歴史的なことども――よく耳にする言葉だ。とりわけ、クーベリックが亡命先の英国から祖国に戻ってチェコフィルの指揮棒をとり、スメタナで新体制の幕開けを祝う一九九〇年の「プラハの春」は、人々も街も空も森もモルダウも、何もかもが沸き立っていた。歴史だった。スメタナホールにはハベル大統領がいた。きっと、チャスラフスカもいただろう。この国の人々に、この国のものでない自分が加わっているのが場違いであり恥ずかしくも思えた。帰りの空港に向かう途中、タクシーの運転手がひとつの建物を指差し「やッ、見てくれ!ここが共産党の本部だ。今は、なにかの研究所になっているが……La commedia é finite!(喜劇は終わりぬ)」と叫んで声高に笑った。『道化師』の最後の一節がまだ耳にある。二〇一〇年五月、どうしても「沖縄」を、そして「歴史」を考えたくなった。
藤岡記
古いチョーサーの詩篇に、“A Scheffield thwitel baal he in his hose.(シェフィールド剣をズボンに忍ばせ)”の句があって、14世紀のときには、英国のシェフィールドが刃物の産地であることが知られる。ここにあるthwitelという古語は、片刃の“all-purpose knife”を示すもので、剣ととるか山男の好む万能ナイフととるか――ともかくも、食器にもなれば武器・凶器にもなり、ときには作業工具にもなった。しかし、この時代の高炉法で作られた鋼を使ったものだったので、その実用度は、現在のそれと比較にならぬほどにお粗末なものであったし、とてつもなく高価でもあったろう。
シェフィールドの鋼がヨーロッパに広く知られるようになったのは、チョーサーのときからさらに350年もたった1740年代になってしまう。鋳鉄は溶けるが、鋼は溶けない、という当時の技術の常識を打破して、crucible steel (ルツボ鋼)を発明した、ひとりの天才が登場するのだ。
Benjamin Huntsman(1705~1776)、名の通りドイツの移民家庭に生まれた。幼いときから道具をいじったり、機械を作るのが好きであり、また非常に秀れてもいたという。時計、鍵、焼きぐし廻わし機(smoke-jack、roasting-jack)といった家庭で使うものを修理したり考案していたので、近隣の人は“wise man”の敬称で彼を呼んでいたという。直したのは機械だけではない。人間のメカニズムにも手をつけて、外科や眼科の患者の面倒もみた。もっとも、人間を“修理”しても報酬はとらなかったというのだから、才能だけでなく、近代市民としての人格も豊かであったといえる。
時計を作っているうちに、ハンツマンはゼンマイや振子に使う英国産の鋼に良いものがないことに気がついた。不純物がなく、しかも炭素が均一にしみ込んでいる鋼を作ることができないだろうか。もし得られるならば、時計だけではない、調理の刃物、ハサミ、ナイフ、工具にも、その需要は限りなく大きい。成功の大きさを考えると、その開発のプロセスを秘匿しておくにしくはない。だから、ハンツマンが1740年にシェフィールドに近いハンツワースに移ったことは知られているが、1751年に量産工場を作ってcast steel(鋳鋼)を売り出すまでの10年間のことは、当時だれも知ることができないでいた。鋼を溶かすための温度2,900°F(1,593℃)を得るためにコークスを使ったこと、こわれないルツボ、高い煙突の引きのよい風炉を設計し製作したこと、flux(融剤)を混入することに思いつき数百回の実験を重ねて、ついにガラスをつきとめたこと、これらが、いつどのようにして考案され、発見されていったかは、謎のままである。ただ彼の死後だいぶたってから、秘密の実験場の跡が発見されて、そこに埋没されていたおびただしい“失敗”が、ハンツマンに代ってこの歴史的工匠の苦心を物語っている。
ある夜、それはぼたん雪が舞いあそぶ寒い夜のこと、みすぼらしい乞食が夜間操業の工場にまよい込んできて、たとえ軒下ででも良いから建物の傍で暖をとらせてくれと哀願した、気の良い工員が、厳重な規則があるにもかかわらず、ついほだされて許したのだが、実はこの乞食、グリーンサイドで鉄工所を営むWalkerという曲物だった、そして以後、方々でルツボ鋼が作られるようになってしまった――こんな伝説も残っている。
鋼と木炭とガラスを熱に封じ込むことはできても、人の耳目は、心は、約束や規則の外に流れ易いものという、これも、ハンツマンの残した偉大な“失敗”のひとつなのだろう。
(FEBRUARY 1979)
(第4巻164号)



























