入門翻訳勝ち抜き道場
入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:ロンドン便り

ロンドン便り:その9

パリ狂がロンドンに住んだら

北原千津子
[ profile ]

太陽のはなし(2)

ムハンマド5世の霊廟
ムハンマド5世の霊廟の中。ムハンマド5世(1956年にフランスからの独立を勝ち取った元国王。現国王の祖父)と、息子のハサン2世(前国王)とムーレイ・アブドゥーラ王子の石棺を安置。

12時半にやってこなかった運転手との‘再会物語’は、夕方4時すぎのホテルで始まることになる。

《ハッサン2世モスク》の後、私たちは赤いミニタクシーに乗って市内をさっと見学し、いったんホテルに戻った。フロントがキーと一緒に、「運転手の連絡先です」とメモをくれた。

紙切れには、何やらたくさんの数字が並んでいた。

「ねぇ、このA212って、なんだろう?」

私たちは3人は、それこそ‘文殊の知恵’を振り絞り、しばらくして、それが、アジズ(AZIZ)という、運転手の名前だということに気づいた。「ほんと外国人の筆跡ってよく分からない!」と、自分たちの悪筆をも棚に上げて大笑い。すぐに電話をかけると、とにかくホテルまで急ぐように頼んだ。

あわれなアジズ氏は、その後私たちの間では、‘A212号’と呼ばれることになる。

ホテルのロビー。ソファに座りこむ私のところにA212号は音もなくすーっとやってきて、「コマンサヴァ、マダム(奥様ご機嫌いかが?)」と右手を差し出し握手を求めた。

そう攻めてきたか!!

それから彼は、向かいのソファで本を読んでいた友人Tの横に、ひざを揃えて、浅く斜め座りになると、耳元でくしゅくしゅと、訴えるように話し始めた。

どうやら、Tと最後に交わした「12時半」という約束時間の勘違いを言い訳しているらしい。

空腹に耐えきれず(?)部屋におせんべい――たまたまスーツケースにあられの小袋を入れていた――を取りに行っていた夫Tが戻って来た。

「アジズさん、さっきはずっと待っていたんですよ」

非を認めて謝ってしまえばいいものを、頑固なA212号は、未練たらしくあれやこれやと言い訳をしている。挙句の果て、「1時半と言われた」と。

そのセリフを聞くや否や、夫Tの堪忍袋の緒が切れた。

約束時間に関しては、3対1だからどちらの勘違いかは明らかだ、プロとして失格、お腹がすいたなど言語道断、我々だって朝から何も食べていない、私たちにとっては限られた時間の貴重なモロッコ滞在だ、つべこべ言わず、さぁ出発・・・

縦板に水と発せられる夫Tのフランス語。

「そこまで。この後も気分良く運転してもらいたいから」
と私Cが、日本語ではさみ、A212号に、「まぁまぁ、あなたもドジな男ね。でもホントに怒っているわけじゃないから」というふうにニコッとして、歩き出した。

TCTの次なる目的地は、郊外のゴルフ場だった。友人Tがかつて週末ごとに――もう一人のTは、パリで週末ごとに紙おむつとミネラルウォーターの買い出しに追われていた時に!――訪れてプレイしていたというゴルフ場。

夕暮れの西日は地平線の近くから柔らかな光を放ち、緑色の芝生が逆光の中で金色に縁どられていた。クラブハウス前の玉砂利の中をゴルフコースに向けて、ずんずん歩いていくTの後ろ姿を見ながら、何はともあれA212号と再会できてよかった、と私は思った。

ハッサンの塔:未完のモスク
ハッサンの塔:未完のモスク。12世紀末に建築を始め、途中で工事が中断されたもの。建設途中の塔と石柱がそのまま残っています。破壊されたのもではありません。世界最大のモスクとなる予定だったとか。

翌日は首都のラバトまで、出かける予定が組まれていた。

ラバトは、商業都市カサブランカとは違って歴史もあり、王宮始め官公庁などの美しい建物、ローマ時代の遺跡を擁する美しい公園など、しっとりと落ち着いた雰囲気を持つ街だ。朝8時半にホテルを出発して、昼食のモロッコ料理(もちろん、タジン)を含め、夜カサブランカに戻るまでが、旅行会社によって綿密に計画されていた。

8時半、ホテルのロビー。

A212号はいない。

モロッコ時間は、フランス時間よりものろく進むらしい。

最初は鷹揚に構えていたTCTだったが、15分たっても現れないA212号にしびれを切らして、電話を入れた。が、すぐに切れた。

???

その後やっとつながった電話によると、ホテルに向かう途中で、事故を起こしたらしい。A212号の面目のために正確にいえば、「事故に巻き込まれた」であった。

「これから警察が来る。車も私も大丈夫だ。調書をとって、30分もすればホテルに着くであろう」

TCTは、もはや少しも動じなかった。

この国で警察が介入するということは・・・すぐに事が納まるとは思わない。一度警察に行ったら、それこそ、午前中はつぶれてしまう、との結論から、TCTはA212号を見捨てることに決めた。

旅行社の代理店のあるマラケシュと、仲介してくれたパリの旅行社と夫Tとの間で電話は五往復くらいして、そして、10時半すぎに、新しい車と新しい運転手がホテルにやって来た。

人懐こい目をした浅黒い肌の25歳だという若い運転手は、こげ茶色のフィットしたワイシャツのボタンを3つほどはずし、ブランド物の細身のジーンズと頭にサングラス。こざっぱりと西欧風のいでたちで、英語もフランス語も上手に使った。そして車の運転は、「怖いくらいに」上手だったから、つぶれてしまった午前中の予定をもほぼすべて、午後に押し込めてくれて、私たちは、ラバトを堪能した。

カサブランカへ戻る高速道路の前方、まさに沈もうとする大きな太陽は、霞をまとい鈍いオレンジ色の塊となっている。

砂漠の風が微粒子を運ぶのだろうか・・・、コンタクトレンズのざらつく目をパチパチしながら、私は長かった一日を思った。

やれやれ。今日も楽しい一日です。

実は最後に、「路線無視」という交通違反で罰金を取られる、というおまけがつくのだけれど。

翌日早朝、若い運転手に見送られて、TCTはカサブランカの空港を飛び立った。目指すはマラケシュ。フランス人の友人たちから、一種独特の憧れの声音をもって何度となく聞いていたその名前、マラケシュ。

緑がどんどん少なくなり、荒涼たる土漠の広がるモロッコの大地を眼下にしながら、私の心は、遊園地の子供のように弾んでいた。

ローマ時代の遺跡の残るシェラコウノトリの巣
ローマ時代の遺跡の残るシェラ。若い運転手が、「ここが大好き。最高のデートスポットだ」と言っていました。なぜか、コウノトリもここが大好きみたいです。そのへんの木のてっぺんはもちろんですが、ミナレットの上にも巣を作っています。

2010年6月23日号
(第4巻160号)