入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

産業翻訳者が出版を手がけるようになった訳  その2
井口耕二
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産業翻訳と出版翻訳の違い

私は自分が産業翻訳者であり、つきあいも産業翻訳関係の人たちが中心であるためか、訳書が出たあと、次のようなことをわりとよく聞かれるようになりました。

「産業翻訳と出版翻訳、両方やるといろいろと違って大変でしょう」
「産業翻訳と出版翻訳って、どういうふうに違います?」

実は、この記事の執筆を依頼されたとき、サン・フレアの方からも似たような質問をいただきました。

正直なところ、返答に困ります。私としては、産業翻訳と出版翻訳に違いはないと考えているからです。

想定した対象読者に対し、著者が伝えたいと思ったことが伝わるように訳文を組みたてる。読者にいらぬ負担をかけずに理解してもらえるように訳文を組みたてる。この方針に産業翻訳も出版翻訳もありません。少なくとも、私がやるようなノンフィクション系の出版翻訳にはありませんし、文芸物でも同じなのではないかと思います(昔、『さゆり』を題材とした小川高義さんの講演を聴き、「文芸翻訳も、考え方ややってることは同じじゃないか」とびっくりしたことがあります)。

もっと細かな部分を見ても、固定すべき訳語は固定し、柔軟に訳し分けるべき単語は柔軟に訳し分ける。原文の構造とか形とか言われるものとは、必要に応じて大きく離れたり寄り添ってみたり、全体としてはつかず離れず、微妙な距離となるようにバランスをとる。これも、産業翻訳と出版翻訳、両方にあてはまることです。

違いは、どこまでの訳語を固定するのか、文章をどこまで硬く、あるいは柔らかくするのか、くらいでしょう。でもその程度の違いは、産業翻訳というくくりの中でも、分野や文書の種類・目的、想定読者によって発生します。論文とマーケティング資料ではまったく違ってきますし、同じマーケティング資料でもその分野に詳しい担当者が読む法人向けと一般消費者向けではけっこうな違いがあります。結局、「想定読者に応じた訳文にする」という意味では違いがありません。

書籍では、価値観や感情を含む単語や表現が多いとは言えるでしょう。これに対し産業系の論文などは、価値観や感情を極力排したものとなります。でも、マーケティング資料やウェブサイトの製品紹介などは、「こんなにいいものなんですよ(だから買ってください)」という価値観にあふれた文章がたくさん出てきます。それを日本人にとってイヤミにならないレベルに調整しつつ訳すのも産業翻訳です。マニュアルでさえも、「前のバージョンよりこんなに使いやすく(あるいは便利に)なったよ」という価値観がしみ出すような文もあります。その価値観をどこまで訳出するのか、あるいはしないのか、そういうことを考えつつ訳文を作っていれば、その姿勢のまま書籍に横滑りすることができるはずです。

書籍の翻訳をするとき、私が新しく覚えたり確認したりしたことと言えば……漢数字や全角英数字の使い方くらいでしょうか。横書きが普通の産業系では半角英数字が基本ですが、縦書きが一般的な出版では半角英数字を使わず、漢数字や全角英数字を使うことが多いからです。でも産業翻訳の仕事においても、産業系とひとくくりにできないほどさまざまなスタイルに遭遇します。英数字は半角と指定されることが多いのですが、1桁の数字は全角、2桁以上は半角というクライアントもありますし、ほかに、カタカナの音引きとか中黒の使用とかについてさまざまな指定があったりします。つまり、書籍だからと確認したことも、新しいクライアントの仕事をするときの確認事項と特に違いはないわけです。

産業翻訳というものは、ソースクライアントごと、あるいは案件ごとに微妙に違っています。出版翻訳もひとつの案件であり、翻訳という基本は同じだけれど、他の案件とは微妙に違っている……私はそう考えているわけです。

「それは文芸も同じなのか? あんた、文芸翻訳もできるのか?」と聞かれたら、前者には「たぶん同じでしょう」、後者には「できません」とお答えすることになります。同じだと言いつつできないのは、矛盾でも何でもありません。産業翻訳だって、自分が理解できない分野、基礎知識さえ知らず、使われる語彙や表現を知らない分野の仕事はできませんからね。