書きたいことがあって書く、書くからには、エッセーという伝統を踏まえた文章を書きたい。その伝統とは何か――藤村や独歩、漱石のスケッチか、それとも、いやいやそんな議論ができるほどの教養はない、書く、一つのことを書く、そうだ、この話を聞いてほしい、読んで欲しい、と願って書く。たった一、二行ですむことを「文飾」する。「大事に育てていた小兎が、どうしたことだろう」、ヘンリーのことを書くのに、この冒頭がなかなかに出てこなかった。書き終えると、この冒頭だけが残った。うまかったな、と。『工業英語』(一九七四年創刊)の読者には、永いことぼくの自己満足にお付き合いいただいた。
藤岡記
凍士に立てられた道標がわりの馬の骨にすがりついて、ボロをまとい、凍傷に、飢渇に、無謀な指令に、そして重戦車に追い迫まられた兵隊が、骨をなめることで餓えをまぎらわす。鉄道の枕木と思い、積み重ねて足場にしたら、それは赤痢で斃れた友軍の病死体であった。一九四三年一月、ドイツ第六軍三十三万の将兵がスターリングラードで殲滅されんとする、その少し前のことである。
政治局員として、攻防戦の指揮をとっていたニキータ・フルシチョフは、そうしたある日、前線でひとつの悲劇を目撃した。火をふく爆撃機から脱出し、パラシュートで降下するパイロットを、歩兵が機関銃で掃倒したのである。パイロットは「味方だ!!」と叫んでいた。敵機メッサーミュミットから降りてきたのが味方であるはずはない、歩兵たちは、そう信じて撃ったのである。だが、当時、ソ連の爆撃機は、ドイツのそれに、形も性能も、全く同じだったのだ。
ロシヤが近代化への途を歩み始めたとき、為政者たちは、自国の科学技術を少しも評価しなかった。農奴制に安んじていた国を一日も早く近代化するためには、たとえ自国にエンジニアリングの萌芽があっても、それを待つことはできない、とした。鉄道、繊維、鉱業、機械産業、どれもこれも、独・英・仏の外国技術と資本の導入から始まった。
たとえば、フルシチョフを涙させた悲劇を生んだ航空機の製造は、一九一〇年代から始まっているが、ほとんどドイツの設計と技術によるものであったという。わずかに、ルスコ・バルチースキー鉄道車両工場の航空機工場で、シコルスキー、グリゴロヴィッチなどロシヤのエンジニアたちによる飛行機が自国製として作られた。中でも、一九一三年にシコルスキーの設計した四発機は、世界初の快挙であり、大いに未来が期待されたのだが、一九一八年、革命の中でシコルスキーはアメリカに渡ってしまった……。
アメリカに移ったシコルスキーは、初めロシヤ移民の数学の教師をしていたが、二三年には航空機製造会社を興している。一九三〇年代に入ると、かつて成功した四発機を再び手がけ、一四人乗りの旅客機American Clipperを作り、大西洋横断の最初の商業ルートを開いた。そして一九三九年に、飛行機野郎の夢のひとつである、vertical take-off and landing (VTOL)機であるヘリコプターVS-300形を発表する。ロータ・ブレードのピッチを周期的に可変・制御できるロータ・ヘッドの設計に成功し、フランス、スペイン、ドイツの男たちが三〇年間追求してきた問題に終止符を打ったのだった。
ナチ・ドイツは、ソビエト時代となったロシアを、相変わらず植民地化しようとして、第六軍を悲惨な運命に追いやった。近代化しようとするロシヤは、革命という荒療治の中で、天才シコルスキーを失ない、自国航空機の発展に未熟さを残したまま、大祖国戦争を迎えることになった。
一八八九年、キエフに生れたシコルスキーは、いま八七才。ヘリコプターが世界の大空を舞っている限り、彼の名は消えない。エジソンは、あらゆるものに発明者としての名を記したが、飛行機だけは手がけなかった。そして、つぎのように揶揄したのだが、シコルスキーはそれを知っているだろうか?
エジソンの言葉を訳してみてください。【この質問に答える】
“The aeroplane won’t amount to a damn until it can fly like a hummingbird, go straight up, straight down, hover like a hummingbird.”
(JUNE、1976)





















