“Mr. Captain and the Nymph” は、嵐でポリネシア諸島の小島に流れ着いたイギリスの商船フォーチュナ号の船長と、島の美しい少女アイマータの悲劇の恋の物語です。1870年代後半に“The Captain’s Last Love”という題名で雑誌に掲載された作品を改訂し、短編集“Little Novels”に編纂されました。
 この「アイマータ」という名は、1999年に出版の日の目を見た初期の作品“Iolani”にも登場しています。プロットは異なりますが、物語の舞台やほかの登場人物にも共通点が見られるなど、作品中に同じモチーフが現れます。コリンズには、生前に出版されることのなかった幻の処女作への思い入れがあったのでしょうか。
 “Little Novels”は、1870年代後半から1880年代に雑誌等に発表された14の短編を集め、1887年に出版されましたが、ゴシック・ロマンスの名手らしく、身分や富といった社会的な壁を乗り越えた恋愛や結婚を題材にした作品が多く含まれています。たとえば、翻訳玉手箱のテキストにもなったロマンス『ミスター・リズモアと未亡人』(Mr. Lismore and the Widow, 原題She Loves and Lies )や江戸川乱歩が『怪談入門』で紹介した『ザント夫人と幽霊』(Mrs. Zant and the Ghost, 原題The Ghost’s Touch)など。このほかにも、ロマンティックな幽霊譚や推理小説風の作品など読み応えのある作品が含まれており、バラエティーに富んだ作品のあつらえは、ストーリーテラー・コリンズの本領発揮といったところでしょう。
 さて、ポリネシアの小島に流れ着いた船長がどうやって美しい少女に出会ったのか、そして、そこで何が起こったのか、古い友人の元航海士が語り始めます。
                                                                                                     佐藤志敦記
船長とニンフ
Mr. Captain and the Nymph, by Wilkie Collins, Translated by Shinobu Sato
ウィルキー・コリンズ 作
佐藤志敦 訳

若くて美しい未亡人とその妹が、船長の古い友人から、いわくありげな船長のことを聞き出そうとしている。この船長、船を降りてからも結婚せず、男ざかりの美男子で金にも困らないというのに、女性の誘いには、なぜかさっぱり乗ってこない。「海を見るのが耐えられない」という船長の過去に、いったいどんな事件が起こったのだろうか。友人が、重い口を開いて船長を襲った悲劇を語り始める。

イギリスの商船フォーチュナ号は、朝の引き潮に乗ってリバプール港を出発した。出港の日がいつだったかを話す必要はなかろう。太平洋の島々を巡り、白檀を探すのが目的だったが、そのころ白檀といえば中国の市場で、高値で飛ぶように売れていた。

船主たちは、船長に大きな裁量を与えていた。信用がおけるだけでなく、航海の間も時間を見つけては、じっくりと教養を培った稀にみる才能の持ち主だと知っていたからだ。与えられた仕事に身も心もささげる一方で、熱心な読書家でもあったし、そのうえ語学も堪能だった。取引を数多くこなす間にあちこちの島の住民のことを研究し、方言も含めて島の言葉をひとつならず自分のものにしていた。おかげでいい情報も手に入り、いつもやすやすと島民と折り合いをつけたものだ。ほかの船長たちが積み荷を探しあぐねているときに、ゆうゆうと白檀を手にしたことも一度ではなかった。

こう言うといいところばかりのようだが、人並みな欠点もそれなりにあった。自分の容姿、つまり、明るい栗色の髪や頬ひげ、美しい青い瞳、それに、女性もうらやむくらいきめの整った白い肌に、少々こだわりが過ぎていたのもそうだろう。形のいい手には手袋をはめ、晴れた日には、つば広の帽子で肌を守った。香りの選び方もうまく、強い酒は飲まず、たばこなどは匂いを嗅ぐのも大嫌いだった。

新入りの航海士や乗組員たちは、完ぺきな服装に身を包み、手入れの行きとどいた銅像のような船長が船長室に納まっているところを見て、こう思ったものだ。言葉を選んで穏やかに話し、暇さえあれば本ばかり読んでいる、教官と伊達男を一つにしたような男が指揮官では、海の上では自分が頼りだと。だが、少しでも規律違反があったり、嵐で船が危機にさらされたりすれば、手袋をした手が鉄の杖を取り、穏やかな声は波風をぬって甲板の隅々まで命令を下した。すると、いちばんできの悪い乗組員でも、これで船は大丈夫だと思うのだった。

船乗りになってからずっと、この才能あふれる男が周りに与える印象は変わらなかった。船長を好く者は少なかったが、誰もが船長を敬った。だが、船長を理解する者はいなかった。本人はそれを納得ずくだった。そして、読書を続け、日焼けを嫌った。いつしか船主たちは手袋には目をつぶり、船長を雇うようになった。

フォーチュナ号は水の補給のためリオに寄港し、ビタミン不足で起こる病気に備えて食料も補給した。素晴らしい天候に恵まれ、やがて船はホーン岬を回った。いちばんのベテランでもお目にかかったことがないほどの天気だった。そのベテランは、ダンカーフという名で、大酒飲みで息の荒い、自信たっぷりの老航海士だった。真っ赤な顔をして汚い言葉をまくしたてる男が、こんなにうまく行くはずがないと毒づいた。
「おいみんな、空が荒れるぞ。覚えておけ。船長ご自慢の巻きひげを伸ばしちまうくらいの風になるぜ。もたもたするなよ!」

一週間が何事もなく過ぎ、船は船主が命じた島々を目指して航海を続けた。しかしついに、風が予言どおりに船長の頬ひげをなぶり始めた。そして、ダンカーフは預言者気取りで、自分を敬服しているたったひとりの乗組員の前でふんぞり返っていた。

三日三晩の間、フォーチュナ号は風と波にほんろうされて嵐の中をつきすすんだ。四日目の朝、強い風がおさまり、昼近くには太陽が顔を出したので、船長が六分儀で位置を確認した。船は、船長が今まで踏み入ったことのない海域まで流されていた。そこで、航海士たちが船長室に招集された。年長のダンカーフが最初に意見を求められたが、答えは簡単明瞭だった。
「船長、この船は悪い魔法にかかっちまったんだ。悪いことは言わねえ。早いとこ、もとの場所へ引き返そうぜ」

つまり、ダンカーフもこのあたりの海域については何も知らなかったのだ。ほかの者からは意見がでず、決定は船長に委ねられた。天候が回復していたため、二十四時間は針路を保って進み、様子を見ることになった。

日没直後、事件は起こった。船首の見張りが怯えた声で叫んだ。
「波がしらが立っています!」

一分もたたないうちに波の砕ける音が聞こえてきた。フォーチュナ号は舵を取り、弱い風を受けてゆっくりと向きを変え、間一髪、座礁を免れた。帆を絞ったまま、船は朝を待った。

夜が明けると、遠くに、海図には載っていない美しい緑の島が見えた。珊瑚礁に囲まれていて、中心には高い山がある。望遠鏡で見ると、火山の噴火でできた山のようだった。ダンカーフはラム酒の水割りで朝の一杯を引っかけたところで、ぐらぐらする頭を振りながら毒づいた。
「いやな形の島だぜ」

だが、船長はボートを降ろさせると、四人の乗組員とともに武装して、朝の光の中を島へ向かって漕ぎだしていった。

珊瑚礁には、フォーチュナ号でも通れるほど広くて深い切れ目が見つかった。そこを通り抜けると穏やかな海が広がっていた。美しい貝殻を敷きつめたような金色の砂浜に、褐色の肌の島民たちがおおぜい集まり、男も、女も、子どもも、見知らぬ人々がやってくるのを息をつめて見つめていた。

船長はボートを岸につけず、人々を注意深く観察した。無邪気で純朴そうな島民は、踊り、歌い、海に駆け込んで、島に上がってくださいと白い肌の訪問者をしきりに誘っていた。武器らしいものを手にしている者はなく、珍しい客が現れたことを喜んで、みなが顔を輝かせていた。男たちが、大きな声で呼んでいた。彼らの言葉は、まるで心地よい音楽のようだった。
「わたしたちの島へようこそ!」

丸々とした、黒い瞳の女たちも笑顔で呼びかけた。
「こっちへいらして下さいな!」

これほどの歓迎を受けて遠慮などできるだろうか? ボートを岸に寄せると、島の女たちはあっという間に船長を取り囲み、頬ひげや白い肌や手袋に歓声を上げた。こうして、北からはるばるやってきた船乗りたちは、新天地に温かく迎えられたのだった。

朝がゆっくりと過ぎて行った。ダンカーフは船を任されて残り、ラム酒の水割りをやりながらくだを巻いていた。
「けがらわしい緑の島め。まともな海図にも載ってねえんだぞ」

ダンカーフの悪態は、船長が船に戻るまで延々と四時間も続いた。

船長は、ポリネシア語の方言を使えば、この島の住民と多少は話が通じることに気づいた。そして、族長の案内で島を巡り、驚くほど美しく豊かな自然を目の当たりにした。山の頂上が唯一の荒れ地だったが、今にも崩れ落ちそうな岩は、溶岩と火山灰が長い時間をかけて固まったものに違いなかった。船長が見る限り死火山のようだったが、族長は、自分が物心ついたころには、地震や噴火が頻繁に起こっていたと語った。

それから、船長は、実際にどのくらいの儲けになるかはさておいて、膨大な量の白檀を発見したと報告した。そのうえ、ちょっとしたおもちゃや安物のアクセサリーが手に入るなら、島民はよろこんで白檀を譲ってくれるというのだ。ダンカーフはうんざりしたが、フォーチュナ号はその日のうちに珊瑚礁の内側に入り、日没前には自然の入り江に錨をおろした。乗組員には翌朝から十二時間の休暇が与えられた。こういう大仕事の前には休暇を出すと船長が決めていた。休暇が終わると、高価な木を切りだして船に積み込む作業が延々と続くのだ。

ダンカーフは船を動かせるようになると最初の見張りをかってでた。そして、ベテラン航海士がよくやるように甲板長を呼び出すと、しわがれ声でこう囁いた。
「なあ、甲板長。こいつは行って来いといわれた島じゃねえ。船主さまの言うとおりにしておかねえと、きっと困ったことが起こるぜ」

その夜は、何ごともなく過ぎた。しかし、翌朝、日が昇ると、なにやら怪しい動きがあって、ダンカーフは甲板長に耳打ちした。
「俺の言ったとおりだろう?」

船長が、族長と二人きりで船長室で話しこんだあと、自分が戻るまでは島民たちと接触するなと言い残し、誰も連れずに、族長のカヌーで慌ただしく船を離れたのだ。

いったい、どういうことなのだろう? カヌーに乗り込んだとき、船長自身も答えを知らなかった。そこで、知識を総動員して島の言葉をまね、どのくらい船を離れることになるのかと尋ねたが、族長は謎めいた答えを返した。
「時間など問題ではない。あなたと、あなたの部下の命がかかっているのだ」

族長は無言で小さなカヌーを操って、船長が初めて見る海岸へ連れて行った。二人は渓谷を渡り、その向こうの高台に登った。そこで族長は立ち止り、静かに海を指さした。

船長がその方角を眺めると、南西の沖合に小さな第二の島が見えた。背負ってきたケースから望遠鏡を取り出して目を凝らすと、岸から少し離れてカヌーが二艘浮かんでいた。カヌーの人影はみな、うやうやしく膝まずいたり、身をかがめたりしていた。望遠鏡を動かすと、白いローブをまとった長身の人物の姿をとらえた。どうやら、島にはほかに誰もいないようだった。男は切り立った岬の上に立っていて、足元には炎が燃えていた。おごそかに両手を空へ向け、炎に何かくべると青白い煙が立ち上った。それから、カヌーへ何か投げ入れると、島民たちが身体を低くしたまま、うやうやしくそれを体で受け止めた。望遠鏡をおろして振り返った船長に、族長はこう語った。
「素晴らしき白い人よ! あれに見えるは『聖なる島』、そして、誰も足を踏み入れてはならない『禁断の島』だ。岩の上に立つお方は、全能にして神に選ばれし司祭である。あの方が、好天と豊漁を祈る漁師に、護符と祝福をお与え下さったのが見えたであろう。もし、不埒な輩があの島に足を踏み入れれば、それが誰であっても、我々は平和を守るために掟に従い、その命を奪う。部下に伝えよ。『聖なる島』に近寄らぬ限り、わたしたちはあなた方を歓迎する。命が惜しければ、島の掟を守らせるのだ。よろしいな、白い人よ!」

族長が身振りを交えて話してくれたおかげで、船長は、その言葉の重大さがよくわかった。そして、この話をできるだけ手短に部下に説明し、島の掟に従うよう命じた。その後、航海士と水夫たちは上陸して休暇に入ったが、ひとりダンカーフだけは、頑として船を降りることを拒んだ。島の男たちに食べ物でもてなされ、女たちからちやほやされる夢のような十二時間が過ぎると、みなはうまい料理と新しい恋人たちの腕から無情にも引き離され、白檀の積み込みに取りかかった。ダンカーフは作業を指揮しながら、船主の命令に従わなかったせいで、何かきっと悪いことが起こると待ち構えていた。

どういう運命のいたずらか、またしてもダンカーフの予感が的中した。運命の女神に選ばれたのは、島の美しい若者、族長の息子だった。

船長は、気の優しい聡明な少年が気に入り、仕事の合間に、島の言葉を教わる代わりに英語を教えてやっていた。白檀の積み込み作業が進むうちに、交換授業はひと月余りも続いた。そして、折悪しく、二人の会話に『聖なる島』のことがのぼった。
「あの島に住んでいるのは司祭だけなのかね?」

少年は船長の顔色をうかがい、真剣な表情で言った。
「誰にも言わないって約束して下さい!」

船長はもちろんだと請け合った。
「実はもう一人いるんです」と少年は声を落とした。「見とれてしまうくらいきれいな人で、あの人を見たら誰だってきっとそう思いますよ! 司祭の娘さんなんですが、赤ん坊の時に島に連れていかれてからというもの、一歩も外へ出たことがありません。掟のせいで島に閉じ込められて、自分の両親のほかには誰にも会ったことがないんです。ぼく、一度だけですけど、カヌーからこっそり見たことがあるんです。ああ、本当に、すごくきれいな人なんですよ、船長さん!」

少年はうっとりとした表情で自分の手に口づけて押し黙った。

船長の青い瞳が輝いた。それ以上は何も尋ねなかったが、その日うちに、望遠鏡を携えて、密かに聖なる島を見渡す高台へ出かけていった。翌日も、そのまた翌日も、船長は一人で同じ場所に通いつめた。そして四日目、破滅へといざなう運命が微笑みかけた。船長は、島のニンフを見てしまったのだ。

少女は、前に父親を見た岬の上に一人たたずみ、小さなハトに似たよくなれた鳥にえさをやっていた。望遠鏡を通して、白いローブが海からの風になびいているのが見えた。黒髪は足に届くほど長く、すらりとして、若々しくしなやかな体つきだった。さりげない上品なしぐさで、鳥たちのさえずりに応えて、こちらを向き、あちらを振り返りしていた。少女の前には青い海が広がり、背後には輝く緑の森が茂っていた。船長は、目も腕も痛くなるまで見つめ続けた。そして、少女が鳥たちを連れて木々の向こうに姿を消すと、ため息をついて望遠鏡を下ろし、つぶやいた。
「まるで天使だ!」

この時を境に、船長はすっかり人が変わってしまった。快活さを失い、黙りこくって、どんなものにも関心を示さなくなった。船の仲間は、このままでは船長は病気になってしまうと思った。

それから一週間がたち、航海士や乗組員たちの間では中国へ向かう航海が話題に上るようになっていたが、船長は出発の日を決めたがらなかった。それどころか、その話になると機嫌を悪くしたほどだった。そして、あの日は夜になると船を降りてしまった。

それから、何時間もたってはいなかったろう。夜の明ける少し前、上甲板の船室でいびきをかいていたダンカーフは、肩を揺さぶられて目を覚ました。ゆらゆらと揺れるランプの明りに、恐怖にひきつった少年の褐色の顔が照らしだされた。覚えたばかりのわずかな英語を並べたて、激しい身振りで何かを伝えようとしているのだ。飲み込みの悪いダンカーフには何が言いたいのかさっぱり分からなかったので、反対側の船室にいた二等航海士を呼んだ。この男は若くて頭も切れ、少年の話をちゃんと理解した。悪い知らせだった。

船長が、自ら下した命令を犯し、夜に紛れてカヌーで『聖なる島』へ向かってしまったのだ。そのとき、そばにいたのは族長の息子だけだった。少年は、なんとかして船長を止めようとしたが振りきられてしまった。そして、思い直して欲しいという祈りもむなしく、水をかく櫂の音は、ついに戻ってこなかったというのだ。恋の虜になった男が、禁断の島に足を踏み入れたのは間違いなかった。

船長の命を救う唯一の方法は、船が入り江を出るまで上陸の事実を島民に隠しとおし――その間、船長が無事でいてくれれば――夜をまって救出することだった。島の者には、船長は病気のせいで、部屋から出られないのだと説明することにした。船長の優しさに触れて心をかよわせた少年は、この計画に乗り、大切な友だちのためにきっと秘密を守ってくれるはずだった。

翌日の昼近く、乗組員たちは船を珊瑚礁の外まで動かそうとしたが、少しも風が吹かず断念した。刻々と、暑さは耐えられないほどになっていった。日が暮れるにつれて、西の空に不吉な兆候が現れた。島民たちが、病気の船長を案じ、急な出港準備を不思議に思って浜辺へ集まってきたが、不安げに空を見上げると、誰ひとり二度と戻ってはこなかった。真夜中、依然として礁内に停泊していた船は、突如、船体を貫くような衝撃に襲われた。慌てふためく乗組員たちに囲まれて、ダンカーフは、まるで闇を透かすように島に向かって節くれだった拳を振りまわした。
「言わんこっちゃない。地震だぞ」

朝になってみると、天候だけは思いがけなく持ち直していた。かろうじて船を動かせるほどの熱い風が島から吹き、ダンカーフに出発のチャンスをくれたのだ。ダンカーフが舵をとり、フォーチュナ号はゆっくりと、なかば漂うように珊瑚礁の外にでた。しかし、二マイルほど進んだところで風はぱったりとやんでしまい、船はそれっきり動かなくなった。

夜になると、乗組員たちは船長の救出命令を待った。しかし、漆黒の闇と、息苦しい暑さと、二度目の地震――島から離れていた船はわずかしか揺れなかった――のせいで、ダンカーフは慎重になっていた。
「いやな予感がするぜ。船長なら、天気がはっきりするまで待ってくれるはずだ」

しかし、翌日になっても、状況は一向に変わらなかった。死んだような静けさと、息苦しい暑さが続いた。日が暮れるころ、事態はさらに悪化した。望遠鏡で、火山から細い煙が一筋、立ち上っているのが見えたのだ。噴火の前触れだと、ダンカーフは確信した。
「大変だ。爆発するぞ! 何が何でも、今夜こそ船長を助けださなきゃなんねえ!」

そのころ船長は何をしていたのだろう? 乗組員たちは船長を救いだせるのだろうか?

船長は、自分を抑えることができず、どうやって身を守るのかも、どんな災いを招いてしまうのかも考えないまま行動してしまった。愛らしいニンフの姿が、昼も夜も船長を捉えて離さなかった。人々から引き離され、島に取り残された無垢な少女の面影だけが、その心を占めていたのだ。まるで、男が道ですれ違った女を追い、たった一時の浅はかな行動のせいで人生をだめにしてしまうように、船長も、浜辺でカヌーを見つけたとたん、同じ衝動にかられ、とっさに禁断の島を目指してしまったのだ。

まだ暗いうちに島へたどり着くと、船長はたった一つだけ分別のある行動を取った。カヌーを隠し、朝になって日が昇っても上陸がばれないようにしたのだ。そして、森のはずれで朝を待った。

夜が明け、さざめくような光で謎に包まれた島の様子が見えてきた。森に沿って浜辺を往復してみたが、生きものの気配はなく、島の奥へ向かって進んでみることにした。そして、森へと分け入った。

一時間ほど行くと斜面にさしかかった。登り続けると森がぽっかりと開け、海を見下ろす、緑の生い茂った広い崖の上に出た。小屋が一軒建っていて、戸口は開け放されていた。そっと中をのぞき込んだが、もぬけのからだった。わずかな家財道具があり、一方の隅には木の葉で作った粗末なベッドがあったが、どれも細かな砂埃で覆われていた。驚いたフクロウが数羽、天井裏でまごついていたが、じきに森の暗がりへと飛び去って行った。小屋はずいぶん長い間、使われていないようだった。

戸口に立ってこれからどうしようと考えていると、森のほうから飛んでくる鳥が見えた。小さなハトだったが、すぐそばまで寄って来るほど人になついていた。と思うと、優しい笑い声が木立の間から聞こえてきた。船長の胸は高鳴り、二、三歩進みかけて立ち止った。そして、次の瞬間、禁断の島のニンフが姿を現した。白いローブを身にまとい、いたずらな鳥を追いかけて崖まで上って来たのだ。

見知らぬ男に気づくと、ニンフは急に立ち止まり、驚いてその場に立ち尽くした。船長は両手を広げ、笑顔で近づいた。ニンフはあまりの驚きにピクリとも動けず、愛らしい黒い瞳は、魔法にでもかかったように船長の顔を見つめ続けた。ローブのひだを震わせて褐色の胸元が激しく上下し、赤いくちびるは半ば開いたまま声もでなかった。少女の美しさに見とれていた船長だったが、思い切って島の言葉を使って話しかけてみた。言葉が通じると分かると、少女は金縛りが解けたように、はっとして船長のもとへ歩み寄って足元に膝まずいた。
「わたしのお父さまは、見えない神さまに祈りをささげています。あなたは身体をもった神さまなのですか? お母さまが遣わされたの?」

そして、荒れ果てた小屋のほうを指さして続けた。
「あなたは、お母さまが亡くなったところにいらっしゃいました。お母さまのために、娘の前に姿を現わされたのですか? 美しい神さま、神殿へいらしてください。――お父さまのところへ!」

船長は優しく少女を立ち上がらせた。父親に見つかれば死が待っている。

すっかり夢中になってはいたが、自分が遠い国から来たふつうの人間であることを伝えるだけの分別は残っていた。少女はそれを聞いた途端、おびえた表情で身を引き、つぶやいた。
「この人はお父さまとは違う。わたしにも似ていないわ。予言の悪魔? 島を滅ぼす悪魔なの?」

この厄介な状況を切りぬける方法はただ一つだった。
「わたしが悪魔のように見えるかね?」

目が合うと、少女の口元にかすかな微笑みが浮かんだ。そこで船長は、島が滅びるとはどういうことかと尋ねてみた。少女はおごそかに両手を差し上げ、島に伝わる予言を語った。

聖なる島は、いつの日にか、その岸辺に現れる悪魔によって滅ぼされるであろう。この恐ろしい運命から逃れるために、島は、神と司祭が守る聖地とされた。それが、決してこの島に足を踏み入れてはならないという掟の理由だったのだ。少女の話にじっと耳を傾けながら、船長はその手を取ると優しく握って囁いた。
「わたしの手は、悪魔のようだろうか?」

ほっそりした茶色の指が、船長の手を素直に握り返した。
「柔らかくて優しいわ」まるで、あどけない子どものようだった。「もう一度握ってちょうだい。わたし、あなたの手が好き!」

しかし、少女はすぐに手を引いた。船長の命が危ないという恐怖が頭をよぎったのだ。
「もし見つかったら、お父さまは神殿に烽火を上げます。そうしたら島の人たちがあなたを殺しにやってくる。カヌーはどこ? いいえ! 今はまだ日が高い。海に出たらお父さまに見つかってしまいます」

少女は少し考え込み、歩み寄ると船長の肩に手を重ねた。
「夜が来るまでここにいてください。お父さまは決してここへは来ないの。お母さまの亡くなった場所を見るのが耐えられないから。ここなら安全です。暗くなるまでここにいるって約束してください」

船長が約束し、差し迫った不安が去ると、少女はすぐに持ち前の明るさと優しさを取り戻した。そして、珍しい小鳥でもほめるように、船長をうっとりと見つめて言った。わたしもこんなきれいな白い肌だったらいいのに。この黒い髪を、あなたの輝く巻き毛と取りかえられたらどんなに素敵かしら。あなたの服って、びっくりするくらい素晴らしいわ。ねえ、それはなあに? こんなもの、わたし、見たことがないわ。船長が懐中時計を耳に当ててやると、少女は船長の肩に頭を預け、うれしそうに時計の音に耳を傾けた。温かく、しなやかな身体が船長にそっと寄り添い、少女の香りが鼻をくすぐった。船長は少女の身体に腕を回し、ほほに優しく口づけた。少女は嬉しそうに声を上げた。
「ありがとう」本当に素直な子どものようだった。「もう一度してくれる? わたし、それ、好きよ。わたしもしていいかしら?」

船長に生まれて初めての口づけをしたときハトが肩に止まり、少女はほかの鳥たちのことを思い出した。群れを抜け出したハトを追ってここへ来たのだった。
「一緒に来て、あの子たちを見てちょうだい。森のこっち側で飼っているの。森の向こうへ行かなければ心配ないわ。わたしの名前はアイマータ。アイマータにまかせてくださいね。ああ、なんてきれいなうなじをしているの」

少女はうっとりと船長の首に腕をまわし、船長は優しく少女を引き寄せた。二人はゆっくりと崖を下り、森の茂みの中に消えていった。そして、翼をもった愛の使者はクウクウと鳴きながら、恋人たちの前を誘うように飛んでいった。

夜になっても、船長は島を離れなかった。

アイマータは、闇に紛れて船長を逃がそうと思っていたことなど、すっかり忘れ去っていた。崖の上の小屋にいれば心配はないと説き伏せられて、小屋を去るときには、明日の夜明け、お父さまが眠っているうちに戻ってきますと約束した。

船長は一人、小屋に残った。愛おしい無垢な少女の面影が、優しくもはかなげに心に浮かんだ。性急に島へ渡ってきたことが悔やまれるほどだった。
「イギリスへ連れて帰ろう。海の男が世間体など気にするものか。アイマータを妻にするぞ」

息苦しいほどの暑さだった。真夜中近く、船長は新鮮な空気を求めて崖の上に出た。

その瞬間、最初の地震が足元の地面を揺さぶった。(船がまだ礁内に停泊していた時の揺れだ。)すぐに、本島の噴火だと思い当たった。死火山だと思ったのは間違いだったのだろうか? 今の揺れは、二つの島が海底で繋がっているからなのか? 船長は、言いようのない不安にさいなまれながら、何時間ものあいだ闇を見つめて待ち続けた。そして、朝日が差すのを待って、崖を下って森へ入って行った。すると、命にかえても守り抜きたい大切な少女が、息せき切って駆けてくるのが見えた。

少女は気が狂ったように手を振りながら駆け寄った。
「逃げて!」と少女は叫んだ。「島が崩れる前にカヌーで逃げて!」

船長はやっとのことで少女を落ち着かせた。地震に怯えたのだろうか? いいや、その後にもっと恐ろしいことが起こったのだ。神殿のそばの湖では、地中の炎に熱せられて水温が上がると思われていた。ところが、地震が起こると水位が上昇し、水が激しく泡立ったかと思うと地中に吸い込まれ、湖はすっかり干上がってしまったのだ。少女の父親は恐怖の前兆を見てとると、本島の様子を確かめに岬へ向かった。そして島民たちの祈りを受け、神の加護を得るために生け贄の儀式を行うのだ。

この話を聞いた船長は、司祭がいないうちに湖へ連れて行くように言った。少女はためらったが、船長の影響は絶大だった。船長は少女を説得し、二人は森を抜けて神殿へ戻ることになった。

森がとぎれると、足元の地面はごつごつした感触に変わり、島の中心に向かってゆるく傾斜していた。さらに行くと、自然の岩が形づくる円形劇場に着いた。その一方には、洞くつに人の手を加えて建てた神殿があり、枝分かれした横穴が司祭と少女の住まいになっていた。その入り口から岩だらけの湖をのぞき込むと、空っぽの湖底に、わずかな蒸気が立ち上っていた。どこを見渡しても、一滴の水も見当たらなかった。

アイマータは地の底を指さすと、船長の身体の陰に顔を隠すようにして囁いた。
「お父さまはあなたの仕業だと言ったわ」

船長は驚いて問い返した。
「わたしが島にいることを知っているのかね?」

少女は責めるような視線を船長に投げた。
「あなたの命を危険にさらすようなこと、わたしが話すと思いますか? お父さまは、地震に悪魔の気配を感じたのです。湖が消えてしまったので、島は滅亡すると」

少女は、愛のこもったひたむきな視線で、じっと船長を見つめた。
「あなたは本当に予言の悪魔なの?」少女は船長の髪を指に絡ませた。「もしそうでも、わたし、怖くはないわ。わたしは悪い魔法にかかったの。悪魔を愛しているのよ」そして、情熱的に口づけて囁いた。「死ぬのなんかこわくはない。あなたと一緒なら!」

船長は状況を説明しようとはしなかった。もっと賢い方法をとったのだ。少女の心を揺さぶった。
「わたしの国で、二人で幸せに暮らそう。船がわたしたちを待っている。国へ帰ったら、わたしの妻になってくれるね」

少女は嬉しさのあまり手をたたいて喜んだ。そして、父親のことを思い、涙ながらに船長から身を引いた。船長には少女の気持ちが分かった。
「さあ、こんなところにいても仕方がない。涼しい森で話そう。君が愛を誓ってくれたあの場所で」

少女は船長に手を預けた。
「あなたに愛を誓った場所で」

少女はそう言うと、船長を見つめて優しげにほほ笑んだ。二人は湖をあとにした。

夜の深い帳がおりた。しかし、船は依然として沖合にひっそりと停泊していた。

ダンカーフは夕食がすむと甲板へ上がってきた。夕方には、細い煙の筋しか見えなかった山頂の火口から、今は、ときおり不吉な炎が上がっていた。島の方角から、再び熱い微風が吹いてきた。
「この風を待っていたんだ。今のうちに船長を探し出して見せるぞ」

ボートが下ろされた。作業を指示した二等航海士は、昼間のうちに禁断の島の方角を確かめていた。四人が同行することになり、全員がすっかり武装した。ダンカーフはボートの航海士に最後の指示を与えていた。
「いいか、油断するんじゃねえぞ。へさきに明かりを吊るすんだ。島の奴らが邪魔しやがったら、忘れるな、構わず撃っちまえ。島に近づいたら、銃を撃ったり大声を立てたりして船長に知らせろ」
「その必要はない」と海から声が響いた。「わたしはここだ!」

乗組員たちの驚きには目もくれず、フォーチュナ号の指揮官はカヌーを船へ漕ぎ寄せた。そして、甲板へは上がらずに、待機していたボートに乗り移った。
「ピストルを貸してくれ」と船長は穏やかに二等航海士に言った。「それから、部下を船に戻して通常任務に就かせたまえ」

船長はダンカーフを見上げてさらに指示を続けた。
「天候が変わっても、船は陸から安全な距離を保ったまま待機しろ。そして、位置が分かるように定期的に大砲を撃て。わたしが夜明けに戻るまで待機してくれ」
「なんだって! 船長、あんたあの島へ戻ろうって言うのか? そのボートで、たった一人で?」
「そのとおりだ」いつもと変わらぬ穏やかさだった。「わたし一人で行く」船長はそう言いながら帆を揚げて出発した。
「船のことはどうするんだ!」ベテラン航海士が声のかぎりに叫んだ。
「指示に従ってくれ」と闇に吸い込まれながら船長が叫び返した。

ダンカーフが、これほど動揺したのは生まれて初めてのことだった。そして、らしくもない神妙な面持ちで、言葉遣いも丁寧に指揮官を見送った。
「主のご加護があらんことを! ご無事で」

ボートにただ一人乗り込み、ときおり炎を上げる火山を見つめながら、船長は胸騒ぎを感じていた。

事がうまく進んでいたら、干上がった湖を見たあと、日のあるうちにアイマータを船に避難させていただろう。しかし、生け贄の儀式の煙を目にした族長が、カヌーを二艘、聖なる島へと送ったのだ。一艘は本島へ戻ったが、もう一艘は、司祭がいつでも連絡を取れるように岬の沖に留まっていた。二度目の地震で、族長の警戒は当然のことながら高まった。そして、司祭に島を離れるように、アイマータにも父親を説得するようにメッセージを送った。だが、司祭は神殿を離れることを拒んだ。司祭は神の力と、生け贄の儀式の力を信じていた。そういったものが、聖域を恐ろしい運命から守ってくれるかもしれないと考えたのだ。

聖職者の考えには逆らえず、族長はカヌーを増やし、交替で岬の沖から見張りをさせた。島民たちは、予言の悪魔の襲来に備えて、松明をともして昼も夜も警戒を続けた。この間、船長は身を隠し、自分のカヌーに近づく機会をじっと待っているしかなかった。

夕闇が深まるころ、アイマータがふだんどおりに父親のもとへ帰ったすぐ後で、船長にチャンスが巡ってきた。山頂の炎は、あたりが暗くなるにつれ明るさを増し、見張りの男たちを心底震え上がらせた。男たちは、妻や子どもや本島に残してきたもののことを案じるあまり、司祭を置き去りにして島へ帰ってしまった。船長はこの機を逃さずいったん船へ戻り、舵の取りにくい華奢なカヌーから、嵐の中でも素早く動けるボートに乗り換えたのだ。

船長が再び禁断の島に近づくと、遠くに小さな赤い火が動くのが見え、一度は島を離れた見張りのカヌーが戻ってきていることが分かった。注意深く明かりを避け、船長は、ランタンをたよりに無事にボートを崖の下に寄せ、錨をおろした。そして、岩をよじ登り、小屋の入口で思いがけずアイマータに再会した。
「あなたと永遠に引き裂かれる夢を見て戻って来たの。あなたは本当の悲しみがどういうものかを教えてくれたわ。あなたがいないと分かったとき、わたし、生まれて初めて胸が痛んだ。もう一度会えたから、もう十分です。わたしを連れて帰ってはだめ。きっとお父さまが探しているわ。命が危ないのは、あなたのほうです。わたしは大丈夫。夜でも昼間と同じように森を歩けるから」

アイマータが出て行こうとするのを、船長は力ずくで引きとめた。
「でも君は今ここにいる。すぐに安全なところへ連れて行ってあげよう。わたしは一度船へ行って、ボートで戻ってきたのだよ。夜の闇が味方してくれるだろう。さあ、今のうちにボートへ」

船長がとった手を、アイマータは振りほどいた。
「お父さまのことを忘れているわ!」
「父上なら心配はない。岬でカヌーが待っている。来るときに明かりを見た」

そう言うと、船長はアイマータを促して小屋を出て海へ向かった。しかし、風はすっかりやみ、死んだような静けさが戻っていた。それに、ボートは男一人で軽々と漕げる大きさではなかった。
「じきに風が戻るだろう。ここで一緒にチャンスを待とう」

船長がそう言った途端、目の前の森の深い静けさを破って、嘆き悲しむような声が響いた。
「アイマータ! アイマータ!」
「お父さまよ!」と少女は声を押し殺した。「わたしのことを心配して探しているんだわ。お父さまがここへ来たらあなたはおしまいよ」

少女は、熱に浮かされたように激しく口づけると、一瞬、船長を力いっぱい抱きしめた。
「夜明けには戻ります」そう言うと、少女は坂を下って森の中へ消えていった。

船長は少女の身を案じて耳をそばだてた。父と娘の声は木々のすぐ向こうまで迫っていた。司祭の声にはいら立ちは感じられず、アイマータは留守にしていた上手い言いわけを思いついて父親を納得させたようだった。しだいに声は遠ざかり、二人が神殿へ向かったことがことが分かった。静けさが戻った。岸辺にはさざ波ひとつ打ち寄せず、森の木の葉もかさりともいわなかった。動いているものといえば、暗い夜に映る炎の揺らめきだけ。風もなく、あたりは不気味なほど静まり返っていた。

船長は小屋に戻り、木の葉のベッドに横たわった。眠ろうと思ったのではない。体を休めるためだ。夜が明けたら、全力で脱出しなければならないはずだ。いかに屈強な男とはいえ、船までの往復と長い警戒に気力体力を使い果たし、休息は必要だった。

しばらくの間、船長は考えごとをしながら起きていた。しかし、むっとするほどのひどい暑さにもかかわらず、疲れのせいで瞼は重くなった。眠ってはいけないと思いながら、疲れ果てた船長は深い眠りに落ちていった。

船長は、武器庫が爆発したかのような轟音で目覚めた。本島の火山がついに噴火したのだ。真っ赤に染まった煙が空を埋め尽くし、小屋の開け放した戸口から閃光が差し込んでいた。船長はベッドから跳び起きた――と、膝の上まで水につかっていることに気づいた。

津波が起こったのか?

水をかき分けて小屋の外へ出る間に、水は腹まで届いた。噴火の赤い光を通してあたりを見回した。見渡す限り、血のように赤く染まった海だけが広がっていた。海は奇妙に渦を巻き、さざ波を立てていたが、不気味なほど静まり返っていた。次の瞬間、船長は自分が立っている地面が沈んでいることに気づいた。水は首まで達し、わずかに見えていた小屋の屋根も水中に没してしまった。

もう一度あたりを見回し、やっと何が起こっているのかを悟った。島そのものが沈んでいるのだ。――ゆっくりと、ゆっくりと、恐ろしいまでの深みへ、海より深く! あたりでいちばん大きな小屋も、船長の目の前で徐々に水の底へ沈んでいった。超自然的な火山の力で地上に持ち上げられた島が、同じ力で、もとの暗がりへ沈んでいくのだ。

大きな弧を描きながら、暗い影がゆっくりと流れて来たときには、すべてを破壊した苦い波が船長の口を洗いはじめていた。海面が上昇して錨の外れたボートが、島が沈んでできた渦に乗って漂ってきたのだ。自分が助かったように、アイマータも生きているかもしれない。一縷の望みにすがる思いで、船長はボートに泳ぎつき、渾身の力で重い櫂を取ると湖と神殿のあったと思われる方角へ漕ぎだした。

船長は必死にあたりを見回した。目を凝らして、泡立ち、波立つ海の中をのぞき込もうとした。恐怖にかられた見張りたちは、司祭と娘を見捨てて逃げたのだろうか? それとも、逃げ出す前に一緒に海にのまれてしまったのだろうか? 船長は悲痛な声で少女の名を呼んだ。深い海の底の少女に届くかのように。
「アイマータ! アイマータ!」

遠くで、噴火の轟音が答えた。ますます激しくなっていく炎が、島を飲み込んだ海を照らしだしていた。ボートは次第に薄れていく渦に乗って、ゆっくりと、いよいよゆっくりと旋回した。

もう二度と、あの優しい瞳が見つめてくれることはないのか! もう二度と、あの唇が熱く口づけてくれることはないのか! 自然の猛威の真っただ中で、船長は両手を宙に差し伸べて狂ったように祈った。――そして、燃え盛る空が圧倒的な大きさで照りつけ、打ちのめされた船長は、がっくりとボートに膝をついた。体から力が抜けるのと同時に、理性も崩壊した。狂気にとらわれた船長は、はるか遠くに、白いローブに身を包んだ天使を見た。水面に立って手を振り、光り輝く素晴らしい世界へといざなっている。船長は帆をゆるめ、櫂を握りしめた。追えば追うほど、その姿はあざ笑うかのように、果てしのない空っぽの海を遠ざかっていった。

ボートは、翌朝、発見された。

フォーチュナ号の航海士たちは、帰国の途についた船で、悲劇の指揮官を献身的に看病した。国へ戻ると、優れた医療技術のおかげで、船長の心は少しずつバランスを取りもどしていった。そして、社会へも復帰し、今は、ほかの人と同じように、ふつうに暮らしているように見える。だが、船長の心には、もう何の感情も湧いてこない。そこにあるのは、失った恋の傷跡だけだ。女性のことを避けるわけではないが、付き合うことはない。思いやりはありがたいだろうが、魅力は感じす、姿が見えなくなれば記憶にも残らない。そう、船長の心を動かすのは、アイマータの思い出だけなのだから。
「さて、お嬢さんがた、これでおわかりだろう。なぜ船長が結婚もせず、海の男だというのに、海を見るのが耐えられないのかを」

(完)
2011年1月24日号
(第4巻183号)