キッスは耳にして
4回目です。イメージから訳すと間違いが減るという例を、もう一つご覧に入れましょう。だいぶ以前に授業で使ったテキストから引用します。Irwin Shaw, "The Girls in Their Summer Dresses" という短篇でして、「夏服を着た女たち」という常盤新平氏の訳で知られています。いい男といい女の夫婦がニューヨークの街を行く、という場面で──
Frances leaned over and kissed him on the top of the ear.
あとで種明かしをしますが、とりあえずこのまま読んでください。「耳のてっぺん」という和訳を考えて疑わない人に質問です。おかしくありませんか? 男性が坐っているのならよいのですが、いま街を行く場面だと言ったでしょう? 二人とも立って歩いているのです。イメージとしては無理がありますね。女性が男性の耳にキスするとして、わざわざ耳の上端に目標を置くだろうか・・・・・・。もちろん男女の身長差はカップルごとに千差万別ですから、あり得ないわけではない。しかし、この作品での演出効果としては、いくぶん伸び上がってチュッと口をあてる可愛さが欲しい、と筆者の趣味をまじえて言ってしまいましょう。そのほうが絵になると思います。
さて、じつは上の例文は日本の出版社が出しているリプリントからの引用です。小説やエッセイに注釈をつけた教科書版が、一昔前の大学では、教養課程の英語テキストとして使われたものです。ああいう「英文解釈」は、何かと評判が悪かったもしれませんが、一度はくぐり抜けておかないといけないような、「翻訳」への一里塚だったような気がします。教師にとっても読み方を磨く練習になっていた。英会話と練習問題ばかりで、ほんとうに文章が読めるようになるのか──という懐旧と憤慨はさておき、そろそろ種明かしをいたしますと、ここには誤植があるのです。耳の "top" ではなくて "tip" にキスをしたのでした。
もし猫の耳だったら、どちらでも同じかもしれませんね。でも人間の耳の "tip" なら、上端と下端があるでしょう。どちらかを選ぶとして、当然「耳たぶ」にすればよい。それでも「てっぺん」にこだわる人がいたら、もう私は反対しません。そういうイメージが浮かんだのであれば、その人の答えはそれでよいと思います。もとの英語が "tip" ですから、「上端」でも間違いと断定する根拠はないでしょう。なにしろ演奏記号ですからね。演奏家のセンスによって、読み方が違うこともあります。どちらが聴衆を納得させるか、というだけの問題です。
でも、まあ、やや脱線した話で、また演奏する立場としては、そっと小声で言うのですが、どういう聴衆を相手にするかという問題もありますね。鑑賞能力に疑問のあるお客さんだって少なくないのです。ちょっとわからないと、すぐ翻訳のせいにする。そういう「書評」と称するものがネットには氾濫しています。もちろん、そう言わせないように頑張らなくちゃ、とも思います。翻訳であろうとなかろうと文章の質には関係ない、と世間に認めさせることが、翻訳に関わる人間の共通の目標であるべきです。日本の作家が翻訳文体を利用するのは自由ですが、翻訳家が翻訳調で書いたら洒落になりません。





























