あけっぴろげな話
前回に続いて、Fitzgerald, "The Rich Boy"から話の種を拾います。ちょっとした難物というべき文ですが、"The smoke banked like fog, and the opening of a door filled the room with blown swirls of ectoplasm."
若い男女がクラブでトランプに興じている場面です。まず ectoplasm という見慣れない単語で引っかかりますね。そんなの知ってるよ、と言う人は少ないでしょう。英和でも英英でも、適当にご覧ください。どっちを引いても、わかったようなわからないような、まだるっこしい感じは残りますが・・・・・・。おそらく、19世紀にできた生物学用語を、20世紀になって心霊術でも使いだしたのでしょう。Fitzgerald の時代には、まだ新語という意識があったかもしれません。いずれにしても一種の比喩表現だと割り切って、あまり厳密な用語として訳さないのが得策だと思います。ごまかすのも芸のうち。いや、翻訳を仕事にしたがため、ごまかしてばかりの人生だ、と心の中でつぶやくことが多いのです。
それよりも今回の話題にしたいのは、the opening of a door です。タバコの煙が立ちこめた部屋に、ドアが開いて空気が流れ込むと、煙が渦巻きのように動く──というような路線で書きたいのですが、「ドアが開く」だけでは物足りないように思います。なぜ"a door" なのか。もし "the door" だったら、日本語にとっては書きやすくなるでしょう。一般に「部屋のドアが開く」という言い方にふさわしいのは、"the door" が開いた場合でしょうね。たぶん部屋のドアは一カ所で、そのドアが開くのです。しかし原文には "a door" と書いてある。まあ、部屋といってもクラブですから、それなりの大きさはあるでしょう。ドアが二カ所以上あってもおかしくない。そのうちの一つが開くはず(という可能性しか私には思いつきません)。また、これは想像にすぎませんが、トランプをしている人物たちは、ドアを見ていないのではないかと思います。まわりで煙が動くのは見えるが、ドアそのものに注目しているわけではない。そんなことを考えて、いまのところ私の原稿では、「まったく濃霧のような煙である。どこかでドアが開くと、煙がくるくると妖しく渦を巻く」となっています。
定冠詞と不定冠詞が「見える/見えない」の差につながることは、よくある経験です。100パーセントの保証はしませんが、かなりの相関関係はあるでしょう。Sue Monk Kidd, The Secret Life of Bees という長篇から、単純な例を二つ。
- ① The door closed.
- ② A door slammed.
①は乗り込んだ車のドアのことを言っています。車ですからドアは二カ所以上ありますが、いま乗って開閉があった「そのドア」だけに意識が行っていますね。②では視点人物からドアが見えていません。音が聞こえただけです。ドアに対する意識(あるいはイメージ)は、それほど明確ではないと思います。特定のドアという意識が働けば、見えていようがいまいがthe doorと感じるでしょう。
では練習。同じ作品から引用します。They disappeared down a hallway. I heard a door close. A car horn on the street. The blast of the window air conditioner that dripped water into a dog bowl on the floor.
文脈を知らないと、どんな文章でも難しいものですが、これだけでは何が見えて何が見えないのかわからないでしょう。つまり場面を「思い浮かべる」ことができませんね。ということは「訳せない」。主人公の少女が友人のザックと、ある弁護士事務所を訪ねた場面でして、ここへ来たのは少女には初めてのことです。
まず a hallway は見えているでしょうが、初めての家の廊下ですから、theをつける意識までは働かない。廊下を行った先のドアは見えないはず。あとは音のするものを列挙しますが、表通り(the street)は屋内からは見えないとしても、いま来た道だから定冠詞つきで考えます。エアコンやフロアは見えている。ボウルも見えますが、これは適当に置いた一個のボウルですね。日本語だったら、いちいち考えなくてもわかるのに、と口惜しくなるようなことを、外国語では考えないわけにいきません。解答例として日本語をご覧に入れましょう。語りの視点は14歳の少女にあります。
「ザックと弁護士が廊下を行って消えた。ドアが閉まったようだ。表通りで車がクラクションを鳴らした。窓のエアコンがやかましい運転音をあげている。たくたく水が垂れるので、フロアに犬用の餌ボウルを置いて受け皿にしてあった。」(スー・モンク・キッド『リリィ、はちみつ色の夏』)




























