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エッセイ:ロンドン便り

ロンドン便り:その10

パリ狂がロンドンに住んだら

北原千津子
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太陽のはなし(3)

新市街の建物
新市街の建物の一つ。どれもこれも美しく、とてもよく似ています。(実は、私たちが泊まっていたホテル)

いかにも観光地である。マラケシュ空港の到着ロビーで待つ大勢の出迎えの人々が、それぞれ胸に掲げ持つ「名前の紙」の中から、KITAHARAという文字を探すのは大変だ。TCTは、3人して、目を皿のようにしてアルファベットを読んだ。

旅行社からの出迎えが見つからないまま「日本人3人組なんて珍しいんだから、そっちから探し出してくれてもいいじゃない」という気分になった頃、「あっ、いた」。

名前が「あった」のではない。「いた」のだ。人垣の少し向こうに、「名前の紙」など手にしていないA212号が、にこりともせず、やや事務的に、そして当然のようにTCTを待ち構えていた。

カサブランカの時と同じ紺色のワンボックスカーの、後部左側の傷を見せながら、A212号は、「バイクがぶつかって来たから・・・」と、初めてはにかむように微笑んだ。

きのうの事故がなかったら、朝、私たちを空港に送った後、彼はここに迎えに来れたのだろうか? まさか、飛行機と競争? などと考えると、旅行社のスケジュールのやり繰りが妙に気になったが、もともとマラケシュの住人だというA212号の運転は、今度は自信に満ちていた。

白を思いっきりたくさん使った、太い斜め格子模様のモダンな空港ターミナルを出るとすぐに、車は、マラケシュ色とでも名付けたいような、独特の赤土色の建物の並ぶ市街地に入った。きれいに整備された道はまっすぐに伸び、それを縁どるオレンジの並木や背の高いバラの木や蘇鉄の深緑が乾いた空気を和らげる。

こういう秩序だった美しさとか快適さがフランス人の好みなのだ、と私は思う。そして、空も太陽も大地もしっかり北アフリカ! そこに広がるのは、ナポレオンの時代から変わらないフランス人の「異国趣味」を大いに刺激する空間だった。

あまりに美しく整う市街地は、もちろん、‘近年の作品’だろう。しかし12世紀のメディナを囲む城壁の色もまた、赤土色。いや、逆だ。近代の市街地が昔をまねて作っただけなのだ。

アグノウ門
旧市街(メディナ)の外壁の門の一つ。アグノウ門。王宮の近く。たまたま正月休暇で、国王がマラケシュ入り。人々が、国王を一目見たいと集まっていました。

ローランギャロス(全仏オープンの行われるパリ西南部のテニス施設)のクレーコートを思いだしながら、空の青にも負けないこの街の土壁の美しい色合いに、私はなんとも言えない親近感を覚え、見とれた。

マラケシュを案内してくれたガイドの男は、ブラヒムと名乗った。まるで‘制服’のようなフード付きガウン状の上着《ジュラバ》――上質のウールで仕立ててあるから、一日のうちでも寒暖の激しいモロッコの気候にも耐えられるのだそうだ――と、先のとがったスリッパをずるずると引きずって歩く姿、時折口にする「最近の若い者は」という言葉からはとても信じたくはなかったけれど、私たちと同世代だった。

若い頃フランスに留学していた彼は、巧みなフランス語と、陽気な性格と、幅広い世界知識をもって、のべつまくなし喋り続けた。私たちに。それから、街の人たちにも。

そのおかげで、‘歯磨き’の木の枝も噛むことができたし、オレンジの木の葉の香水で手を拭ったり、行商の揚げ菓子売りから味見用をくすねることも、メナラ庭園の貯水池の鯉にパンをやることもできた。

メナラ庭園の貯水池
メナラ庭園の貯水池。水の温度がとても低いので、上を流れる空気は天然クーラーです。

白衣を着たやぶにらみの香辛料店店主の、理科の授業のような薬草の能書を拝聴した後のサフランの大量購入が、‘超お買得’だったかどうかは、ちょっと怪しいけれど。

スークを抜け、故宮を通り、生まれ育った地区だという路地裏にも案内しつつ、「ここを通るのが好きなんですよ。子供のころを思い出す。もちろん表通りへの近道はあるけれど、時間もたっぷりだし、なにより食後の良い散歩でしょ?」と、親しさをこめて生い立ちを語るブラヒムの笑顔を見ながら、この人の日当はいったいいくらくらいなのだろう・・・と、けた違いに安い物価を、頭の中で計算してみたりした。

日の当らない迷路のようなスークを歩きながら、「観光地の経済は不安定、気まぐれなんですよ。買い物というのは、‘購入者に買う力があるか’ではなくて‘購入者に買いたいという欲望があるか’にかかっているでしょう?」と語ったブラヒムの言葉は、その後、何度も私の頭をよぎった。

地元の人々が買い物に来るような路地では、絞めたばかりの鶏をずたずたにさばく(私のほうがもっときれいに下ろせる!)まな板だけの肉屋とか、タイヤを改造して作ったたらいのような日用品を扱う店が目についた。

タイヤのリサイクル
タイヤのリサイクル

4日間のマラケシュでは、快適な西洋式高級リゾートホテルに泊まり、毎日、赤土色の城壁の門をくぐってメディナに入り、蛇つかいを横目で見ながら(立ち止まってじっと見つめたら、お金を要求される)ジャマ・エル・フナ広場を横切った。

ジャマ・エル・フナ広場
ジャマ・エル・フナ広場。世界遺産であるメディナの中でも一番のスポット。昼間の風景。夕方から夜にかけて、さらに屋台や大道芸が広場を埋め尽くします。

博物館や宮殿を訪れては、細かいタイルや、木彫りの模様に溜息をつき、スークでは、テーブルクロスを値切り(もちろん、商人たちにとってはいいお客さんだったに違いない! 私は、2段階しか下げさせなかったから)、イヴ・サンローランが眠るマジョレル庭園では、建物のブルーに度肝を抜かれ、巨大なサボテンに歓声を上げた。

マジョレル庭園
マジョレル庭園。もともとは20世紀初頭の、マジョレルという画家のやや奇をてらった家と植物園的庭園を、イヴ・サンローランが買い取って、しばしば訪れていたようです。彼もまたマラケシュに魅せられたフランス人の一人でした。サンローランのお墓は、ここだけで、フランス国内にはないそうです。

そして、ひたすらモロッコ料理を食べ続けた。

モロッコ料理
モロッコ料理、定番の野菜の前菜。にんじん、豆、ビーツ、クルジェット、トマト等々。レストランによって、微妙に味は違いますが、素材は似たり寄ったり。そしてモロッコのパン。これは、パン屋の店先にもいつもたくさん積まれています。

「カサブランカでのご迷惑のお詫びに」と、旅行社がA212号の‘超過勤務’を提供してくれたので、最終日、私たちはアトラス山脈がよく見える所に行きたい、と希望した。

車は、マラケシュの街を南に抜けた。

途中、椰子林を通りながららくだの一群(これも、観光客相手のアトラクションの一つにすぎないのだが)に遭遇。そしてまたしばらく走り、A212号は荒涼とした乾いた大地の広がるところに車を止めた。

はるか向こうのほう、珍しく雨が降った直後で、山の中腹に雲がかかってはいたが、頂に白いものを被った3000メートルを超える山々の連なりが、静謐なる美しさを見せていた。

山脈の雪解け水を引いているメナラ庭園の貯水池の水の冷たさを思い出しながら、ふと手前を見ると、赤土色の建物群が、集落のようにかたまってある。

「あれは、あなた方の住宅地?」

「いえ、あれは、外国人の別荘」

A212号は、フランスの著名人の名をたくさん挙げた。

「別荘地の建設のために、私たちはどんどん遠くに追いやられてしまう。でも、たくさんの立ち退き料をもらうから。分不相応に金持ちになって・・・。モロッコの労働者賃金は、時給1ユーロちょっと(120円位)に過ぎないのに・・・」

2009年大みそかの夕方の、モロッコらしからぬ鈍く淡い陽の光の中で、A212号が唇をギュッと結ぶのが見えた。

アトラス山脈
アトラス山脈

2010年10月18日号
(第4巻172号)