歴史的なことども――よく耳にする言葉だ。とりわけ、クーベリックが亡命先の英国から祖国に戻ってチェコフィルの指揮棒をとり、スメタナで新体制の幕開けを祝う一九九〇年の「プラハの春」は、人々も街も空も森もモルダウも、何もかもが沸き立っていた。歴史だった。スメタナホールにはハベル大統領がいた。きっと、チャスラフスカもいただろう。この国の人々に、この国のものでない自分が加わっているのが場違いであり恥ずかしくも思えた。帰りの空港に向かう途中、タクシーの運転手がひとつの建物を指差し「やッ、見てくれ!ここが共産党の本部だ。今は、なにかの研究所になっているが……La commedia é finite!(喜劇は終わりぬ)」と叫んで声高に笑った。『道化師』の最後の一節がまだ耳にある。二〇一〇年五月、どうしても「沖縄」を、そして「歴史」を考えたくなった。
藤岡記
官軍の只中を突っ切って、徳川家の存亡を身ひとつに担い箱根を越えて駿府に西郷を訪れる、その緊迫したときでも、幕臣山岡鉄太郎は一語も誤またずに「出師(すいし)の表」を読めた、という。後になって鉄舟が、日頃師事する滴水和尚にこのことを語ると、「山岡さん、それでいつものように涙が出ましたか?」と問われ、大いに恥じてさらに禅の修業を積んだという伝えがあるが、その「出師の表」に、「……三たび臣を草盧(いおり)の中に顧いたまい、臣に諮(はか)るに當世の事を以てせらる。是れ由り感激して、遂に……」*と、蜀の劉備が世を捨てて農を営んでいた孔明を三たび訪ね、軍師に立つことを説得した、「三顧」を語る一節がある。*『三国志』(小川 環樹 金田 純一郎訳、岩波文庫)
孔明は劉備の三顧の礼によって動き働き、劉備亡き後も、その国のため、三顧の礼に報いんがため兵を興す。「出師の表」とはその声明文というわけだが、鉄舟はこれを読めば、必ず涙したものであった、という。
誠あり、礼あり義あり、恩もあって、いかにも東洋的な感銘のある故事で、つい鉄舟の余談に走ってしまったが、「三たび」という区切りは、洋の東西、いずれにもあるようだ。そこで:
英国はウエルズ、靴職人の家に生まれたRichard Roberts(一七八九年~一八六四年)が「三顧の礼」を受けたひとりとして歴史に登場してくる。
ロバーツの育ちは貧の一語につきるようだ。家がサロップとモントゴメリーの州境にまたがっており、表と裏で州が違うという特異な所で生まれたことが、あるいはその後のロバーツの八面六臂の活躍を暗示しているかもしれない。石切場に出たかと思えば紡車を廻したり、鍛冶屋の手伝いをした翌日は屋根にのぼるといった具合に、ただにa good jobを求めて少年時代を過したのだが、いつか、自分の才能が機械作りにあることを信じるようになった。
手始めにねじ切り盤を作ってみる。上々の評判だった。才能と仕事が一致すれば、あとは体力と時間だった。湿式ガスメーターを発明、プレーナー、ブローチ盤の工作機械を設計・製作、電磁石を作って賞を受けたかと思えば、機関車の蒸気ブレーキ、汽船のスクリューを発明、タバコの自動製造機も手がけるしジャカード織機やそのパターン作製機までも作った。取得特許は30件にのぼる。
当代の“jack-of-all-trades(よろずや)”といわれたこのロバーツの所に、あるとき(一八二四年)、織物工場を経営する三人の紳士がやってきた。mule spinning frame(ミュール精紡機)を使って木綿糸を紡いでいるのだが、職人たちがストライキをしている。ミュールは機械といっても主要な作業は人手に頼っている。しかも熟練を要するもので、職人の意気は高く、要求はとうてい満していられない。なんとか人手の部分も機械化できないものだろうか。ミュールについては分からぬと断わるのだが、ともかくもと機械の細部まで語っていく。日をおいて再び訪れるが、ロバーツは動かない。さらに日が経って、紳士たちは三たび訪れてくる。ロバーツはいう。「ストライキはまだ続いているんですか。それなら引受けても良かった。あのとき、すぐには自動化できないと思ったので……こんなに時間があったのだったら……」
それから四か月間で、ロバーツは彼ならではのカムを設計して円運動を直線運動に精妙に変えた、青史に名高いself-acting muleを作ってしまう。同じ三顧の間で、東は心を問い、西は条件を考えていた。三宝、三拝、三界、三尊と、仏法ではことを収斂して三で表すようだが、三顧には人の世の喜怒哀楽が織り込まれているようだ。
1979年、三朝に記す。
(JANUARY 1979)
[Richard Robertsの話は”Industrial Biography”(Samuel Smiles, 1963)で学んだものですが、当該個所の記述は会話体ではなく、では、どこからロバーツの言葉を引いてきたのか。もう三十一年前のことで見当たりません。なお、気取って「三朝」と記していますが、これは『工業英語』誌の一九七九年「新年号」に書いたものなので「元旦」のつもりでした。藤岡記]
(第4巻162号)



























