入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

「光はどこからきたか?」

秋林哲也
[ profile ]

『カラマーゾフの兄弟』に深入りすると、ぬけだすことができなくなってしまうので、ドミートリーでもイワンでもアリョーシャでもない、異端の弟スメルジャコフについてちょっと触れてみたいと思います。

父カラマーゾフが「神がかり」の乞食女に生ませた私生児となっていますが、この女の名がリザヴェータ・スメルジャーシチャヤというあだ名です。スメルジェーチという動詞は「悪臭を放つ、嫌なにおいがする」という意味で、merdaというラテン語、merdeというフランス語、mierdaというスペイン語には「糞」と記されています。米川訳では「スメルヂャーシチャヤ(悪臭女)」となっています。

この女が生んだ子どもというので、父カラマーゾフが「スメルジャコフ」という名前をつけました。最初から差別された、不快な人間として生みだされたわけで、この長編物語の中でその名に相応しい動きをする登場人物なのですが、私の好きな小さな場面があります。

I.グラズノフが描く下男スメルジャコフ像

下男のグリゴーリー夫妻が、死んだリザヴェータに代ってスメルジャコフを育てます。12歳になったとき、すこしは教育をしてやらなければ、とグリゴーリーは少年に聖書の話を教えはじめます。スメルジャコフはそれを聞きながらニヤリと笑います。

「その笑いはなんだ?」とグリゴーリー。
「なんでもないんです。神様が世界をお造りになったのは最初の一日目ですよね。で、太陽とか、お月さまとか、お星さまは四日目でしょう。だったら世界って、最初の一日目はどうやって光ってたんだろうって?」(亀山訳)

少年は馬鹿にしたような顔をしているので、グリゴーリーは「こうしてだ!」と叫んで少年の頬をひっぱたいたのです。こういうエピソードなのですが、素朴な下男グリゴーリーと、子どもの頃から世界をひねくれた目で見ている差別された少年の姿が、じつに面白く描かれている場面です。

旧約の「創世記」の第1ページには、「まず神が、『光あれよ』と言われると光が出来た」「最初の一日目である」(岩波文庫)とあるのですが、陽や月や星ができるのは第四日目ですから、スメルジャコフの指摘は理に適っています。グリゴーリーには答えられません。いや、誰にも答えようがありません。

そうした発想をしたドストエフスキーは、やはり大したものだと思いました。『カラマーゾフ』を読んでもわかるように、ロシア正教会が世俗的にも大きな権威をもっていた時代のさなかです。民衆がイコンの前でいつも十字を切っている、そのような時に、作家というものは聖書をこのように見ることも可能なのだ、ということを考えました。

『カラマーゾフ』の中の、この小さなエピソードを読むたび、私はドストエフスキーという作家の大きさや深さとともに、権威に向けて「自分の眼」を対置する作家の姿勢について思いをいたすのです。