東ドイツ、東ベルリン、そういった呼び名が存在していたとき、ブランデンブルグ門の東側で、東西を隔てるベルリンの壁の空間でカメラを構えていた。突然、自動小銃を手にした兵士たちに取り囲まれ、迷彩のある軍用トラックに乗せられた。観光バスから降りたったばかりのアメリカ人観光客が、この「逮捕」をまぶしそうに見ていた。
「写真をとるな!」という警告だったが、ドイツ語はできない。「東」であることを幸いにロシア語でまくしたてた。我は貴同盟国の客である、パスポートを自慢した。ソ連、ポーランド、チェコのスタンプが並んでいる。士官らしい青年が出てきて、両手を交差させた。「フォト、ニエット」ときこえた。フイルムは没収されなかった。トラックで元の場所に戻された。観光客がちょうと離れるところだった。何人ものアメリカ人が、窓から手を振っていた。1960年代のぼくのささやかな事件だった。
藤岡記
一八九九年だったから、ジョージ・イーストマンは、すでにアマチュア向けカメラ、Kodakを売りだして、相当な成功をおさめていた頃だった。ベルギー生れの男が、人工光線でも感光する印画紙を売出しているときいて、早速に手紙を書いた。
“If you are interested in selling, come up to Rochester. We can talk it over and, I am sure, come to terms.(面識のない人物宛に書く手紙です。それらしく訳してください。【この質問に答える】)”
Leo H. Baekeand(一八六三~一九四四)は、写真業界の寵児であるイーストマンが、自分の発明品Veloxに興味を持ったのを、さすが、とひとしお感銘を深くしたのだが、それもそのはずで、幸か不幸かVeloxの商品化に成功したのは一八九三年という、未曽有の大不況のときで購買力はさっぱり、しかも客先の商業写真家は、従来通りの太陽光線による印画法に固執していて、新技法には眼を向けなかった。ベルギーのゲント大学を十九才で卒業、二十一才で博士号をとり、グルージェの大学で十九才から二十六才まで化学と物理の講義をし、神童よ天才よと謳われ、それで、ふと新妻を連れてニューヨークヘ渡った。それが“別れ道”だった。
当時、化学者をもっとも必要とした写真業界が、彼を捉えた。しかし、ひとつの企業に捉えられることには肯んぜられない。やがて独立して、技術コンサルタントとして事務所を構えた。客はなかった。仕方なしに考えた“発明”が、Veloxだったのだ。プロセスを極秘としながら、細々と作り売って、どうやら、スタジオ写真家よりもアマチュアに人気がありそうだと知れたとき、ロチェスターから声がかかったのである。
いくらで売れるだろう。どうせ趣味のつもりの発明品だ。工場ぐるみせいぜい五万ドル、悪くすればその半分の二万五千ドルが「折り合い」だろうか。べ一クランドは、Kodakという商品名が、世界どこの国の言葉でも意味を持たない“音”であることから命名されたこと、命名した発明家が、白分の商品の世界性を信じて疑わない英雄であることまで思い及ばなかった。イーストマンは、「百万ドルでどうだろうか」、そういきなり切り出してきたという。
資本と自由を得たべ一クランドのやることは、“Kodak”のように、小文字のまま世界中の辞書にのる商品名の名付親となることだった。天然樹脂に代替する合成樹脂、単に代替するのみでなく、品質において天然のものを凌ぐものを作れればと、化学者たちが、ぼつぼつ研究し始めていた。べ一クランドは塗料のラッカ(shellac)に目をつけた。シェラックには、汚れとなって溶けない厄介もの、グラス彩色業者を泣かせてる得体の知れない残留合成物質があるが、その溶剤を作ってみよう、そう目標を定めた。フェノールと蟻酸アルデヒドを反応させて、たいそうに“残留物”を作り、ついでその溶剤を研究したのだが……
「突然に!」そう彼はいっている。突然に、溶かす溶剤がないということそれ自体が、この残留物を“商品”とする特徴ではないか!! 近代プラスチックエ業の最初の担い手となった熱硬化性樹脂“Bakelite”は、発明家、学者、企業家としての万全の準備がつくされて、研究着手から九年後の一九〇九年に発表された。アシモフの評によれば、ベークランドは「backwardにみた」のである。
(JULY 1978)
(第4巻147号)


























