
さて、人々は「バベルの塔」から全地へと散らされ、それぞれの地でそれぞれの言葉を話すようになりました。
世界にはどれだけの言語・言葉があるのでしょうか。一定の数を挙げるにしても、今のところとか現在、という前提が要るでしょう。滅びてしまったもの、消されてしまったものも多くあるはずだし、まだ誰も知らないものもあるはずです。
この間、新聞で見たのですが、ブラジルのアマゾンに住むある部族がとつぜん姿を現した、ということでした。彼らは「文明との接触を選んだカイアポ族と別れ、森に消えた」人たちなのだそうです。カイアポ族も聞いたことのない歌をうたい、また森の奥に消えていった——というのですが、この人たちがどんな言葉を話しているかは、誰もわからないのではないでしょうか。少くとも、まだ他の言葉に訳されたことはないと思います。
見知らぬ人間・人種と遭遇したとき、人はまずその相手の姿・形を自分と比較して区別、または差別し、それから相手の発する音・言葉によって区別・差別するのが普通でしょう。「異形の者」とか「異様な声を発する」という言い方があります。はじめに目と耳を働かせるわけです。
アマゾンやヒマラヤにまで行かなくても、もっと身近かにもあった例ですが、私たちは子どもの頃、近所に住んでいる朝鮮や中国の人たちを、濁音の発音ができないといって差別しました。その私たちはまた「ずうずう弁」だといって「東京弁」を話す人たちから奇異の目で見られました。
アメリカ文学に登場する黒人は、しばしば「ずうずう弁」や「田舎弁」に翻訳され、問題にされました。白人は標準語なのに黒人はいつも「旦那様、勘弁してくだせえ」といった口調なのです。これはそもそも原文にそのような言葉の使い分けがあったからでしょうか。
ずうずう弁について言えば、北方の言葉は寒いためにあまり口を開けない、そのため語尾にアクセントをおいたり、濁音が多くなったりする、という説を聞いたことがあります。「どさ」「ゆさ」——という方言がよく引用されて有名ですが、これは秋田や青森の方で交される日常語でした。たった四文字で無愛想に見えますが、これには特有のアクセントがあって、それによってさまざまのニュアンスが表現されるのです。
「どこへ行くの?」「お風呂へ」にもなるし、「どこへ行くんだ?」「風呂だよ」、「どこだ?」「風呂!」などとも翻訳してよいでしょう。日常語でした、というのは今の若い人たちはこうした方言から離れているようです。
近所の子どもが学校から帰ってきて、「ままー!」と言って家に入っていった。「飯だよ!」と言っているのかと思ったら、「お母さん!」と言っているのだった——と高橋竹山が舞台の上で嘆いていました。もうかなり前のことです。





























