入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

出版翻訳におけるツールの活用
井口耕二
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私は、作業効率を高めてくれるツールが大好きです。手間を省くためなら手間を惜しまないタイプの人間なので、他人が作ったツールを使うだけでなく、欲しいツールがなければ自分で作りウェブに公開しているほどです。そんなわけで、「出版翻訳のときも産業翻訳と同じツールを使って訳すのか」と聞かれることがけっこうあります。

一言で答えるなら「はい」です。

ただし、世の中に出回っている翻訳関連ツールがどれでも使えるわけではありません。文脈を重視して自然な日本語に訳そうと思ったとき、足をひっぱられてしまうツールもあります。私の場合、足をひっぱりにくいツールしか産業翻訳でも使っていないと言ったほうがいいのかもしれません。

◆私が使っているツール

私は以下のようなツールを使っています。使用しているツールは、シェアウェアやフリーウェアなど、ウェブで手に入るものばかりです。自作ツールもたくさんありますが、そちらもすべて、ウェブに公開してあります。

なお、ツールを使う前提として、原文をテキストファイルに落としてから作業を開始します。PDFがもらえればテキストを書き出して使いますし、完本しかないときはスキャンしてOCRソフトにかけ、テキスト化します。

●辞書引き支援ツール

単語にカーソルを合わせて起動するだけで複数の辞書を検索してくれるツールです。コピー&ペーストよりも簡単ですばやく調べられます。まして、辞書に単語を入力するよりも手間がずっと少なくなります。また、思いこみによる打ち間違いといううっかりミスがなくなります。

●入力支援ツール

カッコの挿入やカーソルの移動、コピー&ペースト、原文ファイルと訳文ファイルの移動などを簡単に行えるツールです。ある操作に必要なキーをたたく回数を数回から1〜2回へと減らしてくれます。1回、1回の省力化はごく小さなものですが、塵も積もれば山となります。

●grepツール

複数ファイルを検索するツール。私の場合、書籍だと章ごとにファイルを分けているので、他の章まで一度に検索・置換するときなどに便利です。産業翻訳では、同じクライアントの過去の仕事を検索するのに使ったりします。

ここまでのツールは、メリットのみでデメリットがないと言ってもいいツールです(紙の辞書にもいい点があるので、デメリットがないとは言いきれないところもありますが……)。それに対し、次のツールは、使い方次第で毒になる可能性もあります。

●用語置換ツール

訳語を固定する用語について、用語集を作成しつつ、ファイルを置換するツール です(秀丸エディタで使う自作ツールで、ウェブ上に公開しています)。用語集 ができるので、後ろの章に入るときには、別のツールを用い(SimplyTermsとい う自作ツールでウェブ上に公開しています)そこまでの用語で一括置換をかけて しまいます。

この方法は、前回もちょっと触れたように、どこまでの訳語を固定するのかさえきちんと調整してやれば出版系でも問題なく使えます。固定できる用語は、産業系でも柔らかい文章になるほど少なくなりますし、出版翻訳はその一歩先でさらに少なくなる傾向がありますが、なくなることはありません。また、固定する用語だけが置換された英語・日本語混じり文となり、少し慣れれば英語の論理のまま読むことが可能なため、原文解釈や訳文の作成でじゃまになることもありません。

ただし、どの用語の訳を固定するのか、その判断を間違うと、最悪、誤訳も含めてツールに足を引っぱられるおそれがあります。コツは、判断に迷ったら訳語を固定しない、です。

◆出版翻訳に向かないツール

「訳者がきちんと訳文を作りさえすれば、どのようなツールでも使える」という意見もありますし、それはそれで間違いではありません。どんなにじゃまでも、使えないことにはなりませんからね。

しかし、文脈重視の自然な日本語を作ろうと思うときじゃまになるツールは、出版翻訳に向かないツールだと言えるでしょう。「出版翻訳に向かないツール=産業翻訳に向かないツール」だと私は思いますが、産業系では業界的な流れで使わざるをえないツールもあるので、そこはそれといったところです。

●翻訳メモリ

翻訳メモリ(TM: Translation Memory)と言われるツールがローカライズを中心として産業翻訳に普及していますが、ふたつの点から出版向き(文脈重視向き)ではないと思います。

根本的な問題として、前後の文脈を切り捨てることを代償に高い翻訳効率と複数訳者による大規模翻訳を実現するのが翻訳メモリの基本的考え方だという点があります。つまり、「原文が同じなら訳文も同じになるはず」というわけです。これに対し、文脈重視の翻訳では、「原文が同じでも文脈によってベストな訳文は大きく変化する」と考える、あるいはもっと積極的に「他の文脈で不適切となる訳文ほど目の前の文脈に適した訳文である」と考えます。この問題は、文単位のリサイクルをしない、つまり翻訳メモリ最大のメリットを捨てることを基本方針とすれば克服できるとも言えます。ただし、後述の機械翻訳ソフトと同じで、自分が過去に訳した文を読んでしまうのでそちらに引きずられ、目の前の文脈に最適な訳を考えにくくなるおそれは残ります。

なお、「翻訳メモリ最大のメリットを捨て」てしまうと、残るのは、用語管理機能くらいになってしまいます。私の場合は、この部分を用語置換ツールで処理しているわけです。

もうひとつの問題は、翻訳対象の文が1文ずつ提示される形の作業環境であることが多く、文脈が見づらいことです。こちらは、プリントアウトを読みながら作業をすれば克服できますが、作業画面とプリントアウトを行ったり来たりするのは意外にやりにくく、疲れるものです。

●機械翻訳

産業翻訳では、ときどき、機械翻訳(いわゆる翻訳ソフト)をツールとして使うという人がいますが、これは論外です。

機械翻訳を使うときの最大のマイナスは、前後の文脈を無視した訳文を読んでしまうこと。前後の文脈がしっかりした英語から文脈のある日本語を作るだけでも一苦労でうまくできないことがあるのです。その上、文脈無視の(かつ、壊れていることの多い)日本語まで読んで使おうとして、文脈重視の訳文など、できるはずがありません。いや、「できない」というのは不正確ですね。どんなにじゃまでも、使えないことにはなりませんから。ただ、要らないおもりをつけて作業をしても、何もいいことはないと思うだけです。

作業環境も文脈重視に向きません。翻訳ソフトでは対訳エディタというものを使うのが一般的ですが、これは、1文ずつ、原文と訳文が並べられた形をしています。文単位にぶつ切りされて提示される上、どこからどこまでが段落なのかという大事な情報が切り捨てられてしまいます。この欠点は、翻訳メモリと同じようにプリントアウトを読みながら作業すれば克服できないことはありませんが、やはり、視点の移動が増えてしまうという問題があります。

翻訳ソフトを利用する人が挙げる理由のひとつが「用語の管理に便利だ」という点ですが、これは、別の方法でも実現できます。いずれにせよ、用語の訳というのは翻訳という作業の入口近辺でしかありません。そのあたりをクリアしたあとに、原文の文脈を把握し、訳文においてその文脈を再現するという翻訳の本質となる部分があります。その本質部分にマイナスとなるツールは、たとえ入口付近が便利でも使うべきではないと考えます。