入門翻訳勝ち抜き道場

新連載:ショートショート

Think Of England その17 キャロル

最所篤子
[ profile ]

キャロルは不美人である。薄青い目は大きく、間隔があいていて、どことなく眠そうなワニを思わせる。あまり笑わないへの字の唇は薄く、濃い赤の口紅が細くにじんでいる。「若い頃は綺麗だった」とはよく年をとった女性全般について言われることだが、彼女の場合はたぶん当てはまらないだろうな、と思っていたら、《母》が白黒写真を出してきて(二人はエセックス州で5歳の頃からの幼友達)、「ほらこれがあたし、可愛いでしょう」と言っている横に、今と全く同じ顔のキャロルがスカートからブルマーをはみ出させてしかめつらをしていた。

彼女はずっと独身でロンドンに住んでいたが、数年前、ブリッティシュ・ペトローリアム社を退職し、60年以上の付き合いになる《母》の住むデヴォンで老後を過ごすために引っ越してきた。誰とでも1分以内に仲良く(あるいは敵同士に)なってしまう《母》とは対照的に、親しくなるのに恐ろしく時間のかかる人だ。私が彼女に会ったのはかれこれ15年前のことだが、「Hello, what a lovely/appalling/dreadful weather!」「Yes, indeed!」から、毎年2センテンスずつくらい会話が増え、ようやくにしてまともに話をするようになったのはここ2、3年のことである。それでもワニのような目でじっと見つめられながら、決してパーソナルな話題に触れず、最近買った掃除機に関する彼女の省察を聞いているのはあまり居心地が良くなくて、なるべく近寄らないようにしていた。

去年の夏、いつもの通り(他人の)実家に帰った。珍しく《父》がエクセターに迎えに来られず(「My ancient client wants me to take him to Torquay, sorry, love」)、珍しいことに代わりにキャロルがプジョーに乗って来てくれていた。実家のある町までは40分ほど。ああ、こうと知っていたらバスで帰るよ、と言ったのに。と苦手なキャロルを見て心の中でつぶやいたが、笑顔を作って車に乗り込んだ。

キャロルは「今日は」と口を開いた。さては天気の話だな、と気が重くなる。天気の話というのは便利な話題ではあるけれど、これほど「お互いに関心はないけれど顔を合わせてしまった手前、礼儀として何か話さないわけにはいきませんよね」というスタンスを明確に(そして無言のうちに)打ち出すテーマはない、と私は思っている。相手が何語でしゃべっていようが「今日はお天気が」と言い始めると実に気分のメーターが下がってくるのを感じるものだ。

だから「今日は」とキャロルが口を開いたとたん身構えたのだが、その次に来た言葉は天気が云々ではなかった。「ちょっとした記念の日なの。パブに寄ってもいい?」

珍しいこともあるものだ、と私は時差ぼけでぼんやりとしている頭を縦に振った。エクセターをちょっと出た先の村に可愛らしいわらぶき屋根の、ピンクに塗られたパブがある。キャロルはそこに車を停めた。

「何を飲む?」

気に入ったものを永久に飲み続ける私は一昨年からマイブームのピムズを頼み、彼女はブラディ・マリーを注文した。ふと運転は? という気がしたけれど、みんなの嫌われ者、Traffic warden(交通警官)は見かけなかったので、まあいいことにした。

さぁて、ここからきっと思い出話がと思ったら、キャロルは「この間、庭の林檎の木を半分切り倒したので庭が明るくなり、おかげで家の中も明るくなったが、グローリー(《母》)には大変不評である。なぜならば林檎が隣の庭に落ちなくなったから」という話を始めた。それが途切れると、「新しく入れた庭師が親切で、この間は頼みもしないのに新しい薔薇の苗木を持ってきて植えてくれたが、そこにカタツムリがくっついていて退治が大変だった」話になり、ピムズを飲み終わって中のキュウリをつまみ出してかじっている私に「それは食べるものではない」と顔をしかめ、「さあ、行きましょうか」と椅子から立ち上がった。

訳が分からないまま車に乗り、お酒でいい気分になってうとうととしたまま家に着いてしまった。赤い顔ではるばると日本から帰ってきた《娘》を見て《母》は呆れながらも、私の大好物のビーンズオントーストと半熟卵と紅茶の夕食を並べてくれた。

翌日からは《父》とエクセターに遊びに行ったり、《両親》と《祖母》を連れてヴィクトリアホテルにランチに行ったり、近所のアンブローズ氏の家にお茶によばれたり、珍しく《母》にパイの作り方を習ったり、今年、訳した本の著者に会うという用事でコーンウォールにも行ったりしたから、1週間はまたたく間に過ぎてしまった。だからキャロルに会うこともなく、彼女の謎の記念日について追及する暇もなかった。

帰る前日、紅茶のバリューパックやら本やらお菓子やらでどうしても閉まらないスーツケースに困惑していると、《母》が階下から声をかけてきた。キャロルがおいしいソーセージが手に入ったから取りに来るように、というのでお昼の前に行ってきて、というのだった。

隣の家のドアをノックするとキャロルが出てきた。すぐ帰るつもりだったが、「お入りなさいよ」と言われ、やむを得ず家の中に入った。キッチンのテーブルに座り、紅茶のマグカップを抱えてお互いを見つめあう。沈黙に耐えられず、「今日はいいお天気で」と自分が言い始めてしまうが、キャロルはワニの目でじっと見るばかりだ。

アツコ、グローリーには言わないでね」にらみ合いながらお茶を1杯飲み終わったところでようやくキャロルは口を開いた。

先日の記念日とは、キャロルが一生に一度だけ結婚を申し込まれた日なのだということだった。昔々、まだ彼女が18歳でエセックスの古い大きな屋敷に住んでいたころ、隣の村にアイリッシュの一家が移り住んできた。貧乏な大家族で、男の子たちは農場で働いたり、垣根や塀を直す日雇い仕事をしたりして小銭を稼いでいた。その家の長男が、キャロルの家の塀を直しにやってきたことがあった。背が高く、髪が黒い陽気な若者で、お茶とビスケットを持っていったキャロルに濃い青い目をつぶってみせた。キャロルはひっくりかえりそうになり、後ずさりして屋敷によろめき入ったが、その後の4日間、塀の修理が終わるまで、毎朝早く起きてパイを焼き、11時のお茶の時間になると運んでいった。一言も口をきけなかったけれど、アランというその青年の顔をちらっとだけ見られれば一日中幸せだった。最後の日、ルバーブのパイを持っていくと、仕上げの化粧漆喰を混ぜていたアランが顔をあげて言った。
「来週の土曜日にうちの村でダンスがあるんだ」

キャロルはパイを落としそうになったが、どうにか気を失わずにすみ、アランの誘いを受けてダンスに行くことになった。

そして古きよき交際が始まった。イングランド人で、ステュワート朝まで先祖をさかのぼれる古い名家のキャロルの両親はアイリッシュで家柄もよくないアランに初めは良い顔をしなかったが、手先が器用で屋敷周りのあれこれを修繕したり、藻が生い茂っていた池を綺麗にさらってくれたりする彼を少しずつ受け入れていった。そのうちにこれは案外、うちの一人娘は運がよかったのかもしれないと思うようにまでなった。キャロルはといえばアランのそばにいられさえすれば幸せだった。見栄えのよいこの若者が自分を好いてくれることは何かの奇跡のような気がしていた。そうして一年が過ぎ、夏のある日、二人は草原にピクニックに出かけた。青やピンクやオレンジ色の花が点々とする深い金色の草の間に洗いざらしの敷物を敷き、バスケットを置く。アランはグラスにワインを注ぎ、キャロルは彼の好きなベリーのパイを切り分けた。蜂がとぶブーンという音、草がそよぐ音。見上げた青い空には羊のような雲が低く浮かんでいる。暖かな美しい幸福な午後だった。

その日、星が空に見え始める頃、草原でアランはキャロルにプロポーズした。「『俺を世界で一番の幸福者にしてくれ』ってね」、とキャロルは頬を染めた。

「それで?」テーブルに身を乗り出していた私は聞いた。
「それで、アランは消えてしまったの」

その翌日、彼は夕方、「酒を買いに行く」と言って自分のコテージを出たまま行方がしれなくなった。彼の着替えも持ち物も手付かずで残されていて、姿を消したときに持っていたのはせいぜい数シリング。家族はあちこち心当たりを探したが分からなかった。後になって、どうやら軍隊に入ったらしいという噂が流れたが、それも定かなことではない。

なんと言っていいか分からず私は黙っていた。「その後、私は誰とも恋をしなかったの。アランのことだけを考えて今まで生きてきたのよ」キャロルは4杯目のお茶を注ぎながら言った。
「それがね、この間、アランから手紙が来たの。あなたを迎えに行った日の朝よ」

50年前の昔話が一気に現在進行形の話に変わったので私はびっくりしてキャロルの顔を見た。アランは今、ロンドンの近くに一人で暮らしているという。一度でいいから会って謝りたい、結婚したいと言ったのは嘘ではない、これまでずっと君に申し訳ないと思ってきた、とその手紙にはつづられていた。
「会いに行くんでしょ?」私は目を輝かせた。こういうロマンチックな話は大好きだ。
「行かないわよ、馬鹿ね」

私も昔は綺麗だったけれど、今は見るかげもないし、と彼女は言った。あやうく「昔も今もたいして変わってないと思う」と言いそうになる自分の口を押さえて私は彼女を見つめた。
「50年間ね、私はアランと連れ添ってきたつもりなのよ。寂しかったけれど、どんな時も彼に相談して、彼ならどう言うか考えながら生きてきた。もちろん空想よ。でもいつも彼と一緒だった。楽しいときも、悲しいときもね。でも、そのアランと、本当のアランはきっと別人なの。だから会わないほうがいい」

私には分からなかった。黙ったまま《祖母》であるジョジーのことを思い出していた。彼女は80歳を越えて運命だと思える相手とめぐり合い、長年連れ添ったろくでなしの旦那を離縁してアーサーのもとに行った。たとえ数年でも、お互いのそばにいたいから、としわくちゃの顔で彼女は言った。時間はかかったけれどジョジーの幸福はまっすぐで清々しい。

キャロルの大切なアランは現実に生きていて、キャロルに会いたいと言っている。声を聞いて、手で触れて、確かめることができる。今の私なら全てを放り出して飛んでいくだろう。でもそれが10年後なら? 20年後なら? キャロルは運命の人を自分の中で育ててしまった。半世紀にわたって。その夢を壊すのは怖いだろう。積み上げてしまった夢は人生なのだ。しかし、どんな彼だとしても現実のアランを受け入れるべきじゃないだろうか。そこから本当の人生が始まるのじゃないだろうか。たとえそれがたった1日のことだったとしても。

電話が鳴った。
「ソーセージはまだ? お腹がすいて死んじゃうわ」《母》が怒っている。

キャロルは笑って立ち上がり、ソーセージの瓶とピクルスの瓶を紙袋に入れた。
「この話はね、グローリーにはしてないのよ。手紙が来た話はね。だから黙ってて」

だからこの話は《母》にはしていない。でも日本語で記事に書いてはいけないとは言われなかったので書いてしまった。キャロルは怒るだろうが、日本語が読めないので黙っていれば分からない。そして私は彼女の話を思い出しながら、もう一度、考え込んでいるのである。

2011年1月24日号
(第4巻183号)