入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

歴史的なことども――よく耳にする言葉だ。とりわけ、クーベリックが亡命先の英国から祖国に戻ってチェコフィルの指揮棒をとり、スメタナで新体制の幕開けを祝う一九九〇年の「プラハの春」は、人々も街も空も森もモルダウも、何もかもが沸き立っていた。歴史だった。スメタナホールにはハベル大統領がいた。きっと、チャスラフスカもいただろう。この国の人々に、この国のものでない自分が加わっているのが場違いであり恥ずかしくも思えた。帰りの空港に向かう途中、タクシーの運転手がひとつの建物を指差し「やッ、見てくれ!ここが共産党の本部だ。今は、なにかの研究所になっているが……La commedia é finite!(喜劇は終わりぬ)」と叫んで声高に笑った。『道化師』の最後の一節がまだ耳にある。二〇一〇年五月、どうしても「沖縄」を、そして「歴史」を考えたくなった。

藤岡記

 
余滴として残る……
藤岡啓介
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功成り名遂げて、老子の言葉通り「功遂げ身退く」の境に入った人が、若い日々の刻苦勉励を語るのをきくと、とうていそこに到らざるを知る凡夫は、憧憬の念もだしがたく、どころか、切ない思いに呵(さいな)まれる。きみは毎日を、他人に語るに足りるだけの勉励を積んで過ごしているのかね、そうではあるまい、「功」を求める夢だけは大きくても、日々を冗食、冗舌、冗費のうちに明け暮れしているのではないか。そのように咎められているような苦しい思いだ。そして、それだからではないが、たまには同じ土俵で明け暮れしている“名士”の登場もあって良いだろう。

十九世紀イギリスの異能の天才mechanicsの中に数えられるJ. Clemen(一七七九~一八四四)の若い日のことだ。クレメントは、屋根ふき職人ではあきたらず、発明の才を生かそうとロンドンヘ向った折に(一八一三年)、一時留まって週1ギニーの給金を稼いだことのある鉄工所、そこの親方、Alexander Gallowayが「冗舌」の人だった。仕事の面倒を見るよりも、少なくとも市の助役にはなりたいものと、やることなすことに奇をてらって、人気とりに専念していた。

だから、作業場の屋根を、思いつきから、まっ平らな鋳物で作り、梁も通さずに、落ちないことに得意となった。悩まされたのは、屋根の下で働く職人たちではなく、知人で真面目いってんばりのPeter Keirだった。落ちないはずはない。もし落ちないならば、自分が三十年この方学んできたことが間違っていることになる。一睡もできず考えあぐんだ。翌日は仕事で問題の屋根は見なかったが、夕食のときも、目を宙にして、なぜか、を口にしてしまう。それを見たキールの細君は、黙ってその日の新聞を差し出した。

“Galloway's roof has fallen in this morning, and killed eight or ten of the men!!”

見るなり、食事も中途でキールはベッドにとび込み寝入ったという。ギャロウエイは、再起できずに消えてしまい、クレメントは幸いにも災難に合う前にブラマーの所で、週4ギニーを稼ぐmechanicになっていた、という。

ギャロウエイとキールのことは、だから、クレメントの記録にひとつの挿話、いわばクレメント伝の「余滴」としてしか残っていない。

W. Chambers(一八〇〇~一八八三)は、これに比べたら、“self-educated man(自分で自分を教育した人間)”として、仕事も残せば、記録も残している。十四才のとき、片田舎からエジンバラに出て、書店に住み込む。“自己教育”を始める。朝七時から夜十時までは店にしばられているので、教育の時間は“眠りを盗むこと”しかない。毎日数時間を読書に当て、フランス語の学習にも当てた。小説の類いは“無益”であるといって退けて読まず、物理学を基礎と定めた。

かくて一八一九年、チャンバーズは自分の店を持ち、印刷所を持ち、雑誌を刊行し、評論を書き、史書も著わし、法学の学位も授けられ……それから百五十年もたった東洋の島国で、ひとりのジャーナリストが、版を重ねる各種の『チャンバーズ』の恩恵に浴し、しかも、その“Biographical Dictionary”で彼自身のことを知ることもでき、禿筆(とくひつ)ながら“仕事を残した男”として人に伝えようとしている。

余滴で終るのは誰しも本意ではない。大勢の若者を前にしてチャンバーズはつぎのように語ったという。

“I reaped more pleasure when I had not a sixpence in my pocket, studying in a garret in Edinburgh”

このように自らを語れるとは、なんと誇り高いことか。

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(DECEMBER 1978)

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2010年6月21日号
(第4巻160号)