パリ狂がロンドンに住んだら
大騒動のはなし

私が一番好きな、”ロンドンの眺め”、国会議事堂。テムズ河からの姿です。
Mind the gap!
Mind the gap!
Mind the gap!
何事が起きたのか?
耳をつんざく早口の大声アナウンスが地下鉄の車内に轟きわたった時、座っていた私は思わず腰を浮かせた。
緊急事態なのだろうか?事故でも起きたのだろうか?
ロンドン生活を始めて3日目の私にとって、狭くて暗いトンネル(地下鉄だから当たり前ですけど)の中の、これまた狭い車内では、それは“恐怖”以外のなにものでもなかった。大きな不安がむくむくと私の中に広がった。
ところが、周囲の誰も、あわてる様子はみじんもない。後ろを振り向くとそこは暗い蛍光灯のともるホームだった。
ごく普通に地下鉄の扉は開き、ごく普通に人々が降り、ごく普通に人々が乗って来る。
そこで、初めて、私は状況を理解した。
「なーんだ、ホームと電車の間が離れてますから、お気を付けください、ってことなんだ」
パリ暮らしの長かった私としては、東京の繁華街の喧噪にはどうしてもなじめない。はっきり言って、あのネオンのチカチカとか、あたり構わず流れる音楽や宣伝販売の大きな声とか…、とても疲れる。
でも、ヨーロッパはそんなことはない、古き良き都はしっとりと落ち着いているのョ、と固く固く信じていただけに、ロンドンのこの、音に対する“鈍感さ”には、正直言って驚いた。
ここは、紳士淑女の街ではなかったか??
ロンドンに来たのは初めてではない。数日間の旅行なら何回かあった。でも「これからこの地に住む」と思うと人間の感覚は別の形で研ぎ澄まされてくるのだろうか。
いえ、それほど大げさなことではないけれど、何となく、「早くここを好きにならなきゃ」とか、「住めば都って言うし」といった意識がどこかに芽生えるのだろう。周りのすべてに私の五感は敏感に反応した。
そして、比べてはいけないと思いつつ、パリとの違いが一つひとつ気になる私だった。一昔前までは、駅名を告げる車内放送さえなかったパリが、妙に懐かしい。
そのうちに、翻訳者のはしくれとしての興味が湧いてきた。もし、小説の中にこの地下鉄のシーンが出てきたら、私は、それを何と訳すだろう?(仏語翻訳者が生意気にも英語について考えました)

地下鉄のロゴ。これを目印に、駅(地下への下り口)を探します。
例えば、このMind the gap! という言葉が、ホームにでも書かれた文字ならば、「隙間注意」という標語の感じでいいかもしれない。
しかし、地下鉄の車掌さんは、必死に叫んでいるのだ。あれは特別の車内放送であり、録音テープによる放送ではなかったような気がするが、いずれにしても、人の口から発せられた言葉なのである。
としたら、東京の山の手線などでよく耳にする、「電車とホーム、大変離れておりまぁす。ご注意くださ~い」という長々と緩慢なせりふになるのだろうか。
でも、そう訳してしまったら何か違うナ、という思いも私にはある。何しろ、大声で三回もまくし立てたのだ。
「気をつけて!」「隙間危ない!」「見て!足元!」「だから、気をつけなさい!!」「気をつけて、って言ってるでしょ!!」とか、いろいろな言葉が次々と脳裏に現れた。
でも、実のところ、最後までどうしてもひっかかるのは、この短い命令形の言葉が、ここロンドンで、日常茶飯繰り返されているということである。
肌で感じた“地下鉄の大騒動”を、何とか日本語にしてみたいが、それはなかなか難しい。
おまけに、ロンドン人たちが、あのアナウンスを騒音とも何とも思っていないなら、余計ややこしいことになって……私の頭は堂々巡りを繰り返すばかりである。
せめて、please をつけてくれていたら、これほど悩まないのではありますが。
ところで、地下鉄のホームに降りるには、日本での常識であれば、階段かエスカレーターを使うが、ロンドンでは、しばしばliftである。もちろん日本でも、お年寄りや乳母車などのためにエレベーターが設置されているが、あのように小ぶりのものではない。一度に大勢の乗降客が乗れるような、大きな箱のエレベーターである。
我が家の最寄駅には、この箱が二つあり、それぞれ、適当にお客を乗せては上がったり降りたりしているが、そのエレベーターの中では、
Please clear off the doors please.
という、馬鹿?丁寧なアナウンスがゆっくり繰り返される。
そして、本当に、扉の近くに立っている人がいようものなら、頑固なまでに動かない。はやく降りたい(昇りたい)と思っている私たちの心を知ってか知らずか、「邪魔ですからぁ、扉の前は開けてくださいよ~。お願いでぇす」と箱は懇願し続けるのだ。
一度、なかなか来ないエレベーターを待ち切れずに、歩いた方が早いヮ、と誰もいない螺旋状の階段を降り始めたら、目がまわりそうなほど深くて(おそらく地下6階くらい)、それ以来、おとなしく箱に乗っている。
そんなこんなで、ロンドン暮らしが2カ月目に入った頃のこと。街なかを歩いていたら、お土産物屋さんの店先にTシャツがぶら下がっているのが目に入った。白い丸首シャツの胸に、地下鉄のロゴ。そして大きく書かれたMind the gap! の文字。
世界で最初に地下鉄を通した街だから、「名物」にしたいのは、解らないではないけれど……。
ロンドン観光局がシャツを作っているとも思えないが、これが、英国式ブラックユーモア、かもしれません。

Tシャツの写真を撮ろうと昨日、町をふらふらしてみましたが、畳んで袋に入っているものしか見当たらず。
その代りに、今度は、「マインザギャップ袋」を発見。






























