過去の話
原作を大事にするのは当然の態度だとしても、では原作が不可侵の聖典かというと、そんなこともないのです。なにしろ翻訳するのですから、多かれ少なかれ原作を動かしています。芸術作品について、その素材を変更しようとすれば、もはや原作の完全なコピーではありません。どこかに改変なり補作なりの作業が入らざるを得ない。もし完全に「忠実」であることを要求する原作者がいたら(いないことを望みますが)、いかなる翻訳家も、その人に関する仕事を引き受けられないでしょう。原作に「誠実に」対処することはできます。しかし「忠実に」訳すことはできない。くどいようですが、素材を変えて作り直そうとするのです。銅像を木像に、管弦楽を室内楽に変えるのと同じように、もとのままであるはずがありません。
これは原作を「まだ動くもの」として扱うことでもあります。つまり「生物」ですね(「せいぶつ」と読みました? どっちかというと「いきもの」か「なまもの」に願います)。たとえ古典として過去のかなたにある作品でも、死火山のように不活性なわけではない。いまだ活火山であるとして扱えるなら、そのほうが原作者にも喜んでもらえるのではないでしょうか。
とはいえ、本日もまた、高尚な文学論を意図してはおりません。あいかわらず現実的・技術的な悩みごとの話です。新刊の長篇となるジョン・アーヴィング『また会う日まで』(Until I Find You)のゲラを見ていたら、ちょっとしたミスが出てきました。ある人物がかぶっている帽子に「アナハイム・エンジェルス」として野球チームのロゴが入っています。この場面は1988年であることが特定されますが、エンジェルスは何度か名称が変わっていて、1988年にはカリフォルニア・エンジェルスを名乗っていたはず。おそらく作者は執筆時点での名称をそのまま使ったのだろうと思われます。登場人物に未来の帽子をかぶせてしまいました。
もう一件。ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』(The Namesake) が、映画化を機に文庫で再発売されることになったので、あらためて文庫用のゲラを見ていたら、1968年の新聞記事に疑問が出ました。民主党大会の期間中にシカゴで暴動が発生したというニュースが載っているのですが、物語の時点は1968年8月。しかも偶然見つけた1カ月前の古新聞を読んでいるという設定です。暴動があったのは、この年の8月末のこと。タイミングとしてあり得ない話ですね。
どちらもゲラの段階で発見したということで、ご同業の方はお察しかもしれませんが、見つけたのは校正の担当者です。上の二冊とも新潮社から出ます。私は校正の人を直接には存じませんけれども、心の中では敬称のつもりで「慎重者(シンチョウシャ)」と呼んでいます。もちろん翻訳の時点で気がつけば、初めから修正して書いてしまいます。どんな作品でも、似たようなミスの可能性はありますし、文脈として修正しきれないこともあります。小説の文章として自然に読めるなら、あまり過敏にならなくてもよいだろうと思いますが、一冊の本を世に送り出すためには、できるかぎり直しておきたいのも確かです。
さて、もし原作にミスがあるのなら、そのまま訳しておいて、もともと書いてあるとおりではないか、と開き直ることも、良心を押し殺せば、できないわけではない。ほんとうに恐ろしいのは、翻訳者が時代錯誤のミスを犯す危険です。いや、毎日が綱渡りだと言ってよいでしょう。過去の事実関係に何もやましいことがないという、そんな過去のあやまちのない訳者――そこまで潔白な人なんて、いるはずがないと思います。
何を言っているかの説明として一例を挙げれば、"post-bellum" という言葉は、「南北戦争後」の意味で使うのが通例ですが、フィッツジェラルドは「第一次大戦後」として使っています。では、そのように訳せばよいかというと、もちろん無理に決まっていますね。「第二次」が起こっていない時代に、「第一次」と言えるわけがない。古代の人々に「紀元前」と言わせるような錯誤です。日本の小説でも似たような現象はありまして、ある時代小説で奉行所の同心が「社会」のために働いていましたが、いかにも興醒めです。「世間」と言えばすむことで、わざわざ明治以降の言葉を使わなくたってよさそうなものを。


















