東ドイツ、東ベルリン、そういった呼び名が存在していたとき、ブランデンブルグ門の東側で、東西を隔てるベルリンの壁の空間でカメラを構えていた。突然、自動小銃を手にした兵士たちに取り囲まれ、迷彩のある軍用トラックに乗せられた。観光バスから降りたったばかりのアメリカ人観光客が、この「逮捕」をまぶしそうに見ていた。
「写真をとるな!」という警告だったが、ドイツ語はできない。「東」であることを幸いにロシア語でまくしたてた。我は貴同盟国の客である、パスポートを自慢した。ソ連、ポーランド、チェコのスタンプが並んでいる。士官らしい青年が出てきて、両手を交差させた。「フォト、ニエット」ときこえた。フイルムは没収されなかった。トラックで元の場所に戻された。観光客がちょうと離れるところだった。何人ものアメリカ人が、窓から手を振っていた。1960年代のぼくのささやかな事件だった。
藤岡記
銀山を砕くべく、鉄壁をうがつベし――種子島の島主左近太夫時堯(ときたか)は、ポルトガル人が見せた鉄砲のすさまじいばかりの威力に驚いて、早速に二千両もの大金を投じて二挺求めた。それが、わが国への鉄砲伝来の始まりで、時は天文十二年(一五四三年)八月のことだったとされている。
刀鍛冶の技術があるのだから、鍛造であろうと鋳造であろうと作れぬものではあるまい。種子島家では時堯を中心に、二尺三寸九分の銃身を模して、さまざまに工夫した。形は、寸分違うことなく造ることができた。火門に真鍮を用いることも、うまくいった。火縄と発火の仕掛けも手本通りに作れた。ところが銃尾を安全に塞ぐ栓の取付け方がどうしても分からない。南蛮人は「秘法」をもっているに違いない……分からぬまま一年が経ち、再びポルトガル人が訪れたとき、その「秘法」を伝授してもらうことになる。
ことは簡単であった。銃尾と鉄栓に螺旋状の溝を切り、ねじ込めば良かった。ねじを使うことが当時の鍛冶の技術にはなかったわけで、命を受けて製作に当った八板金兵衛清定は、この「秘法」のため、娘を代償にしたとさえ伝えられている。ともかくも、清定が造った国産火縄銃一号は、銃台ともに長さ三尺三寸四分、無事に発砲することができた。
ヨーロッパでは、ねじの利用は古くから行われている。水揚げの仕掛けにアルキメデスが発明した「ねじポンプ」は、今日でもArchimedes screwとして辞書の見出語となっているほどに普及しているが、それほど古い昔でなくても、ルネッサンス期には、ねじを切るための機械や加工法がレオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとして、ヨーロッパ中で広く開発されている。
十九世紀には、機械作りのWhitworthが、機械要素の中でもとくにねじに着目して、機械ごとに、用途ごとに作られていたねじを標準化しようと提唱した。ねじ山の両側面を55度にすること、山の項と谷とに高さ6分の1を切りとって丸みをつけること、1インチ当りのねじ山の数を定めると。ホイットワースの提案は、すぐに英国の工業規格となり、やがては新旧両大陸でも採用されていく。ねじを規格化することは、だれにでも、どこででも同一ねじの再生産が可能となるわけで、「世界の工場」といわれた当時の英国の輸出拡大にも大きく貢献したわけだ。
しかし、規格ねじを使っていようといまいと、ねじを作る技術のない所では、その有難さは分からない。種子島の昔でなく、それから三百年以上もたった明治の初めの頃、ねじ1本を作るのに思わぬ苦労をしたという話が残っている。
所は織物の桐生、織元森山芳平が、card(絞紙)を使って自在に絞織りのできるジャカール機を輸入したときのこと、ボルトが欠落していて使えなかった。そこで早速に作るわけだが、鍛冶屋で型を作り鋳込んでボルト本体を造り、それを飾り職人がやすりで削って螺旋状の溝を切った。ボルト1本に二週間もかかったという。種子島で学んだねじの効用は、その後「鉄の機械」を作らなかったために鉄砲だけの技術となってしまっていたのだろう。
ところで、この芳平のジャカールを窓越しに見た出稼ぎの越後の鍛冶屋村田某は、すっかり魅せられてしまい、三ヵ月かかって曲尺と矢立で図面を引き、ついに自作してしまったという。先の清定にしても、村田にしても、分かれば作れる、作る、これも才能のひとつだ。
(OCTOBER,1978)
(第4巻154号)



























