パリ狂がロンドンに住んだら
公園のはなし

冬枯れという言葉を知らないかのような、ふさふさとした草の上に
目にも鮮やかな緑の芝生に、思い思いの姿でくつろぐ人々がいる。その数、数百? 今日は日曜日だから、あちらもこちらもシートを広げてピクニック。我が家の目の前のケンジントンガーデンは、ロンドンっ子のオアシスでもある。
不景気な世の中で、一番手頃で安上がりのレジャーが「公園行き」なのかもしれない。暗くなるまで引きも切らず人々は訪れる。
3月最終週末、欧州はサマータイムに切り替わる。時を同じくして復活祭もやってきて、まさに春爛漫。長い冬から解放された空気が、公園を優しく包み込む。
そして、4月、5月、6月と、毎日毎日、日は延びる。まるで、目に見えるかのように、日照時間が長くなる。
ピーク(もちろん夏至です)に達すれば、夕方5時ごろが一番太陽の高い時間帯となり、それは「夕方」というよりは、「日の盛り」という感じすらある。公園の人々は、犬と散歩し、ジョッギングし、乳母車を押し、芝生の上では裸足になってボールを追いかけ、柔軟体操し、座っておしゃべりに興じ、寝っ転がって日光浴をする。
ここでまた、私の言葉へのこだわりが頭をもたげる。
東京生まれの私の日本語的感覚として、「夕方」とはもちろん夜になる前の、日が傾き暮れかけた1時間くらいの時間をさす。日の名残りというような、淡い、でも気分的には濃密な夕暮れ時。夏休みなら、カナカナの声が聞こえてきそうな、まったりとしたひと時。冬ならば、長い夜を期待する、少し気ぜわしいひと時。しかし、それは、ともに夕食の前のほんのわずかな時なのである。
北海道と九州では少しズレるかもしれないが、おそらく、多くの日本人が、そういう感覚を身につけて、「夕方」という言葉を使っていると思う。それは、日本では午後5時とか6時頃のことである。
【夕方】日のくれがた。夕刻。夕つかた。日葡辞書「ユウカタ」(広辞苑・第五版)
私が日本語の夕方に持つイメージ時計は、ここロンドンでは全く通用しない。真冬は午後3時が夕方だし、夏は午後8時。
それは、パリでも同様だった。
ロンドンとは1時間時差があるから(経度はほとんど変わらないのに…大陸はグリニッジ子午線を無視!?)、緯度は低くても、やはり、夏の夕方は遅かった。午後11時くらいになって、やっと真っ暗な夜になる。
パリ生まれの子供たちを寝かせるのに、春から夏にかけて、私はおひさまのさんさんと輝く窓辺で、ヴォレ(フランスの鎧板の雨戸)を無理やり閉めて、「もう夜なのよ、さぁ、寝んね」などと、非論理的なせりふを口にしていたのだ。
あれ以来、私には、四季を通して「夕方とは午後5時6時のこと」という日本人頭とは別の私の頭を持つ。郷に入れば郷に従え。ロンドン(パリ)にいると、「夕方」という日本語を口にするのを私は少し躊躇する。
【夜】日没から日の出までの時間。太陽が没して暗い間。夜(よ)。万葉集(15)「あかねさす昼は物思(も)ひぬばたまの―はすがらに哭(ね)のみし泣かゆ」(広辞苑第五版)

去年の夏の午後8時頃のもの。一天にわかにかき曇り、‘夕’立ちがあり、その後、西日(写真右手から)がさして木の葉が黄金色に光りました。そしてケンジントンガーデンの向こうの空には大きな虹が…。
ロンドン市街の中心部、地下鉄路線図で言えばそれは〈ゾーン1〉と言われる地域だが――悪名高い(?)Congestion Charge〈渋滞課金〉の範囲でもある――、そのほぼ中央にCity of Westminsterと呼ばれる行政区がある。
バッキンガム宮殿を取り囲むようにあるMetropolitan Borough of Westminster区域は、およそ10平方キロメートル、つまり1000ヘクタールなのだが、その中に、グリーンパーク、セントジェイムズパーク、ハイドバーク、ケンジントンガーデン、という4つの大きな公園を持ち、合わせて300ヘクタールもの緑のスペースを提供している。
一口に300ヘクタールと言ってもピンとこないかもしれないが、それは東京で言えば、日比谷公園の15個分くらい。4つのうち、一番大きなハイドパークは140ヘクタールもある。
ハイドパークはケンジントンガーデンと連結しており、合わせれば、250ヘクタール余り。これは、ニューヨークのセントラルパークに続いて、世界第2位の広さだそうだ。
![]() ハイドパークの中の花壇(8月) |
![]() セントジェームズパーク横の街路の花壇(4月) |
《ハイドパーク》という公園は、広いというだけではなく、ロンドンが誇る世界的に有名な公園でもある。確か、英語を習い始めてすぐの頃の、中学の教科書にも登場し、私はその存在を知ったと思う。
「公園の片隅には、政治演説をするスペースがあり…」という説明に、イギリスって、広場で誰でも演説できるんだ…、と、ひどく感心した覚えがある。
「ディベート」などという“日本語”は存在していなかった私の中学生時代。政治演説と言えば、一般社会とはちょっと別のところにあるような気がしていたから、子供心に持つ公園ののどかさのイメージと、政治的なものとのギャップがとても印象に残り、ハイドパークの名は脳に刻まれた。
21世紀になった今でも、ハイドパークと演説の関係はそのままで、マーブルアーチの所では、時折、プラカードを持ったり、胸にゼッケンをつけたデモ隊が集結する。
ところが、そういった光景は、誰もかれもが「民主的に主張する」現代社会では世界中で当たり前になってしまった。ごく日常的にデモ行進などを繰り広げるものだから、それこそ、お祭りなのか主義主張なのかよくわからないものもあるご時世だ。
天気の良い日曜日には散歩がてらデモ行進、…という訳ではないだろうが、ハイドパーク全体は、政治がらみであるか否かを問わず、人々の集まるところで、やはりとてつもなく広大な緑の憩いの場となっている。
そして都会の緑を享受するのはロンドン人ばかりではない。彼らの犬や、鳩、カラス、馬にリスに白鳥や鴨、そして鵞鳥たちも、この素晴らしい環境を都会のど真ん中で満喫する、というわけだ。
先に挙げた四つのロイヤルパーク(“公”園とはいえ、王室の所有物である)以外にも**スクエアだとか、**ガーデンだとか、ちょっとした緑の広場は街のあちらこちらに点在する。
私が住む地域を少し歩くだけでも、そこここに見つかるミニ公園には四季折々美しい花が咲き乱れ、今日も小鳥や子供の声が聞こえる。
「うーーん、ロンドンって、公園だゎ」
ここでまた、私は、英語にもフランス語にも直訳不可能な日本語をつぶやいてしまう。

近所のミニ公園































