歴史的なことども――よく耳にする言葉だ。とりわけ、クーベリックが亡命先の英国から祖国に戻ってチェコフィルの指揮棒をとり、スメタナで新体制の幕開けを祝う一九九〇年の「プラハの春」は、人々も街も空も森もモルダウも、何もかもが沸き立っていた。歴史だった。スメタナホールにはハベル大統領がいた。きっと、チャスラフスカもいただろう。この国の人々に、この国のものでない自分が加わっているのが場違いであり恥ずかしくも思えた。帰りの空港に向かう途中、タクシーの運転手がひとつの建物を指差し「やッ、見てくれ!ここが共産党の本部だ。今は、なにかの研究所になっているが……La commedia é finite!(喜劇は終わりぬ)」と叫んで声高に笑った。『道化師』の最後の一節がまだ耳にある。二〇一〇年五月、どうしても「沖縄」を、そして「歴史」を考えたくなった。
藤岡記
砥石のことをgrinding wheelといわないで、whetstoneといっていた時代のこと、そして、その頃はまだ、食卓用のフォークとナイフも発明されていない、おかげで、肉料理をたべるためのナイフは、至極貴重な代物で、宴席に招ぜられた時には、招かれた方は自分のナイフを用意していかねばならなかったし、招いた方は、廊下にwhetstoneを吊しておき、切れ味のにぶるナイフを客人が研ぎに行けるようにしておいた、十六世紀に入る前の、イングランドの貴族に、そんな話が残っているが、エリザベス女王のレスター伯への贈物のひとつが、金箔でふちどりされたwhetstoneであったという史実からみて、これらはほんとのことなのだろう。
砥石持参の宴が彼の地にあるなら、わが国でも砥石を腰に下げて戦さ場へ、重くて長い刀の方が功を競うに利あるべしと三尺を越える大太刀をふりかざして、斬れなくなると戦場から引っこんできては研いでいたという、実は居合抜刀術田宮流の使い手の話が伝えられている。
正宗、村正の名刀、妖刀の話は名高いが、スコットランドにも、十六世紀の頃、Andrea de Ferraraという名の刀鍛冶がいて、王冠を銘に刻むことが許されたほどに名剣を作りだしていたという。イタリアの地で学んだがためにその名となったのが、あるいは招いた刀鍛冶であるのかは詳かではないが、ともかくも、彼の鍛えた洋剣は、ぐいとしなって、切先が柄にまでとどくほど柔らかい鋼で作られていて、フェラーラものは“temper”が違うといって尊重された。
フェラ-ラの仕事場は、人里から離れた地下に設けられている酒蔵を改造したもので、暗い仕事場であればこそ、炎の色、鋼の色、精妙な焼きの具合を、つぶさに確かめながら仕事ができたし、その上に工程の秘密を守るにも役立ったといわれる。秘密はしかし、工程だけでなく、フェラーラ自身の生涯についてもいえて、考証好きのW.スコットによっても、このスコットランド・エンジニアリングの鼻祖については、およそジェームス四世か五世のころとしか分かっていない。
もうひと昔まえの、まだまだイングランドが野蛮国であったときに、われらがBrownsmith, Nasmyth, Arrowsmith, Spearsmith, Spoosmith, Goldsmithの面々が野に森に生まれ始めた頃のことに目を向けると……農具、馬具、馬車、食器、建材、ときには橋や城門も、鍛冶屋の仕事であったのだから、十世紀に入るか入らぬかの、国とり合戦のアングロ・サクソン時代のように戦さに明け暮れしていたときには、武器の供給者である鍛冶屋は、とびきり優遇され、宮廷の扱いは最高位で、自他共に認めるナイト“mighty warsmith”という次第だから、酒宴があれば王様のすぐ傍に席を与えられ、こんな情景もあったと記録されている。
“……entitled to a draught of every kind of liquor that was brought into the hole”
それで、並みいる貴人たちは、鍛冶屋はのどの奥で、とんてんかんの火花がまだぱちぱちいっていて、たぶん、quenching(酒冷?)しているのだろうと思った、というのだが、酒が好き、名誉も好きで、何んでも作るエンジニア誕生は、このあたりのことからなのだろうか。
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※この質問は締め切りました
(November,1978年)
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(第4巻156号)



























