ワルワーラ・ブブノワさん—といっても、知っている人は少ないことでしょう。ヴァイオリニスト・小野アンナさんのお姉さん、と言えばすこしは手がかりになるか。アンナさんは厳本真理から前橋汀子にいたるヴァイオリニストを育てた人。
お姉さんのワルワーラさんは、ペテルブルクの美術アカデミーを出てカンディンスキーらと親しかった人だが、ロシア革命後にアンナを訪ねて来日し、そのまま36年も日本に留ることになった。その間、ロシア・アヴァンギャルド芸術を日本に伝え、自身リトグラフの制作をし、また特にロシア文学の翻訳に力を貸した人でした。米川正夫などという人がその恩恵を受けた一人です。
こんな歴史的な人と、どうして私などがつき合えたか、今から思うと不思議なほどですが、私にとっては遠くにキラキラ光っている星のような時間です。
日ソ学院という、ロシア語を学ぶ学校があって、学生の頃、私は週3回も夜そこに通っていました。ワルワーラ・ブブノワさんは上級クラスを教えていたと思います。また早稲田大学とも関係がありましたが、たぶん大学院だけだったでしょう。
私は上級でも大学院でもなかったのですが、当時代々木にあった日ソ学院で顔なじみとなり、大学でもよくお会いしました。その頃都電15番が高田馬場から早稲田経由で日本橋まで行くコースで、早稲田から私たちは一緒に乗って、彼女は飯田橋近くで降り私は九段下で降りる、ということが幸いしたのです。
ブブノワさん(と呼ばれていた)は千代田区富士見町にお住まいで、そこには大きな洋館があって小野アンナさんがヴァイオリンを教えている所でもありました。なん度か訪ねましたがヴァイオリンの音は私の記憶にありません。が、ブブノワさんの部屋は1階で、入ると大きなプーシキンの肖像画がかかっていました。彼女の母方の家系は、プーシキン家ともつき合いがあったそうです。
今から50年も前の東京で、田舎から出てきたばかりの私にとって、その洋館やロシア紅茶、プーシキンの油絵がどんなにか強い「異邦の薫り」であったことか。
都電の中や彼女の部屋などで、それなりに言葉を交わし会話をしたわけですが、ブブノワさんは日本語はついぞ話しませんでした。ヒアリングが苦手な私に対して、じつに辛抱強く、緑色の目でじっと私の顔を見つめながら、ゆっくりとロシア語で言い替え言い替えしてなんとか私に理解させ、また話を続ける、という「対話」でした。ずいぶん面倒な回り道をするわけですが、途中で止めてしまうということはなかったような気がします。
それを考えると、異なった言語同士にも、共通するもの、通底する回廊があって、「バベルの塔」はそうした関係の中にきっと実在するのではないか、と思うのです。
「でもブブノワさんは結構日本語は話したんだよ」、後年、人からそう知らされましたが—。





























