休息!」と私は繰り返しました。
と訳していますが、おれ、泣けちゃったな。この強調符「!」は、前文を受けていて、「!?」ででもある。さらにいえば、この「!」を使わなくても翻訳できる。眠り姫さんにはこの辺りから勉強してもらわなければならないな。下に二人の訳文を引いてコメントを加えるけど、眠り姫は辞書を使っていない、いや、正確に言うと、辞書の使い方が分かっていない。これは慣れといってもいいのだけど、外国語よりも、まず日本語の辞書を使いこなして、辞書の特徴を理解していくのが上策かもしれない。
眠り姫訳:
医者が診察をすませた時、「休息!」と私は繰り返しました。「私の良き友よ、それは一時的なことだとわかっているのかな?裁判は開廷している。私を待っている机の上の訴訟事件摘要書を見ろよ!私の場合、休息は破滅を意味するんだ」
「そして仕事は死を意味する」と静かに医者は付け加えました。
文語調になった文体はともかくとして、文脈がおかしい。
――私を待っている机の上の訴訟事件摘要書を見ろよ!
では、
――机の上で私を待っている訴訟事件摘要書を見ろよ!
としなければ。英語を初めて学ぶとき、「英語ではこう書くけど……」といわれて“I love you.”の講釈を受けたでしょう。文脈、脈絡、言葉(論理)の続き具合、修辞法、などなど、思い出してください。眠り姫さんに、今さら主語、動詞、目的語、文の構造は……などといっても始まらない。翻訳以前の問題で、たとえ逐語的に読んでも「私を待っている机の上の」にはならない。ならないのが普通なのだが、普通以上に日本語を書きわける力のある眠り姫がこうした訳文を捻出するには、それなりの理由があるようですね。
1.翻訳は、辞書にある訳語をそのままいただいて、できるだけ原文の語順に従って語句をつなげばいい。「原文通り」「原文の格調を重んじて」などというではないか。
2.不自然な文章になったと思えても、翻訳だから仕方ない。異文化を伝えるのだから読者は我慢しなければ。不自然であっても、誤訳ではない。原文はそのように書かれている。理解できない言葉や観念があっても、それは著者が外国人であるのだから仕方がない。
とでも、考えているのかな。他にも自由闊達に翻訳できない理由がありそうですが。【この質問に答える】
思い込み、「翻訳であるから症候群」からの脱出を
おかしな経験があります。編集の打ち合わせで、「これは、A4のフォーマットで入力して、その後プリントをとっておいてください」と部員に念を押して頼んだのに、出来上がってきたのがB5のフォーマットでした。「A4である」のを強調したため、入力者は「何か強調されたな、そうだ、フォーマットだった!」と思って、そのフォーマットが「A4」であることは忘れてしまったのです。これは実話です。
「これは翻訳である」
と思いこむと、普通の日本語も書けなくなってしまう。英語だから、フランス語だから、ロシア語だからといって、珍妙な日本語でいいわけはありません。「たとえ誤訳が多くても読みやすく、面白く話にしてくれ」という読者がたくさんいますよ。
眠り姫さんは、今最大に緊張しているときでしょう。何ヶ月かすると、「翻訳であるから症候群」を脱出するでしょう。
ビュシーノ訳:
「休養ですか!」医者が話し終えるや、私は繰り返した。「先生、今開廷期間中だというのをご存知ですか?法廷が開かれているのですよ。見てください、あのテーブルの上にある未処理の訴訟事件摘要書を!休暇を取ったりしたら私はもうおしまいです」
「そうだとしても働き続けることは」医者は静かに付け加えた、「死ぬということですよ」
医者か医師か
本講座第1回で「医者」と「医師」にどのような違いがあるか質問しましたが、ビュシーノさんから、
――医者は病気を治療することを職業にしている人を意味しますが、医師はもっと学者的な意味合いが含まれるのではないでしょうか。「医者に往診を頼む」と言いますが、「医師に往診を頼む」とは言いません。
という回答が寄せられました。ビュシーノさんの「学者的」には語義として疑問がありますが、意味は同じmedical adviserでも使い方に違いがありますね。「医師」「医者」いずれも古くから使われている言葉で、「医師」は現代では医療保険制度の中で「医師法」「医師国家試験」「日本医師会」「医師不足」と、どうやら市井の言葉ではなくなったようです。
一方「医者」の方は「医者の不養生」、「医者と味噌は古いがいい」、「医者の若死に出家の地獄」などのことわざもあります。「近所のお医者さん」とはいっても「近所のお医師さん」とは言わない――と、これは現場的な答えになるのですが、賢明なる読者諸兄諸姉の確たるお考えがありませんか、教えてください。【この質問に答える】
text:
I started. He was not trying to frighten me: he was plainly in earnest.
"It is merely a question of time," he went on. "You have a fine constitution; you are a young man; but you cannot deliberately overwork your brain, and derange your nervous system, much longer. Go away at once. If you are a good sailor, take a sea-voyage. The ocean air is the best of all air to build you up again. No: I don't want to write a prescription. I decline to physic you. I have no more to say."
With these words my medical friend left the room. I was obstinate: I went into court the same day.
時間の問題、とはどういう問題かな
解題:
I started. He was not trying to frighten me: he was plainly in earnest.:startは「思わずぎくっとくる」でしょうね。plainly in earnestは「真面目に腹蔵なく」ですが、医者が患者にはっきりとものを言うのですから「本気」「本音」が浮かぶところ。
It is merely a question of time, :前文の医者の言葉を受けて、時間の問題 → 遅かれ早かれ(仕事=死が)やってくる、ですね。
"You have a fine constitution; you are a young man; 「素晴らしい体格」、「若い男」、とあり、すぐ後には「よい船乗り(船酔いしない人)」があって、主語+不完全自動詞+補語の第2文型です。これを原文尊重主義者だと「あなたは○○です、△△です、□□です」と箇条書きのようにするかも知れません。箇条書きでリズムがよく読みやすくなるなら別ですが、普通はこうした第2文型が重ねて現れると、名詞を形容詞に、形容詞を副詞に変換して翻訳します。
――あなたは見るからに頑丈だし、それに若い……もし船に強いようだったら……
となるかな。眠り姫、ビュシーノさんの二人がここでどのような工夫をしているかな。「私を待っている机の上の」ではなかった。じゃ、「私を待っている机の上の」は何故に、と問題をまた蒸し返したくなりますね。
but you cannot deliberately overwork your brain, and derange your nervous system, much longer.:しかし、あなたは自分の脳を熟慮的に酷使できない、あなたの神経組織を、これ以上混乱させることができない。
Go away at once. :すぐ立ち去りなさい(出かけなさい)。
If you are a good sailor, take a sea-voyage. :船酔いしない方だったら、航海(船旅)に出なさい。
The ocean air is the best of all air to build you up again. :外洋の空気はあなたの健康を鍛えるのに最上の(もってこいの)空気です。
No: I don't want to write a prescription. I decline to physic you. I have no more to say.":いや(だめですよ)、処方箋を書きたくはありません。あなたに薬を出すのを断ります。これ以上、いうことはありません――わたしの表情に「休養などしないで、当面、薬で頭の疲れをとることができないものか、という願いを読み取って「駄目!」と。
With these words my medical friend left the room. I was obstinate: I went into court the same day.:これらの言葉を言い残して(こういって)、医者は部屋を出て行った。わたしは頑固者だった。同じ日に、わたしは法廷に出た。
my medical friendは「主治医」でもいいのだけど、「親しく付き合っている私のかかりつけの医者」という意味合いがmyに込められているのでしょうね。その親しい医者が、まるで私を見放すように……という情景。彼の気持は分かっていたが、仕事が上り坂だったので、強情を張って法廷に出た……。
眠り姫訳:
私はぎくっとしました。医者は私を怖がらせようとしていなくて、明らかに真剣でした。 「それは単に時間の問題です」医者は続けた。「ルフランクさんは丈夫な体質で、若い男性ですが、意識的に脳を使いすぎること、神経系統の調子をこれ以上長く狂わせることはできませんよ。一度、出かけてごらんなさい。もしルフランクさんが船酔いをしない人なら、船旅をするといい。もう一度、力強くなるためには海の空気が最適ですよ。いいや。私は処方箋を書きたくはないね。施薬するのをお断りするよ。もう言うことはありません」
これらの言葉と同時に友人の医者は部屋を去った。私は意地っ張りで、同じ日に、裁判所に行きました。
ビュシーノ訳:
「そうだとしても働き続けることは」医者は静かに付け加えた、「死ぬということですよ」ぎくりとした。彼は私を脅かそうとしているのではなかった。率直に本音で話しているのだ。
「それは時間の問題に過ぎませんよ」と続けた。「あなたは生まれつき丈夫だし、まだ若い。だからと言って頭を酷使し、神経をかき乱すのはそろそろ限界に来ています。今すぐにでも出発するといい。もし船酔いをしないのならば、船旅になさい。海風は体を回復させるためには他のどんな風よりも最適だ。いや、処方箋は書きませんよ。薬は必要ない。さて、これ以上お話しすることはありませんな」
こう言って主治医は事務所から出て行った。ところが私は意地を張ってその日も出廷したのだった。
text:
The senior counsel in the case on which I was engaged applied to me for some information which it was my duty to give him. To my horror and amazement, I was perfectly unable to collect my ideas; facts and dates all mingled together confusedly in my mind. I was led out of court thoroughly terrified about myself. The next day my briefs went back to the attorneys; and I followed my doctor's advice by taking my passage for America in the first steamer that sailed for New York.
解題:
The senior counsel in the case on which I was engaged applied to me for information which it was my duty to give him. :上級弁護士が、わたしが参加していた事件の上級弁護士が、わたしに、いくつかの情報を問い合わせた、それを彼に伝えるのがわたしの責任であった情報を。ややこしい言い方をしていますが、上役の弁護士が、「あんたに頼んでおいた件だが、どうなっているかい」と訊いてきたのですね。この辺は括弧を使う直接話法で訳した方が読みやすいでしょう。
To my horror and amazement, I was perfectly unable to collect my ideas; facts and dates all mingled together confusedly in my mind. :戦慄・驚愕したことに、わたしは、完全に自分の考えをまとめることができなかった(すっかり取り乱した)。事実と日時が、なにもかもがわたしの頭の中でいっしょくたになり、混乱していた。
I was led out of court thoroughly terrified about myself. :わたしは法廷から外に連れ出された、自分自身にすっかりたまげて。
The next day my briefs went back to the attorneys; and I followed my doctor's advice by taking my passage for America in the first steamer that sailed for New York.:翌日、わたしの一件書類は、弁護士たちのところに送り返された(預かっていた書類を弁護士団に返した)、そして、主治医の忠告に従った、アメリカに向けて航海することによって、ニューヨークに向かって航海する、一番早い時間の汽船で。ちょっと待て、もしかすると「始発」なのかな? 迷いました 【この質問に答える】
眠り姫訳:
私が従事していた訴訟事件の先輩の法廷弁護士は、彼に伝えなければならなかった、ある情報を私に求めた。恐怖と驚きで、私はすっかり自分の見解をまとめることができなかった。心の中で、事実と日付、全ての事が混乱して混ざり合った。すっかり恐怖でいっぱいにさせられる法廷に私は引っ張り出されたのです。その次の日、私の訴訟事件摘要書は法定代理人に戻りました。そして、初めてニューヨークに向けて航海した汽船でアメリカへ旅行をすることによって、私は医者の忠告に従ったのでした。
ビュシーノ訳:
私が担当している事件の主席弁護士からある情報を求められ、それを知らせるのが私の任務だった。だが自分でもぞっとし、驚愕したことには、考えをまとめることが一切出来なくなっており、頭の中では事柄と日付がぐるぐると混ざり合っていた。自分自身の状態に途方にくれ、愕然としながら、私は法廷の外に連れ出された。翌日私の手許にあった訴訟事件摘要書を代訴人達の所へ戻し、医者の忠告に従いニューヨークに向かう最初の汽船に乗ってアメリカへの航海に出発した。
「休養だって!」
医者の診立てをきいて、思わず繰り返してしまった。
「冗談じゃない、今の時期、何だと思ってるんです。開廷期ですよ。法廷が開かれているんだ。机の上を見てくださいよ、これから処理する事件の山だ!休養するなんて、ぼくにとっては破滅そのものだ」
「そして仕事するなんて、死そのものですよ」医者は静かにこう加えた。
はっとした。私をおどかそうとしたのではない。彼は率直に、本音をいったのだ。
「たんに時間の問題じゃない、遅かれ早かれ困ったことになりますよ。あなたはそもそもが丈夫な人だし、なんといっても若い。だからといって、これ以上脳細胞を酷使してはだめですね。神経系統がおかしくなっていますよ。すぐにでも出掛けなさい。船酔いしないようなら、航海がいい。外洋の空気が何より、鍛え直すにもってこいだ。お分かりですね。処方箋は書きませんよ。薬は出しません。ほかに、言うことなし」
友人らしく医者はこう言い残して出て行った。わたしは彼の言うことをきかずに、この日、法廷に出ていた。
わたしが参加していた事件で、上席弁護士から「あの件の調べはどうなったか」と聞かれたのだが、それがどうしたことだろう、いつもと違って考えがまとまらない。事実と日時が、頭の中でめちゃくちゃに混ざり合っていた。そもそもが、わたしの責任で調べ上げていたはずだった。唖然として、自分が怖くなった。呆然としたまま、法廷から連れ出された。翌日預かっていた一件書類を弁護士団に送り返し、医者の忠告通りに迷わず、わたしは最初に出るニューヨーク行き乗りこみ、アメリカへと旅立った。
読者からの回答:
前回、half an hourの訳語で、「三十分」「半時間」のいずれがいいか質問しましたが、ビューシノさんが回答を寄せてくれました。
回答:三十分と訳した時なんとなく違和感を感じましたが、他にどんな言葉も思い浮かびませんでした。半時間は確かに古い感じはしますが、この小説には半時間の方が合っている気がします。
藤岡:口語では「半時間」とはいわないでしょうね。でも文章では使われているようです。三十分と数字を使うデジタル表現は日本人の感性に合わないようですね。





















