入門翻訳勝ち抜き道場

古典新訳

見る練習──引き出しとタマゴ

小川高義
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前回の続きで、キッチンの話です。例文を再確認しますと──

Shukumar returned to the kitchen and began to open drawers. (Jhumpa Lahiri, Interpreter of Maladies)

もし "a drawer" だったら、そうっと開けたと考えるのが妥当でしょう。一瞬で開けたら "began to" との抱き合わせが難しい。では "the drawer" ならどうか。そうっとには違いないとして、どの引き出しを開けるべきか見当がついていた可能性が高いですね。どこにロウソクがあるのか知っていた、ということ。またキッチンに引き出しが一つしかないのなら、とにかく「その一つ」を開けるしかありません。もし "the drawers" であれば、心当たりのある複数の引き出しを開けたか、さもなくばキッチンの引き出しを全部開けたか。いずれにしても"the"であれば、迷いのない感じがすると思います。さて原文はというと、無冠詞、複数でした。どこにロウソクがあるかわからず、適当に一つずつ開けたのでしょう。ゆっくり開けたのかどうか、これは何とも言えません。人物の性格と照らし合わせて、しかるべく判断するしかないでしょうね。ばたばた動く男だとは(私には)思えません。結局どう書いたかというと──

キッチンへもどって、引き出しをあけていった。(ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』)

これだけ見ると、たいして芸もない「訳し方」ですね。まあ、いいでしょ。もとが普通の英語ですから。ちなみに「開ける/あける」という区別に、私は原則を持っていません。作品によって変えています。漢字をひらがなにすることを編集者は「開く」と言いまして、その逆の「閉める」は聞いたことがありませんが、「開」も「閉」も開くかどうか迷うことの多い字です。

では、キッチンへ行ったついでに、もう一つ。今度は「卵」で練習しましょう。これは無冠詞、単数形(egg)が考えられます。もしイメージが浮かばないというのであれば、実際にキッチンへ行って、卵をボウルに割ってみるとよろしい。ごろんと転がる楕円形の印象がなくなって、"a cup of tea" と同工の "a bowl of egg" になります。

だったら "a bowl of eggs" はどうか。複数形によって個々の輪郭が感じられるとしたら、いくつかの卵をボウルに積み重ねた、というところでしょう。割ったとしても黄身が残っていれば個数の意識も残る(かもしれない)。とはいえ "a bowl of egg whites" も可能です。またラヒリには "she beat together hot milk and eggs over the stove" ("Once in a Lifetime") という例があります。さらに次の例。

She dips each of the croquettes, about the size and shape of a billiard ball, into a bowl of beaten eggs, then coats them on a plate of bread crumbs, shaking off the excess in her cupped palms. (Jhumpa Lahiri, The Namesake)

イメージ訓練に手頃だと思って、そっくり引用しましたが、とくに卵を見てください。割って溶いて液状であるのは明らかなのに、複数形を保持しています。文法では卵を割りきれないようですね。スクランブルエッグでも同じこと。たとえば、私の商売物ではありませんが、Raymond Carver が "Tiny had scrambled eggs on his plate" と書いています ("Where I'm Calling From")。何にせよ「皿の上で卵をスクランブルしたのだった」とは読まないように、くれぐれもよろしく。