番外 藤岡啓介の翻訳玉手箱
ミスター・リズモアと未亡人
Ⅰ
さほど以前のことではないが、秋もだいぶ深まったとき、ところはロンドン市長官邸のあるマンションハウスで、市長じきじきの音頭で公開討論会が開かれた。
聴衆を前に演説するよう招かれた紳士たちの顔ぶれをみると、趣旨からいって、ふたつの狙いがあった。名士たちが居並んでいるが、これは大衆的な知名度を頼りにした客寄せで、実際には貿易問題に関わる弁士たちが別に控えているので、この討論会を開いた目的が何であったかが十分察しがつくというものだった。ずいぶんと金をかけて広告したので結果はいつものように上々の入りで、討論が始まる前から席がふさがっていた。
これではもう立ったまま演説をきくか、あきらめてホールを後にするかのいずれかだったが、遅れてきた者たちの中に二人の婦人がいた。その一人はすぐさまホールから出て行くことにして、「わたしは馬車に戻りますわ。正面入口でお待ちしています」といった。
「そう長くは待たさなくてよ。あの方、第二議案で賛成演説をすると広告にあったし、わたしの用件はあの方を見ておくだけですから」と連れが答えた。
席の隅に坐っていた年のいった紳士が立ち上がって、居残ることになった婦人に席をすすめた。彼女はこの親切に甘えるかどうか迷った様子だったが、紳士から、お二人の話をうかがいましたよ、第三議案に移ったときに、わたしが席に戻ればいいのだから、といわれた。婦人は礼をいって、それ以上の挨拶は抜きに紳士の席についた。彼はオペラグラスを持っていて、演壇に有名な弁士が登場すると、彼女に再三どうぞと勧めていたが、彼女がオペラグラスを手にしたのは、シティーで船主として知られている弁士が演壇に向かい第二議案の賛成演説を行うときだった。
弁士の名は広告にアーネスト・リズモアとあった。
彼が立ちあがったとき、婦人がオペラグラスを借りた。長いことグラスを眼に当ててミスター・リズモアをしげしげと、ひどく関心のある様子で見ていたので、まわりの人たちが好奇心を募らせた。どうみても彼には赤の他人と思えるのだが、何か個人的に興味を惹くようなことを語るのだろうか。彼の演説には格別にこの婦人を熱中させるものはなかった。たしかに好男子だったし、年のころは三十から四十の間で、人生の盛り、真っ只中といってよい。だからといって、彼が演説している間、どうして婦人がオペラグラスを手離さずじっと彼を見詰めているのか、周囲の者たちにはいくら頭をひねっても分かるものではなかった。
婦人は礼をいってグラスを返し、思い切った様子で紳士に問いかけた。
「どうでしたでしょう、ミスター・リズモアはひどく元気がないように思えたのですが、お気づきになりましたか」
「いや、わたしにはどうともいえませんな」
「でも、あの方、演説を終えるとすぐに演壇を離れましたね、お気づきになったと思いますが」
この弁士の様子がいかにも気にかかってつい口に出したのだが、紳士がなにやら答える前に、すぐ前の席にいたご婦人がここぞとばかり口を挟んだ。
「心配ですわ、ミスター・リズモアはお仕事で心配事がおありのようですのよ。わたしの夫が昨日シティーで聞いたのだといってましたが、何か資金繰りとかで……」
せっかくの話だったが、このとき拍手喝采が巻き起こってそれもかき消されてしまった。有名な国会議員が第三議案の提案で立ち上がったのだった。親切な老紳士は自分の席につき、婦人は会場を出て連れのところへいった。
「いかがでしたミスター・リズモアは? がっかりされたのではないかしら、ミセス・カレンダー」
「いえ、がっかりするなんて!でも、あの方のことで驚くような話を聞いてきたの。なにかお金のことで深刻な事態だとか。シティーであの方の住所が分かるかしら」
「道々見ていって文房具店があったら、そこで紳士録を見れば分かるわ。ミスター・リズモアを訪問するつもりなの?」
「そうしてみようと思っているのだけど」
II
あくる日オフィスで、ミスター・リズモアの社長室に社員がきて、ご婦人が使う訪問用の名刺を差し出した。おそらくミスター・リズモアは多忙な最中だ、すぐには会ってもらえないだろうと考えて、訪ねてきたミセス・カレンダーは社員に渡す名刺に「重要なお話です」と書き添えていた。
「そのご婦人はお金の無心といった様子かい?」と、ミスター・リズモアがきいた。
「いえ、とんでもない。ご自分の馬車で来られました」
「若い人かい、それとも?」
「お年のいった方です」
ときには若くて美しい女性であれば、ミスター・リズモアのように忙しい男にとんでもない破局をもたらすことがある。それを重々承知していたので、訪ねてきたのが年のいった婦人だというだけで、彼には心配無用の訪問客となった。
「お通ししなさい」
初めて人に会うときの、すこし相手をうかがうような様子で彼の前に現れた婦人を見て、彼女がまだまだ色香をとどめているのに気がついた。それに、彼女の年頃ならたいていのご婦人が避けられない肥満という不幸からも逃れていた。男の眼で見ても、こうした彼女の体つきを、お抱えのドレスメーカーがいっそうと引き立たせていたし、姿かたちのよさで欠点を覆い隠し、残る色香を際立たせていた。さらに、ご婦人によっては自分の年齢を隠そうとそれぞれに苦心するものだが、どうみても彼女にはそうした誤魔化しが見られなかった。髪の毛はグレーで、顔の色艶は昼の最中に見ても衰えていなかった。部屋に入ると、どこか気後れした様子で挨拶をしたが、それが若い婦人の恥じらいではないので、ミスター・リズモアはことさらに胸をときめかさずにすんだ。
「ご都合の悪いときにお訪ねしてしまったようで」と、彼女が切り出した。
「どうぞご遠慮なく。できれば御用の向きを手短にお話いただけると有り難いのですが」
どこかぎこちない答えだった。
勝ち気な彼女は、この挨拶にむっとした。
「一言で申しますわ」と、すぐさま答えた。「用件は、感謝ですの」
彼女のいったことが分からず、すっかりあっけにとられて、彼はその訳をきいた。彼女は自分のいった言葉を改めて説明することはせずに、質問で応えた。
「三月十一日の夜のことをおぼえていらっしゃいますか、もう五、六年前のことですが」
彼は少し考えてみてから、「いや」といった。
「おぼえていませんね。ミセス・カレンダー、申し訳ないのですが、ちょっと今取り込んでいまして、気がかりなことがありましてね」
「思い出してくださるよう、お手伝いしますわ。そしたら失礼しますから、どうぞお仕事に戻ってください。私が申しましたのは、その日、あなたはベクスモアにいて、北から来るロンドン行きの夜行急行列車に乗ろうと駅に向かっていたのです」
貴重な時間を無駄にしたくないのに気づいてもらうために、それまでミスター・リズモアは立ったままでいたが、これを聞くといつもの椅子に坐りこみ、興味がある様子で彼女に先を話すよう促した。ミセス・カレンダーはもう彼の心を捉えていたのだった。
「あのとき、どうしても」と、彼女は続けた。「翌朝の九時にロンドン・ドックスで船に乗らなければならなかったのでしょう。急行列車に乗り損ねたら、船は出発してしまったはずでしたわ」
驚いて、リズモアの表情が変わってきていた。
「だれがそれをあなたに話したんですか?」
「すぐお分かりになりますわ。町に向かう途中、街道が通れなくて、あなたの乗った馬車が立ち往生してしまったのです。火事があって、ベクスモアの町の人たちがその家の燃えるのを見ていたんですわ」
彼ははっと立ち上がった。
「なんてことだ、あなたはあのときのご婦人ですか?」
彼女は手を上げ、皮肉っぽく抗議した。
「そう急(せ)かせないでください!貴重な時間を無駄にしないでくれ、そう思っておいでだったでしょう。わたしがあのときの婦人だなどと、結論を急がないでください。あの火事騒ぎをわたしがどうして知っているのか、これからお話しますから」
「あなただったとは分からなかったけど、無理もないんですよ。二人とも、燃え盛る家の陰になった、真っ暗な所にいたし、あなたは気を失っていて、それでわたしは……」と、ミスター・リズモアがいった。
「そしてあなたは」と、彼女は口を挟んだ。「ご自分の生命が危ないというのにわたしを救ってくださり、その後、わたしが意識を取り戻すまでいてほしいと、亡くなった夫が頼んでも耳も貸さずに」
「亡くなった夫? ミセス・カレンダー、たしかご主人は火事ではたいした怪我はなさらなかったと思いますが」
「危ないところを消防夫が助けてくれました。そうはいっても、なにしろ年が年ですから、ショックですっかり弱ってしまって。わたしにとっては、この上なく優しい、大切な人でした。あなたが夫になんといって別れていかれたか、覚えています? わたしを助けて、火傷やら怪我までされていたのですよ。
夫は臨終の床で、その話をしていました。夫はあなたにこういったのですね。『どうか名前だけでも教えてください。怖ろしい死から妻を救ってくださった方なんですから』。でも、あなたは馬車の窓から名刺を投げると、汽車に間に合うよう馬車を飛ばしていったのです。
あれからずっと、わたし、この名刺を持っていますの。わたしの勇敢なる船長さんをずっと、むなしく探していたのですよ。昨日、マンションハウスで演説される方々の中に、あなたのお名前があるのを知りました。もちろん、討論会に行きましたわ、分かっていただけますわね、こうしてお仕事のお邪魔までしてわたしがお訪ねしたわけが」
彼女は手を差し伸べた。ミスター・リズモアは何もいわずその手をとり、心をこめて握り締めた。
「でも、まだ先がありますのよ」と、微笑みながら彼女がいった。「こちらに伺ったとき、用向きを申しましたが、覚えていますか?」
「たしか、感謝だったですね」
「ただ『有り難うございました』といってすむような感謝ではないのですのよ」と、彼女は続けた。「でも、わたしのことをお話しする前に、今あなたが何をなさっているのか、それに、あの恐ろしい夜の後、いろいろ手をつくしたのにどうしてあなたの消息がつかめなかったか、そのわけも知りたいのです」
ミスター・リズモアは、討論会でミセス・カレンダーが眼にしたあの陰うつな表情に戻った。彼はため息をつき、彼女の問いに答えた。
「わたしの話のいいところは、すぐ終わってしまうことですよ。わたしを探せなかったのは無理もありません。まず第一に、あのとき、わたしは持ち船の船長ではなかったのです。ただの航海士でした。第二に、あの火事があった夜から一年ぐらいしてから、いくらか遺産が入ったので船乗り稼業を続けるのをやめたのです。あなたがいくらわたしの消息を求めても、どこでどうしているか、分からなかったはずです。小さい資本でしたが、これでうまいこと船主の仕事に乗り出したのです。そのときはもちろん、自分が幸運に恵まれていると大いに祝ったものです。ところでミセス・カレンダー、未来になにが待ち受けているか、誰にもわかるものではないのですね」
こういって彼は口を閉ざしたが、端正な表情がこわばり、苦痛に耐え、しかもそれを表に出すまいとこらえている様子だった。まだ声をかけるのも遠慮したいところだったが、ドアがノックされた。約束のない訪問者が来たといって、社員が名刺とこと付けをもって現れた。
「お出でになった紳士は、ぜひともお目にかかりたい、といっていまして、なんでも、一刻も猶予ならぬ大事な用件だとか」
このこと付けをきくと、ミセス・カレンダーはすぐさま立ち上がった。
「これで今日は失礼いたしますわ。お互いよく理解しましたもの」と彼女がいった。「明日、お仕事のあと何かお約束がありますか?」
「いいえ」
彼女は、事務机の上にある自分の名刺を指差した。「明日の夜、この住所のところにおいでいただけますか。今いらした紳士と同じですのよ。あなたにどうしてもお会いしなければならない理由があるんです」
彼は喜んでこの招待を受けた。ミセス・カレンダーはドアを開けようとするリズモアを押しとどめた。
「お気を悪くするかもしれませんが、失礼する前に、妙なこと伺ってもいいでしょうか。ただ好奇心からではなく、もちろんお聞きするにはそれなりの訳がありますの。あなた、結婚されていますか?」
「いいえ」
「そうですか、失礼しました」彼女は気を取り直した。「わたしも年が年ですから、もう誤解されないと思いますが、でも……」
彼女はそういって口ごもった。ミスター・リズモアはどうぞなんなりと、といった様子をつくった。「どうぞ堅苦しくなさらないで、ミセス・カレンダー、他ならぬあなたです、言い訳など抜きに訊いてください」
こう励まされて、彼女は思い切ってきいてみた。「きっと結婚のお約束はしているのでしょう?」そして、もう一言つけ加えた。「それとも、恋愛中かしら?」
彼は驚きを隠しようもなかったが、それでためらうことなく答えた。
「わたしには、わたしの人生には、そんな明るい話はありませんよ。恋すらしていません」
彼女は小さく吐息をもらして去っていった。それは、ほっとしたという吐息のように聞こえた。
アーネスト・リズモアはすっかり面食らってしまった。老婦人が、自分がまだだれとも婚姻関係に入っていないのを確かめていったが、一体なにを考えているのだろう。もう後の祭りだが、あのときそれとなく彼女の暮らし振りに立ち入っておけばよかった、お子さんがいるなら、何人かとも。うまくいけば、それ以上のことが分かったはずだ。あの人は、感謝といっても通り一遍の言葉では言いつくせないといっていたし、それにどうみても大金持ちだ。ぼくに結婚しているのか恋人がいるのかと聞いていったが、まさか金銭目当ての動機があるとは思えない。ぼくが自分の人生を語ったとき、思わず明るい見通しなどございませんと顔に出したが、何かぱっとするような話があるとでもいうのだろうか。明日、彼女のところに行ったら、魅力たっぷりのお嬢さんでも紹介してくれるとでもいうのだろうか。
あれこれと考えて、リズモアはおもわず唇をほころばせた。「そろそろ結婚を考えてもいい頃合だな」と、自分に言い聞かせた。「もう一月もすればおれは破産しているかも知れないんだから、皮肉なもんだ」
III
彼が財政的な危機にあるというニュースは本当だった。それというのも、リズモアがごく親しく取り引きしていた商社が倒産したおかげだった。その会社が倒産したため、リズモアの方まで決済不能に陥るのではないかとささやかれていた。いつものように荷が着いたらすぐ納品するから前払いを頼むといってみたが、言い訳ばかりで色よい返事は返ってこなかった。今オフィスに現われた友人は、商業界でも名うての、大胆な投資をする金貸し業者への紹介状をもってきてくれたのだった。
紹介状を見て、アーネストは封がされたままなのに気づいた。個人的な紹介状の場合、どのように紹介されているか本人が文面をあらためるのが慣例で、それが封がされたままとは不吉だ、あまり好意的な紹介ではないな、と思ったが、そのまま金貸しの富豪に差し出した。あれこれ言い訳を言うのをきくまでもなかった。しっかりした人物の裏書きがあれば喜んでお役に立つところですがといって、富豪はきっぱりとミスター・リズモア振り出しの手形を割引くのを断った。
アーネストは最後の努力をした。
二人の商人に助けを求めた。以前、彼らが金策で四苦八苦していたとき、手を貸して助けたことがあった。しっかりと立ち直ったこの二人の名前をいえば、どの金貸しも嫌とはいわないはずだったが、裏書を頼むと、この二人も言葉丁寧に断ってきた。
彼が提供できる唯一の担保は、どうみてもリスクが高く無理があった。帰港中の船と積み荷を担保にして二万ポンドの融資を受けようと考えていたのだが、船には保険がかけてなく、おまけに嵐の多いシーズンときて、もう一月も帰港が遅れていたのだった。いかに恩義をこうむった仲間であっても、こうした状況にある商人に金銭的な援助の手を差し伸べる者がいるだろうか。恩義を忘れたのかといって咎めても無駄な話だった。アーネストは金も手形裏書きの保証も得られずにオフィスに戻ってきた。
破産目前の男にとって、ご婦人とのお茶の約束など守れるような心境ではない。アーネストはカレンダー夫人に、せっかくのお招きだが差し迫った用件があって参上できないと断りの手紙を書いた。
「ご返事をいただいてきますか」とメッセンジャーボーイがきいた。
「いや、ただ届けるだけでいい」
IV
一時間ほどして、驚いたことにボーイが返事をもって帰ってきた。
「呼び鈴を鳴らしたとき、ちょうどご婦人がお出かけのところで、ご自分で手紙をおとりになりまして、でも、だれの手跡(て)かお分かりにならなかったようで、どこからの使いかとおききになりました。お名前をいうと、待つようにおっしゃったのです」
アーネストは手紙を開いた。
親愛なるリズモア様
わたし達のどちらかが、はっきり物申さねばなりませんね。お断りの手紙をいただいて、私がそのお役目を果たすことにいたしました。拝察したところ、貴方はとても気位がお高くて、しかもひどく猜疑心もおありのようですが、もしそうであるなら、きっと気分を害されるかも知れませんが、ご安心ください、わたしが貴方の友人であることを証明いたしますから。
差し迫った用件がある、といわれていますが、はっきりいえば本当は金策なのでしょう、存じております。あの公開討論会で、貴方が資金繰りで深刻な事態に陥っているとシティーで取り沙汰されている話を耳にしました。
そこで、私自身の資産状況を申し上げましょう。たった二言です。資産家の未亡人、子供はいません——
アーネストは一息ついた。カレンダー夫人の「チャーミングなお嬢さん」に会えるかもしれないと一瞬期待したものの、「そんなロマンチックな出会いは夢のまた夢」、思い直して手紙に戻った。
貴方に助けていただいたからといって、このような申し出で恩義に報いようというわけではありません。貴方にお金を御用立てしてお助けするといっても、それでご恩返しができるなどとは考えてもいません。ただそれがわたしの務めだと思っているのです。
いいかしら、この手紙を屑籠に放り棄てないでくださいね。
お助けするといっても私だけで決めるわけにいかない事情があって、それも、お目にかかる前にお話しすることができないのです。誠心誠意お助けするといっても、それにはきわめて非常識な、ひどく厄介な条件があるのです。貴方が破産寸前だとすれば、その災難は私にとって口実になりますし、私の申し上げる条件で借入を承知してくだされば、貴方にとってもいい口実になりますわ。いずれにしても、生命を助けてくださった方が、情けあり寛大な心の持ち主であると信じておりますの。
あれこれ申しましたが、もう一つつけ加えさせてください。もうお誘いを断らないでください。お約束どおり、明日の夜お目にかかれますよう、願っております。私は頑固な老婦人、でも、貴方の忠実な友であることには変わりありません。
メアリー・カレンダー
アーネストは手紙から眼を離し、「いったい何を考えているのだろう」と不思議に思った。
V
しかし実務家の彼のこと、そういつまでも迷っていなかった。約束通りに出かけようと思い直した。
金持ちの身なりや態度に、ジョンソン博士がいう「富の奢(おご)り」が見られることがあるが、それよりも彼らの屋敷の方がはるかに「奢りぶり」を見せているといっていい。なぜといって、少しも不思議はない。身の回りを飾ったところで、高が知れていてお笑い種になるのが落ちだが、しかし、飾るといっても、見事な絵画や高価な陶磁器、すばらしい家具で飾るとなると、骨董商などの専門家の鑑識眼で選び抜かれた趣味の良いもの買うことになるので、だれも貶(けな)したり軽蔑の眼差しを向ける者がいない。百万長者だったなら、着飾った自分を見るよりも屋敷の方を見てほしいと望むはずだ。
約束通りにカレンダー夫人を訪ねたアーネストが見たものは、富は惜しげもなく、しかも控え目に遣われている屋敷だった。
玄関ホールを通り抜け、階段を上っていった。アーネストが目にしたものは、金では買うことのできない趣味の良さが溢れていて、金を出せば購(あがな)えるというものではなかった。これと意識することもなく、アーネストは魅せられてしまった。二階の踊り場まで男の召使いが案内してきたが、見ると、婦人の居間(ブドワール)のドアのところにメイドがいて、アーネストの到着を夫人に知らせるところだった。
ミセス・カレンダーが歩み出てきて客を迎えた。飾りのない夜会服を着ていて、彼女の年齢にまったくふさわしいものだった。美しい品のいい顔は、昼の明かりの中では肌の衰えが見え隠れしていたが、それもシェードを通すランプの光のおかげで、ほんのりと窺(うかが)い知る程度だった。彼女を囲む美しい調度は、落ち着いた色合いの壁紙を背にして、抑えた感じで明るく輝いていた。この場の彼女には、これまでと違って強烈な印象があった。アーネストは仕事が気になり落ち着いているどころではなかったが、しばらくはただただ心を打たれていた。彼のオフィスに現れたミセス・カレンダーは、場違いのところに乗り込んできた婦人だったが、自分の屋敷にいるミセス・カレンダーは、アーネストがこれまで抱いていた女性観をすべて覆す女性だった。
「むりやり約束を守らせてしまって。今夜はほんとにありがとう」微笑みを浮かべ、親しみのこもった調子で彼女はいった。
「こちらこそ、お礼をいわなければ」と彼は答えた。「すばらしいお屋敷にお招きいただいて、思わず仕事のトラブルを忘れてしまうほどでした。いえ、わすれたといっても、 すぐ現実に戻りましたが」
彼女の顔から微笑みが消えて、真顔になっていった。
「では、ほんとうなのですね」
「まったく、真実です」
彼女は自分と隣り合って坐るよう彼にすすめ、メイドがお茶の用意をして部屋を出て行くのを待って 、ふたたび口を開いた。
「今と同じように、とても打ち解けた気持ちで手紙を書いたのですが、分かってくださったかしら」二人きりになってから 、彼女はこう訊ねた。
「ありがたい気持ちで読みました。しかし……」
「しかし、わたしが何を言い出すかお分かりになっていない。どちらにも納得できないことがあるかもしれませんが、その前にお互いの立場を説明しておきませんこと。 あなたの今置かれている立場は、ほんとに最悪ですの? わたしを信頼してくださって大丈夫、ひどく辛いことでなければ、あなたの秘密を聞かせてください。わたしも、わたしのことをすっかり、包み隠さずお話しますから」こういって、彼女は親身になってリズモア を見つめた。
ためらったのを恥じるかのように、彼はすっかり打ち明けた。
「どうでしょう、私の申したことがお分かりになったでしょうが」。リズモアは何もかも、真実を伝えたのだった。
彼女は自分の言葉でリズモアの話を言い直した。「帰港が遅れているあなたの船が、今から一ヶ月以内に戻ってくるならば、無事にお金を借りられるけど、船がもし難破したら、月末の手当てがまったくつかない。わたしから融資を受けるか、あるいは支払い停止になる、というのですね」
「その通りです」
「で、あなたが必要な金額は、二万ポンドなのですね?」
「その通りです」
「わたし、その額よりも二十倍のお金をもっていますの、ミスター・リズモア。もっとも、ひとつだけ私の条件がありますが、わたしの一存で使えるお金なんです」
「その条件とは、あの手紙でいわれていたことですね」
「そうです」
「で、その条件をかなえるのは、私の決心次第と仰るのですね?」
「まったく、あなたの決心次第です」
こう聞いて、彼は口をつぐんだ。
彼女はなんとか落ち着きを保っていたが、ここにきて心の乱れを隠しきれない様子だった。アーネストは口を挟んで、彼女に先をうながせた。
「そのことに、私が関係しているのですね?」
「そうです。でも、その訳をお話しする前に、あなたがどうなさるか、知っておきたいの。わたしにとって、そんなこと考えるだけでも嫌なことですが、だって、男の方ってご自分の支払い義務を果たせなくても、商売を再開して成功すると、いずれは自分の負債を支払うというでしょう」
「ということは、私がそうした人たちと同じように振舞うのではないか、そう思っているのですね?」と、彼がいった。
「それから、こうして第二の努力をつくした男が、また失敗して、それまで信用してくれていた仕事仲間への負債が倍になってしまったとき、その男がどうするか? そうした破目に陥った男を、知っています。その男は自殺しました」
彼女は、そっと彼の手を押さえた。
「あなたのことが、よく分かりました」と、彼女はいった。「もしも破局が訪れたら……」
「もしも破局が訪れたら」と、彼がさえぎった。「金もなく信用もなくした男にできる償いはただひとつ。でも、その先は言わぬが……」
彼女は恐ろしくなって彼を見つめた。
「その先はききたくもないわ!」
「それでは、遺言状になんて書いてあったか、それを聞かせてください」と、彼がいった。「そうしますわ。でも、しばらく気を休めてから」
VI
しばらく、といったがミセス・カレンダーはすぐに気を取り直し、落ち着いて話し出した。
「わたし今、夫の財産の、生涯不動産権というものを持っているのです」と、彼女はいった。「わたしが死んだら、お金はしかるべき慈善団体に分けられるのです。もしもあることが、ある出来事というか、それがあれば別ですが……条件があるのです」
「で、遺言状にそれが規定されているのですね?」アーネストはこういって先をうながせた。
「そうなの。わたしは四十万ポンドすべを相続する女王様になるんです……」こういうと、彼女は声を落とし、彼から目をそらせて言葉を継いた。「唯一の条件は、わたしが再婚することなの」
彼は驚いて彼女を見つめた。
「どうやら勘違いしていたようですね」と、彼はいった。「その唯一の条件があるから、あなたは再婚されないのでしょう?」
「いいえ、その反対ですの、ミスター・リズモア。お話したとおりです。もうお分かりでしょう、あなたの信用と心の安らぎをとり戻すこと、すべてはあなた次第なのです」
しばらく考えにふけっていたが、彼は彼女の手をとり、うやうやしく口元にもっていった。「あなたは気高いご婦人です!」と、彼はいった。
彼女は返事をしなかった。目を伏せ、彼の決意を待った。彼は、決めるのは自分の責任であると知った。
「どんなに辛いことが私を待ち受けていようとも、そんなことより、自分が心から思うことを言うべきなのですね。あなたは寛大にもご自身のことを打ち棄てて、自分を犠牲にしようとお考えですが、それにふさわしい価値がある男などこの世にいません。わたしはあなたを尊敬します、あなたを賛美しています。心からあなたに感謝します。今は運命に身をゆだねるだけです……もう、おいとまします」
彼は立ち上がった。彼女はそれを身振りでとどめた。
「若い女性でしたら」と、彼女は答えた。「きっと口にはしないかもしれませんが……わたしはもう年ですから、はっきり申します。あなたを突き放して運命にゆだねるなんて、嫌ですわ。あなた、こういわれましたね、わたしを尊敬します、賛美しています、心から感謝します、と。一日だけ、お待ちしますわ。どうお考えか聞かせてください。お約束いただけますね?」
彼は約束した。「では、どうぞ」と、彼女はいった。
VII
翌日、アーネストはミセス・リズモアから手紙をもらった。それは次のような文面だった。
昨夜あなたがお帰りになる前に、お話しておかなければならなかった考えがいくつかあります。
あなたにぜひともお考えいただきたいことですが——それも、あなたがどうのように思い直してくださるかが前提ですが、どのような状況になっても、あなたをわたしに強制的に縛り付けるものではありません。
わたしの年齢ですから、きっぱりと申し上げられます。わたしたちの結婚は、あなたの破局を食い止めようという考えです。そして、この結婚は、いろいろと厄介な手続きがありますが、後はたんなる形式的な儀式になります。
もしも、そうです、もしもそれまでに遭難した船が現れたなら、この結婚の唯一の理由がなくなってしまいます。わたしたちはこれまで通り、親しいお友達です。わたしたちを義理で結びつける厄介なしがらみは、もはやなにもないのです。
でも、そうはいかないでしょうね。やはりあなたに、いくつかの条件を認めてくださるようお願いすることになります。わたしの立場をお考えいただければ、それがどのような条件であるか、きっとご理解いただけるでしょう。
わたしたちは、いうまでもないのですが、母親と息子のようにいっしょに暮らすことになります。結婚式はごく内輪で。それからこれはあなたのお役目ですが、すぐさま、どこか外国に、イングランドを離れて好きなところにいきましょう。そのまま国に残っていたら、わたしの友人や、それにあなたのお友達にしたって、二人がなんでいっしょになったか、動機を誤解するにきまっていますから。あれこれひどい陰口をいわれて、わたしのような女にはとうてい耐えられそうもありません。
それで、これからの暮らし方ですけど。わたしはあなたをすっかり信頼しています。あなたは今と同じ独立した立場をおとりになっていいのです。わたしとおしゃべりしたくなったら、いつでも大歓迎です。それ以外はあなたの思うままに過ごしてください。わたしは屋敷の一方に、そしてあなたはもう一方に。それからわたしは毎日自分だけの時間を持たせてもらいます。音楽をやっています。音楽とはこれまでずっと、幸せなお付き合いをしているのです。あたなが趣味に没頭なさるのもまったく自由です。
もう一言。これはどうぞお忘れにならないで。あなたはすごく優しい人だからご自分のことを考えないかもしれませんね。
わたしの年を考えれば、これから何年間も感謝、感謝をいい続ける老婦人と付き合わなければならないと、きっと心配かもしれませんが、大丈夫ですよ。あなたはお若いから、これからも、形式だけの結婚でない結婚ができますわ。もしわたしが生きている間に、そんな素敵な方が現れたら、わたしに教えてくださいね。お約束しますから、その方に待つだけよって伝えますわ。
読み返すと、ずいぶんとそっけなく書いていますが、だからといって冷たい女だとお思いにならないでください。わたしは、あの討論会で初めてあなたを見たとき、あなたを好ましく思い、惹かれました。あなたがお考えのように、わたしが好きになれない男性相手に自分を犠牲にしてまでプロポーズなどしていません。わたしの気持ちはこれから先ずっと、心からあなたに感謝しているのに変わりはありません。あなたの船が無事であろうと、あるいは遭難しようと、年老いたメアリー・カレンダーはあなたが好きです。この感謝の気持ちを、ほんとうに、はっきりということができます。
今夜、ご返事を頂ければ。ご自身でいらっしゃっても、手紙でも、あなたに一番よい方法でお願いします。
VIII
カレンダー夫人は夕方早くに手紙で返事をもらった。言葉少なに、多くを語っていた。
「他人さまの親切を聞き入れない男なら、あなたのお手紙に逆らうことができたでしょう。私はそうした男ではありません。あなたのお気持ちに、すっかり降参しています」
二人の結婚には特別な「許可」を必要とする手続きがいつくかあったが、アーネストが片付けた。これからどういう暮らしになるか、何も決まっていない日が続いたが、それぞれにどこかきまり悪い気持ちがあって、アーネストとミセス・カレンダーとを遠ざけていた。彼女は毎日シティーからの情報を受け取っていたが、文面はいつも同じ、「ご依頼の船の情報なし」だった。
IX
船主の債務がいよいよ決済されるという前日になっても、シティーからの報告は相変わらずの文句だったので、特別許可が出ていた結婚をすることになった。信頼され、秘密を打ち明けられたのはカレンダー夫人の弁護士とメイドだけだった。後に残る仕事の始末は事務長に任せたが、彼には、雇い主リズモアへの請求は漏れなく支払うよう指示されていた。こうしてから、奇妙なカップルはイングランドを出て行った。
彼らは前もってニ三日パリに留まることにしていたが、ここでもしアーネスト宛に重要な手紙があれば受けとるつもりだった。到着した夜、ロンドンからの電報がホテルで待っていた。行方不明の船はダウンズに投錨したのだが、それまでは霧のため発見できなかった。しかも、発見されたのがアーネストの債務が決済される前日だった。今テームズ川を上ってロンドンに到着した、という報せだった。
「後悔してます?」リズモア夫人が夫にきいたが、「とんでもない!」と彼は答えた。
二人はミュンヘンにまで旅を続けることにした。
リズモア夫人の音楽好きは、アーネストの絵画好きと似たり寄ったりだった。時間があると、アーネストは美術の鑑賞眼を養い、ぞんぶんに楽しんでいた。ミュンヘンのバイエルン国立絵画館は、彼がヨーロッパでこれまで訪れたことのない唯一といってもいい美の殿堂だった。夫人は自分から誓いをたてた約束通りに、夫が一緒に行きたいと思う所なら、どこへでも喜んで出かけた。彼女がこれだけはと提案したのは、家具つきのアパルトマンを借りることだった。もしホテル住まいだったら、夫妻どちらかの友人が宿帳で二人の名前を見つけるかもしれないし、ロビーで出会うかもしれない。なにしろミュンヘンは観光都市だから、自分たちと同じようにだれが訪れてくるか分からない。
彼らはすぐさま、何から何まで二人の暮らしに都合よく整った大きな屋敷に落ち着いた。アーネストは毎日を美術館に行って過ごしていた。リズモア夫人は夫と一緒に馬車で遠出したが、あとは屋敷に残って音楽を楽しんでいた。こうして二人は和気藹々と暮らしていたが、そうはいっても幸せに暮らしていたわけではなかった。これといって眼に見えて変化の兆しがあったわけではないが、リズモア夫人の気分が落ち込んでいた。アーネストがそれに気づくことがあったが、彼女は無理して快活に振舞っていた。そうした様子をみて彼は辛い思いをしていた。これから先、何も心配しないですむようになった、なにもかも彼女のおかげだ、そう彼女に思ってもらおう、なにか先々のことに不安があっても、それはもう一切顔に出すまい、と思った。
しかし、二人の者がうわべをつくろい平穏無事に暮らしていても、不安の種がいつの間にか増えていき、それが時がたてばかならずやはじけるものだが、これは自然の摂理といってよいだろう。
ミュンヘンに来てちょうど十日たったとき、危機が訪れた。アーネストが美術館からいつもより遅く戻ってくると、妻にとってはじめてのことだったが、自分の部屋に閉じこもってしまった。ディナーの席に現れたが、つまらない言い訳をしていた。リズモア夫人は使用人が引き下がるのを待っていた。
「ねえ、アーネスト、そろそろほんとのことをいってくださいな」といった。
言葉少なだったが、こう切り出した彼女の様子にリズモアは驚いた。どうみても彼女はそわそわと落ち着きがなく、彼の方を見ようもせず、皿にあるフルーツをつついていた。彼の方もどぎまぎして、こう答えるのがやっとだった。
「とくにないけど」
「美術館には大勢の人が来てるでしょう?」と彼女がきいた。
「いつもと変わりないな」
「とくに目に付いた人がいたでしょう?」と彼女は続けた。「ご婦人たちの中で、という意味よ」
彼はぎこちなく笑った。
「ぼくがどれほど絵に打ち込んでいるか分かってるでしょうに」と彼はいった。
会話が途切れた。彼女は彼を見つめたが、すぐに眼をそらせた。だが、その眼に涙が浮かんでいた。彼はそれを見逃さなかった。
「ガスを細めてくださらない?」と彼女がいった。「このところ、なんだか眼がおかしいの」
求めに応じてアーネストが明かりを弱めた。彼女には、まばゆいランプの光のもとで仔細に顔色を読まれたくない理由があった。
「いいかしら、ソファで少し休みますわ」と、彼女がいった。彼の坐っていた位置では彼女に背中を向けてしまうことになるので、椅子の向きを変えようとすると、彼女はそれを止め、「わたし、あなたと顔を合わせていたくないのよ、アーネスト。あなた、わたしを信頼してないのですもの」といった。
それは言葉だけではない、言葉の響きが彼生来の、優しく人を思いやる心をゆるがせた。彼は居場所を変えて彼女の傍らにひざをついた。そして胸の内をすべて語ったのだった。
「これでも、あなたにふさわしい男と思いますか?」すべてを話して、こう訊いた。
彼女は黙ったまま彼の手を押さえた。彼は言葉をついだ。
「こうして告白をしたからには、あなたのことを、あなたのことだけを思わなければ。そでなければ、ぼくはおそろしく恩知らずの嫌な奴になってしまう。明日、ミュンヘンを立ちましょう。そして、もしも決意が揺るがなければ、ぼくがこの眼で見たあの素敵なひとは、ただ夢に現れた女性だった、そう思うことにします」
彼女はアーネストの胸に顔を埋め、自分の書いた手紙、二人の人生を決めることになった手紙を思い出してほしいといった。
「もしわたしが生きている間に、素敵な方が現れたら、わたしに教えてください、お約束しますから、その方に『待つだけよ』って伝えます、そう約束したでしょう。約束を果たすには、まだ先が長いかもしれないけど、いつかそうなるわ。彼女に会わせてくれるでしょう。明日美術館で彼女に会ったら、ここにお連れしてくださいね」
リズモア夫人の願いに反対はしなかった。アーネストが困ったのは、承知してもらう口実だった。
「話では、彼女は絵画の模写をしてるんでしょう」と、リズモア夫人がいった。「わたしがパリであなたに買ってきた、あのフランス絵画の巨匠たちの素描集のことを話せば興味をもってくれるわ。ここにきて見てもらいなさいよ。それで、彼女が素描の何枚かを模写できるか訊けばいいわ。それで、あなたさえよかったら、わたし喜んで彼女とお会いすることよ」
アーネストの胸元で、彼女の息遣いが激しくなってきた。このままでは彼女が自制心を失って泣き出すのではないかと思い、アーネストは宥めるように軽い調子で話した。
「たいした思いつきだな。わが妻が夫たるぼくを騙そうと思ったら、ぼくなんざ、まるで赤子だな」
彼女はすくっとソファから立ち上がり、彼の額にキスをして、「わたし、ベッドの方がいいわ!」と言い捨て、何もいえないであっけにとられているアーネストを置き去りにしていった。
X
翌朝、彼は妻の部屋のドアをノックして、昨夜はよく眠れたかときいた。
「駄目だったわ」と、彼女が答えた。「悪いけど、朝食はご一緒できないわ」アーネストがそれを聞いて引き下がろうとすると、彼女が「お忘れにならないで。美術館からお帰りになるとき、お一人では駄目よ、待ってますから」と声をかけた。
三時間たって、彼は帰ってきた。模写をしているという若い女性は彼の申し出を受けて、素描集を拝見するといって彼と一緒だった。
居間に入ってみると、だれもいなかった。彼は鈴を引いて夫人のメイドを呼んだが、ミセス・リズモアはお出かけになりました、といった。メイドのいうことが信じられず、彼は夫人の居間のある棟に行ったが、彼女の姿はなかった。
彼が居間に戻ってくると、若い女性は機嫌を損ねていたが、それも当然で、彼女としてみればこうした扱いを受けるとは思ってもいなかったはずだ。それにしても、彼女のあまりも明け透けな物の言いよう、その態度に驚いてしまった。
「あなたがいない間に、奥さんのメイドと話してたのよ。あなたって、お金目当てにオバアサンと結婚したんですって。だからその人、わたしに妬いてるんでしょう?」と彼女がいった。
「頼むから、そんな風に考えないでほしいな。あんたはぼくの妻を誤解してるんだ。彼女が焼き餅妬くなんて、考えられない話だ」
若い婦人は笑った。「いずれにしても、あなたはいいだんな様ね」と、皮肉っぽくいった。「ほんとはどう思ってるの、いいなさいな。奥さんが、わたしのように若くて美人さんだったらなおさらいいとでも思ってるんでしょ」
彼は驚くというより、嫌気が差してきた。初めて彼女を見たときは、あまりの美しさにすっかり魅了されてしまったのだが、こうした魅力的な女性が品もなく行儀作法も心得ていないとは、これまで思いもしなかった。すっかり彼女に幻滅してしまい、その声の調子も耳障りになっていた。機嫌が悪いのをむき出で、それをまったく隠そうともしない調子だった。
「あなたには驚かされたな」と、彼は冷ややかにいった。
こういっても、彼女にはなんの効き目もなかった。逆に、彼女は前よりもいっそうふてぶてしくなった。
「思いつきをいっただけなのに」と、彼女は続けた。「冗談もいえない人なのね、もっと苛めてあげるわよ。わかって、あなたのオバアサン、わたしを侮辱しているのよ。いっそうのこと、変身させたらどうかしら。あなたがちょいと指をおっ立てるだけで、絶世の美女に変身するとしたら、やってごらんなさいよ」
こうまでいわれて、彼の我慢も限界だった。「もう結構だ、女性に対するしかるべき敬意を失うつもりはない。こうなったらお仕舞いだな」。彼は立ち上がり部屋を出ようとした。
こういうと、彼女はドアに走って、出て行く彼をさえぎった。
彼は身振りで通してくれとうながした。
彼女はいきなり彼の首に手をまわし、激しくキスをし、そして耳元に口を寄せて囁いた。「アーネスト、ご免なさい! 変装してあなたに会ったおかげで、わたしはお金持ちです、どうか結婚してください、といえたのよ」
XI
アーネストはどうやら気をとり戻すと、彼女から身を引いた。「これで、お芝居は終わったのかな」といったが、苦々しい様子だった。「ぼくは新しいお役を演じるきみに付き合うことになるのかな」
「そんなに辛く当たらないで」と、彼女は穏やかな口調で答えた。「あなた、ミス・マックスという名前の女優さんのことご存知?」
アーネストにもやっと彼女のいうことが分かってきた。「ご免、ひどい言い方だったね」といった。「それにしても、ひどい試練だったな」
彼女は激しく泣き崩れ、「愛なの、愛がすべてなの」とつぶやいた。
このとき初めて、彼女は彼に許されたといっていい。アーネストは彼女の手をとって脇に坐らせた。
「そういえば、ミス・マックスのことを聞いているよ。すっかり役になりきれる女優さんだった。後悔してるんだ、彼女が舞台に出ているときに一度でもいいから見ておきたかったよ」
「彼女のこと、他に聞いていませんの、アーネスト」
「そうだな。最高にしとやかで、つつしみのある人だったとか。それと、女優として絶頂期にあるとき、舞台から身を引いて老人と結婚したとか」
「わたしの部屋に来てくださらない?」と、彼女がきいた。「あなたにお見せしたいものがあるの」
それは彼女の夫の遺言状の写しだった。
「読んでくださらない、アーネスト、書き出しのところよ。亡くなった夫が、わたしのために書いてくれていますの」
遺言状には次のように書かれていた。
私がミス・マックスと結婚した動機をまず述べておかねばならない。それは彼女の立場を公正に理解されるよう、またさらに、私自身をも公正に理解されるよう願うがためである。彼女のおかれた立場に、私は心から同情している。彼女は父親も母親も、友人という者もない哀れな孤児で、孤児養育院の慈悲にすがり、そこをわが家として育った。その後舞台に立つようになったが、放蕩者たちに追い回され、舞台を共にする卑しい仲間たちの妬みを買い、彼女を蔑む者もあるという中で、その人生は貞淑な婦人のそれであった。
私は彼女に家庭を与え、父親としての保護を申し出た。それは世間が我々二人にふさわしいと認めうる条件での申し出であった。彼女と結婚してから私が経験したものは、いついかなるときでも変わることのない優しさであり、穏やかな愛情であり、健全な思慮に溢れた毎日であった。彼女が辛い試練の立場にありながら、きわめて気高く振る舞うのを見るにつけ、私の死後であっても、彼女の人生になにか報いねばならぬと考えている。彼女が、ただ結婚という形だけでない、第二の結婚を選択するよう願っている。彼女が申し分ない賢明な選択をするものと確信している。それは、彼女にふさわしい男性を幸せにするであろうし、さらには妻として、母として、彼女が暮らす社会的交わりの中で、類稀なる評価を得られるものと信じている。
彼女の美徳に捧げる私の心からなる誠意の証に、本遺言状で下記の条項を加えるものである。
次に書かれている条項は、アーネストがすでに読んでいたものだった。
「分かってくださったでしょう。初めてあなたに会うまで、わたし恋したことなかったの」と、リズモア夫人がいった。「こんな気持ち初めてだったの。なんのそなえもなくいきなり、あなたに、すっかり魅せられてしまったの。いうでしょう、まるで狂ったようになるって、そうなると、女は身も心も殿方に捧げてしまうって。お願いですから、わたしのこと軽蔑しないでくださいね。わたし、どうしてもあなたを不名誉と破産から救わなければならなかったのですわ。それと、以前の舞台の記憶があって、ついその気になってしまったの。舞台で同じヒロインの役を演じていたんです。そのヒロインとは話の結末は違っていますけど。舞台では変装が成功して目出度し目出度しで/*-した。
二人の結婚以来、わたしが知ったことといえば、疑うこと、恥じることで、どんなにか惨めに時を過ごしたことでしょう。本物のわたしになってあなたに会いに美術館に行ったとき、どんなにか救われたことでしょう。あなたがわたしを賛美してくださるのを知って、どんなにか嬉しかったか。
このまま変装を続けているのができなくなったわけではないの。夜だけでなく、昼間でも、変装をお休みできる時間はありました。自分のお城で、音楽室にこもっていたんですから。メイドが見つからないよう見張ってくれていました。でも、もう駄目!打ち明けなければならなかったの。こんな嘘を重ねて、それが成功したとしても、もう耐えられなかったの。ご覧になって、見るもおぞましい証拠の品よ、もう二度と見たくないわ」
彼女はすくっと立ち上がり、遺言書の写しを取り出したままになっていた引き出しに向かった。引き出しには、彼女がもう使うつもりなく放り込んでいたグレーの鬘が入っていた。鬘は、これが見納めだった。
彼女は鬘を拾い上げ、暖炉に向かった。
アーネストは、彼女がそれを燃やしてしまうのを引き止めて「ぼくにください」といった。
「どうなさるの?」
彼はリズモア夫人を胸元に引き寄せ、「ぼくはけっしてわが愛する老妻を忘れないよ」と答えた。






























