Think Of England その8 ハニコム・ヒルの十字路(前半)

ハニコム・ヒルからの眺め
最近、リーディングをした中に、17世紀の日記が主人公を運命の恋に導くという作品があった。こんなふうに古い書物が何か大きな役割を果たす小説は、有名なところではサフォンの『風の影』とかいろいろあって、やっぱり時を経た本には魔力があるのかもしれないという気にさせる。古書店の、甘いような埃っぽいような、黄ばんだ紙とインクのにおいにはこの世ならぬ雰囲気がある。
〈母〉と〈父〉の住むデヴォンの町で、語学学校に通うようになって数日たち、帰りに寄り道するクラスメートもできて、授業が終わった後、おやつを買って海岸のプロムナードを一緒に散歩したりするようになった。春浅い風にあたりながら頑固に海をにらんでいるおじいさんを横目に、買ってきたまだ温かいパイをかじりながらおぼつかない英語でたどたどしくおしゃべりをする。その日、一緒にいたのはステファニーというリヨンから来た留学生だった。ステフは金髪、青い目で白い陶器のような肌が本当にきれいで、女同士なのに、ステフが「一緒に帰ろう」と言ってくれるとわくわくした。
「アヴ ディス」とhの音が抜ける発音で、ポケットからチョコレートを出してくれると、ステファニーは、「今日は用事ある?」と聞いた。
ステフのホームステイ先はハニコム・ヒル(「アニコム・イル」とステフは発音した)という丘の反対側で、他の留学生の家とはだいぶ離れている。昨日からステイ先の一家が旅行に出かけてしまい、ステフと犬のボブだけが留守番になった。いない間に遊びにこいというのかと思ったら、「家の近くにね、気持ち悪い十字路があって」と言いだしたステファニーはちょっと寒そうにした。「なんだか夕方に一人で通るのが怖いの」
宿題をやっていないというと、黙ってノートを写させてくれるステフに恩義を感じていた私は「それでは送っていってあげるよ」と申し出て、パイの屑を払い、アエロチョコの残りを口に放り込んで立ち上がった。
ハニコム・ヒルはステーション・ロードという廃駅のある町外れの通りをさらに登っていく。頂上に近づくにつれ家の数が減っていき、古めかしい石造りの屋敷と、羊がうろうろと草を食べる放牧地が交互に現れるようになる。狭い道は舗装もされていない。両側は石積みの塀と棘の多いクロイチゴがからまるヘッジである。
前のほうに大きなねじれた楡の木が覆いかぶさっている。そこから森がはじまり、ステフの家はもうすぐだ。
「ね、それを見て」ステフが袖をひいた。
楡の木の下の、十字路の横に小さな角の丸くなった石があって、へたくそな文字が彫られている。Susan Manningという名前がかすかに読み取れた。あるいはWanningかもしれない。文字に指を走らせると、湿った苔が爪の間に入った。
二軒ほど先の門の向こうで太ってパンパンのソーセージのようなコーギーのボブが短い後足で立ってぴょんぴょん跳ねている。ボブがいればもう大丈夫、というステフに手を振り、私は三〇分かけて家に帰った。
たしかあれは金曜日だったと思う。オックスフォード英検を受ける生徒の特別授業が終わり、学校を出たときはもう街灯には明かりがともっていた。このあたりはわらぶき屋根の築300年を越えるコテージが多くて、向かいの商店もほとんどそうである。青や赤に塗った可愛いウィンドウに明かりが灯ると、どの店もなんとなく暖かそうで、居心地がよさそうで、足を踏み入れてみたくなるが、不動産屋や水道の蛇口屋や釣り道具屋に入ってみても仕方がない。なんとなくいつもと反対の方に歩いていってみると、道がカーブしていてこれまで気がつかなかった店が一軒あった。
ウィンドウにはウェッジウッドの黒いジャスパー陶器の一式や、金箔のはげた額、ローマ時代の遺物のように緑青のふいた三輪車、古ぼけたウェストコート、何本か足りない錆びたスプーンやフォークのセットが雑然と並んでいる。ウィンドウにはBLYTON&COという文字が金字で書かれている。
カランとベルを鳴らしてガラス格子の入った黒いドアを開けると、古いもののにおいが押し寄せてきた。見渡すとわけのわからないガラクタやお宝に混じって、スティーブン・キングやルース・レンデルのペーパーバックが山積みになっている。太った店主はテレビでフットボールの中継を見ていて、「Good Evening, My Love」とは言ったものの振り返りもしなかった。
店は思ったよりもずっと広く、幅の狭い部屋が奥へ続いている。突き当たりを右に曲がると、レースばかり集めた部屋があった。黄色く変色したドーリーや、茶色の染みのついたハンカチが多いが、中には見事な薔薇や羊歯の模様を編みこんだ肩掛けや付け襟などもあって、そういうものには「18世紀、ホニトン、35ポンド」とか「ヴィクトリアン・レース、15ポンド」とかタグがつけられている。試合中継の興奮した声と観客の歓声が響き、「Damn!」と店主の大声が聞こえる。
日本に帰るときに母にお土産にしよう、と思って顔を上げると、さらに奥があることに気づいた。「Go on my son!」店主は試合に夢中なので、かまわず覗いてみると、そこだけは天井が二階分はある吹き抜けになっていて、四方の壁は床からびっしりと本が並んだ一面の書棚だった。並んでいるのは見慣れたペーパーバックの表紙ではない。こちら側にタイトルが書いてあるのとないのがあって、ほとんど布製か、皮製なのか、ねっとりと光る黒や茶色の表紙の本ばかりである。かび臭い古い書物に囲まれていると、じっと本に観察されているような気がして居心地が悪かった。降り積もった時間の重さがそのままよどんだようなしんとした部屋だ。
「How can I help you?」
思わずきゃっと声を出して振り返ると、太った店主がうさんくさそうにこちらを見ていた。何か盗んだわけでもないのに、急にうしろめたくなると、私は手近な書棚から題名も確認しないで1冊を引き抜き、裏に鉛筆で書き込まれた一ポンドという値段だけ確認して店主に差し出し、店を出てきた。
家では私が夕食の時間になっても帰ってこないというので〈母〉が大騒ぎし、〈父〉がアノラックを着こんで捜索に出かけるところだった。買った本と鞄とコートを部屋に置いて降りてくると、ぷんぷんしながら〈母〉がローストをオーブンから出していた。父がグリーンピースとゆでたジャガイモを盛り付け、片目をつぶってみせた。
週末は〈父〉の運転でコーンウォールに連れて行ってもらい、そのまま本のことはすっかり忘れていた。月曜日、学校に行き、帰ってくると〈母〉が言った。
「今日、久しぶりにグレイ・レディを見たわ」
実は、シックスペニー・コテージには〈母〉がグレイ・レディと呼んでいるお化けが出るのである。出るといっても、朝、暗いうちに居間に下りていくと、灰色の影が安楽椅子に座っていたとか、夕方、隣の家からはみ出しているリンゴの木の枝の下で、白い長いドレスの人影が腰をかがめていたとか、そういう話で、〈母〉以外に見た人はいない。そしてキッチンの夕べのパイの残りが消えていた、という話になると〈父〉はこっそりと犬の散歩に行ってしまう。
「今度はどんなだった?」
「ちょっといつもと違ったわねえ。池の横でうつむいて……何か……こう手を動かしていた気がする」と言って、〈母〉は胸の前で指と指をすり合わせた。
「いつからカソリックになったのかね、マイディア」と入ってきた〈父〉が言い、わたしが「グレイ・レディだよ」と言うと、「Oh Christ」とキッチンに行ってしまった。
しかし、〈父〉の言葉で何かをつま繰るグレイ・レディは、ロザリオで祈っているのだと気づいた〈母〉はがぜん目を輝かせた。怖い話が大好きで、本棚にキングをどっさり並べている人なのだ。「なんだかいわくありげだわね、また出ないかしら」
(後半に続く)





























