入門翻訳勝ち抜き道場

新連載:ショートショート

Think Of England その1 チェリオマイラブ、さよならは言わん

最所篤子
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イギリス好きなことにかけてはイギリス人にも負けない自信がある。もし戦争になったら、おそらくイギリス側のスパイになって暗躍することであろう。「私は生まれてくる国を間違えたのではありませんか」と、美輪さんと江原さんに聞いてみたいものである。美輪さんは「そう、間違えたのよ。でも次はきっとイギリスに生まれるからご安心なさい」と言ってくれるであろうか。だが、今回の人生はやむを得ずイギリスと名のつくものを何でもありがたがって暮らすほかないのが残念である。

かの国には年をとった友人が何人かいる。私にとってイギリスでの両親、祖父母のかわりのような人々で、ほとんど毎年、「里帰り」をしている。帰ると〈父〉が車を借り、〈祖父母〉とともにパブランチに出かけるのが習慣になっている。あきらかに人種が違う私をのぞけば、年寄りの一家が団欒しているように見えるが、〈父〉と〈母〉は夫婦だから別として、あとの二人は隣の一人暮らしのじいさんと、ちょっと離れたところに娘と住んでいるばあさんなので赤の他人である。

去年の十月、じいさんが死んだ。半年ほどわずらい、家族がいないので隣に住む〈母〉がずっと面倒を見ていたが、九十二歳の誕生日を迎えることなく世を去った。電話口で〈母〉は「棺は藤編みでね、白と黄色の薔薇とアイビーできれいにかざって、車を借りてエクセターの火葬場に行ったの」とむせび泣いた。墓は作らず、遺灰は先に亡くなったエセルという奥さんの遺灰といっしょにして火葬場の敷地にある庭園に撒いたという。葬式の後、〈父〉と〈母〉と〈祖母〉は海辺のヴィクトリアホテルでじいさんをしのんで夕食をした。じいさんの家は売りに出され、二匹の猫は〈母〉の家にひきとられた。こうしてじいさんはこの世からいなくなった。

じいさんはテンプルストリートの古い古いテラスハウスに暮らしていた。天井に黒くなった梁が張り出し、分厚い漆喰の壁に小さな窓がうがたれている。建てつけの悪いドアを引っ張って開けると、帽子とコート、杖がかけられ、ひんやりとした古いもののにおいが漂ってくる。突き当たりはトイレで、低い天井に「も一歩前へ、的がちょっと遠すぎる」と紳士向けの心得が貼られている。その横の引き戸を開けると暖炉の前に安楽椅子が三つ並ぶ。たいていじいさんは出窓に座って、誰かがやってくるのを見張っている。

じいさんと出会ったきっかけはシャープ製のビデオデッキだった。じいさんは奥さんに先立たれてから、この傾いた家から一歩も出ず、生ける屍のように暮らしていた。〈母〉と知り合ってから外に出るようにもなったが、それでも一日のほとんどを暗い居間の暖炉の前に座り、横にある大きなテレビを見て過ごしている。ある日、その大事なテレビとビデオが何かの拍子で映らなくなってしまった。ただちに〈母〉が呼びつけられたが、手に負えない。あいにく〈父〉は仕事で留守だ。何か王室関係の番組を録画したいじいさんは考えつく限りの悪態をついて〈母〉をせっつく。〈母〉も負けずに金切り声を出すが、ふとデッキが日本製であることに気づいた。日本製なら日本人がうちにいるじゃないか、と私が呼ばれたのである。

機械には弱いが、シャープのカミサマが降りてきたらしく、ビデオは直った。じいさんはそれまで私をうさんくさそうにじろじろにらんでいたが、やおら戸棚からチョコレートを出してきてひとつくれた。そして隣に座れという。

〈母〉はこれ幸いと私をおいて家に帰り、私ははじめて会うじいさんと並んで、銀紙に包まれたチョコレートを握り締めながらテレビを見るはめになってしまった。

じいさんがテレビをさして何か言う。ところがデヴォンなまりがひどくて何を言っているのか分からない。フォフォフォフォと笑っている。私も何かいわなければ場がもたない。画面には黒い煙突掃除のブラシのような帽子をかぶった兵隊たちが行進し、女王が手を振っている。

「あー、ところで、あの帽子は何でできているのでありましょうか」

「クマだ、クマの毛皮だ、フォフォフォフォ」

ああ、ようやく会話ができた。

夕方になりじいさんは暖炉の上の赤い巨大なワイングラスに手を突っ込むと、五ポンド札を引っ張り出した。「フィッシュアンドチップスを買って来い」。仕方なく家を出て、坂の上にある店に行く。帰ってくると、「なんだドーヴァーソールじゃないのか、ブラディヘル」。

この日からもう十二年が過ぎた。帰る日を告げておけば、じいさんは必ず朝から出窓に座って私を待ち構えてくれていた。去年は帰れなかった。一昨年の夏、鱈のフィッシュアンドチップスを夕食に買ってきて、チェリオといって頬にキスしたのが最後になってしまった。

じいさんは「チェリオマイラブ、さよならは言わん」といって汚いハンカチで鼻をかんだ。窓から家の中を覗き込むと、じいさんも外を見ていた。