過去の話 Ⅱ
ずっと現代語の作品ばかりを訳していまして、去年、初めて「古典」と言えるようなものに手をつけました。「黒猫」そのほかの数篇で、エドガー・アラン・ポーの短篇集にしたのですが、考えてみると不思議なもので、ポーと同時代の日本語の文書を、私はどれだけ読めるだろうと思うのです。いまはフィッツジェラルドに取り組んでいますが、英語を母語としない私にとって、両者の難易度に大きな違いはありません(どっちも難しいと言っています)。でも日本語だったらどうなのか。大雑把な目安として、滝沢馬琴と芥川龍之介ほどの年代差があるでしょう。近代の日本語がどれだけ急速に変わったかと思わずにはいられません。
とは言いながら、ポーにくらべれば、時代背景は当然として、言葉遣いの上でも、何となくフィッツジェラルドのほうが新しい感じがすることは確かです。そこまで訳し分けようとは考えてもいませんが、100年近い時間経過があれば、少なくとも単語レベルでは翻訳に影響するほどの変化が出ています。古い辞書を引く必要があるでしょう。バロック音楽を古い楽器で弾くのと似ているかもしれません。それぞれの時代にあった意味の解釈を考えることもあるのです。たとえば——
The other face was gross, humorous, reckless of everything but pleasure. ("The Rich Boy")
アンソンという金持ちの主人公を、その恋人ポーラから見ると、じつに立派だと思えるときがあれば、まったく別の顔をするときもある、という文脈です。ここで humorous とは何でしょうか。現代英語の意味では通じませんね。やや大きめの辞書であれば、古語として given to moods or whims のような説明が出ています(これは American Heritage Dictionary から)。この短篇が発表されたのは1926年です。うまい具合に1913年のウェブスター辞書がネット上で公開されています。また、いわゆる「ウェブスター第二版」という1934年の大物があります。この「第二版」は古書として手に入れるしかありません。私が持っているのは、かなり「新しい」時代に印刷されていて、もとの持ち主が "To Edna from Father. Christmas 1954." と書き入れています。どんな親子だったやら。このプレゼントが日本へ行って翻訳の道具になる運命だとは、夢にも思わなかったでしょうが——。
ともかく、こうして作品をはさんだ年代の辞書が引けるのですから、おおいに重宝いたします。どちらの辞書にも、humorous に対して capricious, whimsical などの意味が保存されています。フィッツジェラルドの時代には、まだ古語になっていなかったと考えることにしましょう。ついでに言えば、上例の "reckless" も、いくらか現代の語感とは違うように思いますが、これまた「第二版」を見れば安心できます。
ポーを訳したときには、mere という単語が気になりました。現在では「〜でしかない」という否定的な使い方をしますが、古くは「〜にほかならない」という強い意味がありまして、ポーの文章には残存しています。それを無視して強引に訳した例も、過去にはあるようです。1911年のブリタニカ百科(これもネットで引けます)が、新旧の意味について議論をしているので、そのあたりの時代が境目かもしれません。1913のウェブスターでは共存状態です。1934では一方に obs(廃語)の注記が出ます。フィッツジェラルドではどうかと言うと、いまのところ現代寄りの意味で使っているように判断していますが、これから仕事を進めていくうちには、迷うことがあるかもしれません。前述の作品には "merely hilarious" という表現があって、これはアンソンが酔っぱらって到着したときの形容なのですが、「ただ単に」hilarious なだけで、それ以上ではない、と受け取るべき文脈ながら、「まさしく」酔って騒がしかったという感覚も、何パーセントかは入っているような気がします。
こんなことは、たまたま気がついた場合はよいのですが、うっかり見逃して適当に解釈してしまう恐れは、常にあるでしょう。でも、そういう見落としなら、まだ高級な部類でして、私などは文字通り「見落とす」ことがあります。視力のせいか気力のせいか、フレーズなりセンテンスなりを見落として、ゲラに「ヌケあり?」と書かれることが、それほどめずらしくないのです。だいぶ昔ですが、パラグラフを1つ抜かしたこともあります。あ、いえ、つい最近、1ページ抜かしていて、校正係に摘発されました。それでも意味が通っていたのですから、けしからんのは作者か訳者か。
では、最後に一言(ないし二言)。翻訳の話というと、どうしても細かいところに気をつける注意事項ばかりになりがちですが、それに劣らず(いや、それ以上に)大事なのが、先へ先へと読ませる推進力です。これについては、個人のセンス、リズム感の問題であり、また一つや二つの例文を挙げても仕方ないことなので、なかなか議題にはなりません。いい音楽でも聴いて鍛えるしかないでしょう。もちろん、定評のあるベテラン作家の文章を参考にしてもよいのですが、翻訳は原文との兼ね合いがありますから、もし特定の作家だけに影響されるとしたら、かえって害があるでしょうか。とにかく最初のうちはテンポが落ちないように気をつけるべきだと思います。一語ずつ訳したがるのは素人の悪い癖だと言ってかまいません。エッセンスを抽出するくらいの心がけでよろしい。また、ワープロの横書きに慣れている人は、ためしに縦書き表示に切り替えてみたらいかがでしょう。最近は大きな液晶モニターが一般化したので、縦書きにも無理がなくなりました。私は縦のほうが書きやすいと思います。
さて、これで二度目の連載を終えます。あー、またやっちゃった、という感じです。あまり理屈をこねるのはよそうと思っているのですが、つい書いてしまいました。実際の仕事中は、たいしたことを考えていません。「てにをは」で悩んだり、文末の処理で迷ったり、というような次元で手間どっています。いくつもの「訳し方」を発明している余裕なんてありません。原文から思い描いたことを、どうにか日本語でひねり出す、絞り出す、ということで、せいぜい一つしか出ないと思います。だからこそ「直訳・意訳」という発想法に不信感があるのですが。



















