

ブブノワさんが36年という年月を経てソ連に帰られたのは、1958年7月21日のことでした。そして、私が最後に富士見町の洋館を訪ねたのは、7月8日(火)の午後、出発の2週間ほど前のことです。よいお天気の日でした。
出発前の慌しく忙しい時に、よくお会いできたものです。こんな細かい日付を記せるのは、1958年の日記を本箱の奥から発見したからです。
ブブノワさんが近々帰国されるということを聞いて、お別れの言葉をのべるために訪ねたのですが、お土産に日本の人形を持参したのでした。「秋田おばこ人形」というもので、高さ30センチほど、絣の着物に縞のもんぺ、背負子を背に野良で働く秋田おばこの人形です。じつは、この人形は私の母が造ったもので、内職の手仕事に始めたのが成功して内職以上になったものです。
私も高校時代に、兄弟たちとその製作を手伝い、人形の持つ草刈鎌や鍬のミニチュアを造ったものでした。そんな思いもあって記念にさしあげたかったのです。ブブノワさんは美術家の眼でそれを見たことでしょう。思いのほか喜びました。働く人の姿がよくとらえられている、すてきな人形です、となん度もハラショウ!をくり返しました。「クレスティヤーノチカ」という言葉も書いてくださっています。農婦=クレスティヤーンカの指小・愛称語尾ですから、「野良娘」とでも訳すといいか、と思って国語辞典で確認したら「野良息子=道楽息子」とあるので駄目とわかりました。
ソ連に帰ったらグルジア共和国のスフミという所に住む、ということでした。そこは黒海に面していて、「プーシキンがこの海を詠んでいます」。
それに関連して話がはずみ、詩人のアレクサンドル・ブロークやアンナ・アフマートワ(この詩人の肖像を描いている)のことも話しました。が、ブブノワさんは「詩の翻訳は不可能です」と言っていました。私は調子にのって、マヤコフスキーの「海と灯台のノート」という詩を暗唱しほめられましたが、「マヤコフスキーの詩は大きな声で読むといいのですよ」とも言われました。きっと頼りない声だったからでしょう。たしかにマヤコフスキーの詩は大きな声にふさわしい韻と語形でできています。
そのあと彼女は、2枚の絵を持出してきました。自分で制作したリトグラフとエッチングで、どちらも大きな樹と人物の組合せです。記念に1枚あげましょう、どちらがいいですか?というのですが、私は両方ともそれぞれに魅力があり、決めかねてなん度も見比べていました。ブブノワさんは私の顔を見て笑いながら、「それなら2枚ともあげます」と言われました。私はぐずぐずしていたことで得をしたことになるわけです。
2枚の絵はずっと箱の中で眠っていましたが、今回なん10年ぶりかで陽の光に当たりました。樹が喜んでいるようです。




























