Think Of England その6 ウォック・ザ・ラッシー

「リーズ運河」
リーズがその当時、ダイハードな街であったこと(今もそうかもしれないが)は前にも書いた。どれくらいダイハードかというと、大学のある坂をのぼった先の、ハイドパークという公園一帯が「治安の悪い地域全英ベストテン」で堂々の第一位に輝いたほどの筋金入りである。少なくともわたしがいた当時、この公園は日が暮れてから足を踏み入れたら最後、(いろんな意味で)キズものにならずには出てこられない場所として人々に恐れられていた(オオゲサ)。
街を歩いていてパトカーが走り回っていない日はないし、やれショッピングセンターのトイレで子供同士のレイプ騒ぎだ、やれIRA(?)の爆弾だと、にぎやかこの上ない。もちろん大学だって、そんなことはよおく分かっているので、大事な女子学生たちが悪者の毒牙にかからないように心がけている。その対策の目玉が大学のステューデント・ユニオンの建物前から二〇分毎に発着する(ただし、時刻表どおりに発着したことはない)ウィメンズ・バスなる無料のマイクロ・バスである。これは日が暮れると、リーズを端から端まで走り回り、女子学生たちを寮や下宿先に一軒一軒、送り届けてくれるのだ。しかも寮や家の前で降ろすだけでなく、カギのついた門やドアの中に入るまで見届けるという念の入れよう。以前、バスが走り去ったあと、寮の門前でアタックされた学生がいたからである。ね、すごいところでしょ?
そんなリーズにようやく慣れてきた一〇月のある日、わたしは中華なべを買うことを思いついた。なにしろ中華なべほど便利なものはない。炒め物だけじゃなく、スープも作れるし、やや小さくなるけど目玉焼きも作れるし、揚げ物もできるし、野菜もゆでられるし、ちょっとした万能選手である。いろいろあって同じ寮の中で二回引越し、ようやく落ち着いて暮らせるようになったので、料理をする気がわいてきたこともある。ついては中華なべを買いたいのだけれど、とフラットメートのトレイシーに相談すると「リーズ・マーケットの金物店に売ってるわよ」と教えてくれた。マーケットはちょうど大学と寮の中間くらいなので、行きがけに買っていってもいいのだけれど、中華なべを持って授業に出るのは気が進まないので帰りに買うことにする。
一〇月に入ると北イングランドの日は極端に短くなる。三時を回ると薄暗くなり、四時にはとっぷりと暮れてしまう。大学からの帰り道、マーケットまでは街中だし、スーパーのトイレには入らないのでレイプの心配はないが、そこから先は人気のない運河づたいの、昔、ロバだか馬だかが荷船を曳いたという道なき道を歩かなければならない。とはいえ、はるばるとマーケットまで歩いていって、また二〇分かけて坂をのぼって大学に戻り、ウィメンズ・バスに乗ることを思うとうんざりする。そこでその日は授業を一つさぼることにした。
友人にプリントをもらってくれるよう頼み、わたしは意気揚々と大学の正面玄関を出て坂を下っていった。途中でイシュー売りのテッドが声をかけてきたが、今日は立ち止まらず、さっさと歩く。ショッピングモールのメリオン・センターを抜け、高級店の立ち並ぶヴィクトリア・クオーターを抜けて左に折れるとリーズ・シティ・マーケットだ。ここにはたまにしか来ないのだが、ちょうどアメ横みたいな感じで小さな店舗がどっさり集まっていて面白い。肉屋、八百屋、果物屋、パン屋はもちろん、タオルやベッドカバーの店、パキスタン人の絨毯の店、カバン屋に洋服屋、服地屋、花屋もあれば食器店、小物屋、かと思えば浴槽や便器を並べて売っている店までじつにさまざまで目移りしてしまう。売っているものはどれもとても安いし、食べものは新鮮だ。ここでおじいさんが売っているチキンを食べたらスーパーの鶏肉なんて食べられたものではない。しかし今日は鶏肉ではなく中華なべを見つけにきたのだ。迷路のような通路をうろうろと歩き回り、うっかりおいしいナッツ入りビスケットとマグカップを買ってしまったが、首尾よく目指す金物店を探し当て、ずっしりと重い鉄の中華なべをゲット。あわせて蓋も買ってマーケットの出口を目指す。
急いだつもりだったが、外に出て時計を見るともう四時に近かった。秋の陽のつるべ落としとか言って感心している場合ではなく、街灯には明かりが入り、夕暮れの空は紫色に染まっている。せっかく授業をさぼったのに、また大学まで歩いて戻るのは馬鹿みたいである。それならちゃんと授業に出て、なべを買いにくればよかったのだ。さっきの店でうさぎ(のマグカップ)にしようか、カエル(のマグカップ)にしようかなんて迷ったせいだ……心の底から後悔したが後の祭り。寮に帰り着くまで、お日様は空にいてくれるだろうか、それとも大学に戻ったほうがいいだろうか、またしても迷いはじめたが、そのときふと自分の手の中にあるものを思い出した。そうだ、わたしは武器をもっているじゃないか!
鉄の大きな中華なべはかなり重い。これを構えて歩けば、だれも襲ってこないに違いない。襲ってきたって一発なぐってやれば逃げる暇くらい稼げるだろう。そう思うと、なんだか勇ましい気分になってきた。なんとなく街の雰囲気までさっきと違って見えてくるから不思議である。丸腰でない気分とでもいうのだろうか。中華なべですらこうなのだから、懐に拳銃を隠しもった探偵の気分はさぞかしハードボイルドなものであろう――などとつらつら思いながら、運河沿いの小道に足を踏み入れた。
夕闇はすっかり濃くなっている。昔、馬かなにかに綱で船を曳かせるために作られた狭い道なので柵などはまったくなく、左側はすぐどんよりとにごった運河の水、右側はビール工場の壁で、甘ったるいような不快な麦芽の匂いが立ち込めている。空にはこうもりがひらひらと飛びかい、運河の向こう岸には教会の黒々とした影が浮かび、沈みゆく夕陽の最後の光を受けて、ステンドグラスがオレンジ色にきらりと光る。
ジャック・ザ・リッパーがいつ出てきてもおかしくない、あつらえたような光景の中を、中華なべをかざし、後ろを振り返りながら行く。近づく者がいたらすぐさまぶん殴ってやらなければならない。背中を工場の壁に押し付けつつ、じりじりと進む。と、前のほうでぽちゃんと石が水に落ちる音がした。はっとしてふり向くと、前方に黒い人影が! 後ろばかり見ながら歩いていて、前を見ていなかったのだ。しまった、うかつだった……ほぞを噛むまもなく、人影はこちらに向かってどんどん近づいてくる。冷や汗でじっとりと濡れた手に、わたしは中華なべを握りなおした……
「ヘイ、ラス! ラッシー!」
ラッシー? わたしは目を凝らして犬の姿を探した。でも犬なんかどこにもいない。油断させて襲おうったってそうはいかない。前方のでっかい男はこちらの緊張を知ってか知らずか、ますます近づいてくる。いよいよか――
「Good evening, Lassie! Nice wok!」
その一瞬、これをわたしは「Nice walk(お散歩楽しいね)」と理解し、コンマ数秒の間に、中華なべをそのおじさんに叩きつけるのを思いとどまった。そして行き場を失った鍋を右手に高くかかげ、あまりの重さに上腕の筋肉が震えるのを感じながら、さりげなく「Nice walk!」と言葉をかえして、クールにすれちがった……つもりだったが、いつのまにか背中に忍び寄っていた、前のフラットメートのジョン(スコットランド人)によってすべては目撃されていた。腹立たしいことに彼は声も出ないほど笑い転げ、運河に落ちそうになっていた。
なお、ジョンによると、おじさんが言ったのは「よいお散歩」ではなく正しくは「立派な中華なべだね」であり、「ラッシー」とはこの辺の方言で「娘っこ」という意味で、幻の犬ではなく、わたしに呼びかけていたのであった。さては名犬ラッシーはメスだったか……。
このあと、寮でのわたしのあだ名が「Wok」になったのはいうまでもない。





























