入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

歴史的なことども――よく耳にする言葉だ。とりわけ、クーベリックが亡命先の英国から祖国に戻ってチェコフィルの指揮棒をとり、スメタナで新体制の幕開けを祝う一九九〇年の「プラハの春」は、人々も街も空も森もモルダウも、何もかもが沸き立っていた。歴史だった。スメタナホールにはハベル大統領がいた。きっと、チャスラフスカもいただろう。この国の人々に、この国のものでない自分が加わっているのが場違いであり恥ずかしくも思えた。帰りの空港に向かう途中、タクシーの運転手がひとつの建物を指差し「やッ、見てくれ!ここが共産党の本部だ。今は、なにかの研究所になっているが……La commedia é finite!(喜劇は終わりぬ)」と叫んで声高に笑った。『道化師』の最後の一節がまだ耳にある。二〇一〇年五月、どうしても「沖縄」を、そして「歴史」を考えたくなった。

藤岡記

 
ワトソン君!!……
藤岡啓介
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あのことを、いかに偉大な天才的な業績であると称えられても、ワトソン君、ま、率直にいわせてもらえば、その賞讃は当然であるとさえぼくは断言したい気持でいるのだよ。ぼく一代でやった、というよりも、少なくとも祖父の代からの知的活動の、いくつかの実りの、そのひとつなのだからね。きみも知っての通り、ぼくの祖父の代はまだスコットランドだった。祖父は俳優であり演説の教師だった。“Elegant Extracts(優雅な朗読教本)”という本も書いているし、ドモリ矯正の本も書いた。ぼくは、“To be or not to be,……”で、舞台俳優そこのけの訓練を受けたものだった。

父もね、ワトソン君、祖父の影響を受けてね、acoustic(難聴治療)の専門家になったんだ。唇と舌と喉頭の使い方を記号で表わして、聾唖者に発音を教えるシステムを発明してね、これは、“visible speech(見えることば)”として国際的に評価されたものだった。だから、子供の頃、ぼくが兄と夢中になって、“話す機械”を作ろうとしたのも、無理はないだろう。ブリキやゴムで、のどから口、鼻腔まで実際の器管を模した仕掛けを作ったものだった。動力源の肺だけは、自分たちのものを使ったけれどね。シェクスピアは無理だったが、泣き声で近所を驚かすことには成功した。

ところで、ワトソン君、きみがいまでも思いだしてくれる1874年の冬のことだ。ぼくがきみの仕事場にとび込んでいって、「どんな種類の音だって伝えられるはずだ、if we could only occasion a variation in the intensity of an electric current exactly like that occurring in the density of the air while a given sound is made.」【この英文を訳す】そう叫んだことがあったね。今では、ワトソン君の宣伝のおかげで、これも伝説的な仮説となっているけど、このアイデアは、口の前に音叉を当てて母音の音の高さを調べているときのものだったのだから、いってみれば、わがBell家三代のacoustic研究の果実というわけだ。

面白いことに、ぼくがあの偉大なヘンリー先生の所へいって、このアイデアヘの助言を求めたとき、先生はぼくには、やってみたまえ!といってくれたが(そのおかげで大いに力づけられたのだが)、あとでひとには、彼は電気に素人だからできるかもしれない、そういったというんだね。ワトソン君、発明とは、こういうものかもしれない。知らぬが仏で、夢中になってやる方が、冷静な玄人よりも偶然を捉える機会が多いというわけだ。

ワトソン君、きみが助手となってくれて始めたtelephoneだが、ずいぶんと議論したね。きみは電話は見込みがないから、もうひとつのアイデア、多重電信の方を完成すべきだといった。でも、きっかけはきみだったよ。電磁石にくっついたリードを引きはがそうときみがカリカリやっていたことが、連続的に、しかも強さの変わる電流を発生させたのだからね。磁化された鋼鉄片が磁石の極の上で振動している間、電流は切れないで、強弱を伝えることができた。暑い日だったね、一八七五年の六月二日は。

あれから四〇年、今日は大陸横断電話の開通式の日だ。太平洋側にいるきみに、ぼくはこれも伝説的な第一声で話しかけるとしょう。“Watson, please come here, I want you.”一八七六年の三月一〇日、ぼくがズボンに電池の酸をこぼして思わず叫んだ、そして、ぼくたちの電話の伝える、最初の文章となった、あの記念すべき台詞だよ。

(MAY,1979)


【付記】6月21日号の課題については、9月6日号の『翻訳以前』で取り上げます。

 

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2010年8月16日号
(第4巻166号)