歴史的なことども――よく耳にする言葉だ。とりわけ、クーベリックが亡命先の英国から祖国に戻ってチェコフィルの指揮棒をとり、スメタナで新体制の幕開けを祝う一九九〇年の「プラハの春」は、人々も街も空も森もモルダウも、何もかもが沸き立っていた。歴史だった。スメタナホールにはハベル大統領がいた。きっと、チャスラフスカもいただろう。この国の人々に、この国のものでない自分が加わっているのが場違いであり恥ずかしくも思えた。帰りの空港に向かう途中、タクシーの運転手がひとつの建物を指差し「やッ、見てくれ!ここが共産党の本部だ。今は、なにかの研究所になっているが……La commedia é finite!(喜劇は終わりぬ)」と叫んで声高に笑った。『道化師』の最後の一節がまだ耳にある。二〇一〇年五月、どうしても「沖縄」を、そして「歴史」を考えたくなった。
藤岡記
2008年の1月28日号から隔週で「巻頭エッセイ」を掲げてきました。すべて、藤岡が編集・発行していた月刊誌『工業英語』誌の巻頭に書き下ろしで毎月書いてきたものです。本誌『WEBマガジン 出版翻訳』のおかげで、こうして丸三年間にわたって、筆者としては推敲を加えながら新しい読者に読んでいただくことができました。ここで、厚く御礼申し上げます。
気障ないいようですが、筆者は資金2百万たらずの資本で出版社を起こし月刊誌を発行しました。1976年のことです。「この巻頭言の一頁を読むだけで定価380円の価値がある」と意気高らかでした。このエピソードの出典はなんですか?と問われたが、「いろいろです」と濁した。「他人に典拠が入手できるようなことは書かない」が、一つのモットーでした。恐ろしいことに、巻頭言の頁を切りぬいて、赤インキで筆者の文章を添削する無記名の封書を手にしたこともあります。巻頭言は文章の工夫を天下に問うものであり、筆者の文章に毀誉褒貶あってしかるべきなのですが、この非日本人的な無礼には怒るというより、嘆きました。とはいえ、中には「毎月の貴巻頭言を会社の朝礼で読んできかせています」という便りももらい、わが意を得たりと、にんまりもしていました。
『工業英語』は1980年で終わったわけでなく、この後「バーミンガム物語」、文字数の制限を外して「ニュートン外伝」と書き続けました。いつか書籍にして『天才たちの四季』としようか『天才・奇才・鬼才・超人列伝』とするか迷ったものです。
楽しい連載を許してくださったサン・フレアの皆さんに、末尾ながら御礼申し上げます。「美味は筆者の舌に残って」で天才たちの軌跡は読者の皆さんにおぼろにしか映らなかったかもしれません。心からお詫び申し上げます。
藤岡啓介記
(第4巻184号)



























