もう一つ見下ろす話
翻訳であろうとなかろうと、小説だったらおもしろいほうがよいに決まっています。もちろん何がおもしろいかという基準は人それぞれでしょうが、たとえ少数の読者であれ、誰かを楽しませる商品づくりを考えなければ、職業としては成り立たない――というようなことは、いまなら自信をもって言えますが、たぶん20年くらい前には、おおっぴらに言えなかったろうと思います。
大学の教師たる者は、論文を書くのが本務であって、翻訳は一段低い仕事である、と見下ろしたような考え方が(いまも皆無とは言えないでしょうが)かなり強かったのです。実際、「翻訳ばかりやっていてもしょうがない」と言われたこともあります。ところが、だいぶ風向きが変わりまして、これは社会に開かれた実践的な分野である、というような昨今はやりの理屈によって、へんに持ち上げられたりもする今日この頃であります。
まあ、それはともかく、おもしろくするためにはどうするかと言うと、まず訳者自身が物語にのめり込まないといけない、登場人物といっしょになって泣いたり笑ったりするくらいでよい――というのは話の半面でありまして、一方でクールに上から見下ろす操縦士にもならなければいけません。「熱い私」と「冷めた私」に、うまいこと分裂させておきます。一本気な人には向かない商売かもしれません。
さて、きょうは話の枕が長くなりましたが、いよいよ本題。ある種のセンテンスは、上から見下ろすとわかりやすい、という読み方のコツについてです。文章は絵画ではありませんから、本来なら一気に全体を見ることはできません。その点では音楽や映画と同じでして、ある文を読むとしたら、最初から最後まで順序どおりに見ていくことになります。また、むやみに順序を変えたら、意味をつかみそこなうかもしれません。いわゆる「訳し上げる」ような読み方は、その典型でしょう。ただ、いったん読んでしまえば、そのあとの訳す段階では(たしかに順序を変えずにすめば、それに越したことはないのですが)あえて動かすこともあって当然です。とくに主語をどうにか処理しなければならないタイプの文では、そういうことになりやすい。Fitzgerald, "The Sensible Thing" から例を挙げますと──
Another subject seemed exhausted─the interview was not taking the course he had intended.
学校の先生をしている方々には賛同してもらえると思いますが、こういうところで学生のセンスがわかります。「もう一つの話題は尽きたらしい」と訳す人は、そこまでの理解しかしていないのでしょう。もう一つ突っ込みが足りませんね。これは日本語が下手だというよりは、もともと読み方が下手だったと考えるべきです。もう一つ憎まれ口をたたきますと、そのように訳す人は、「意味はわかるんですが、訳し方がわかりません」式のセリフを言いたがることが多い。じつは意味がわかっていないのだと気づいてくれなければ困ります。せめて「もう一つの話題は」を「~話題が」に直せば、だいぶ良くなりますが、「訳し方がわからない病」は日本語の添削で根治するような軽症ではありません。その人の体質です。
Another から exhausted までを見下ろすと、要素は3つありますね。でも1つずつ訳語をあてるのではなくて、大きくながめてから、どうにか再構成します。その際、不定冠詞(another も含めて)には「存在」を示す力があると感じるとよいでしょう。つまり第1要素 (another subject) については、「subject がもう一つあって、それがね」と言われたように受け取ります。ある話題を持ち出して、うまくいかなかったから、もう一つ持ち出したのだけれど、そっちも駄目だったから、結果として another subject が exhausted になっている。そういう方針で作文しましょう。いまのところ私の原稿では、「この話も続かないようだ。せっかく会いに来て、こんなはずではなかった」
ある語学参考書に、A great number of human disorders involve aberrant signs in cell という例文があって、その解説に「非常に多くの心身疾患は、細胞における異常な状況を示す」と書いてありましたが、はっきり言いまして、これで原稿料がとれるほど翻訳業は楽ではないでしょう。人間の病気は細胞を見ればわかる、という話が通じないといけません。そういう場合が多いんだよ、ということですね。
では類題。"Well, another couple is about to get married in that gazebo. I see bridesmaids." (Jhumpa Lahiri, Unaccustomed Earth) これもまず「もう一組」の存在を考えて、あとの要素と組み合わせることにすれば、だいぶ訳しやすくなります。定石としては、主語を「述語化」するでしょうか。「式を挙げるカップルが、もう一組いる」とでも。同様に "A lot of women do things that are out of character on their wedding day" でお試しあれ。いまのところ私の原稿は・・・・・・ありません。そもそも原書が未刊です。近いうちに出るでしょう。じつはゲラが回ってきて読んだだけなのです。それもご時世というべきで、PDF 文書が飛んできたのですから、もはやゲラという言葉が妥当なのかわかりません。


















