入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

東ドイツ、東ベルリン、そういった呼び名が存在していたとき、ブランデンブルグ門の東側で、東西を隔てるベルリンの壁の空間でカメラを構えていた。突然、自動小銃を手にした兵士たちに取り囲まれ、迷彩のある軍用トラックに乗せられた。観光バスから降りたったばかりのアメリカ人観光客が、この「逮捕」をまぶしそうに見ていた。

「写真をとるな!」という警告だったが、ドイツ語はできない。「東」であることを幸いにロシア語でまくしたてた。我は貴同盟国の客である、パスポートを自慢した。ソ連、ポーランド、チェコのスタンプが並んでいる。士官らしい青年が出てきて、両手を交差させた。「フォト、ニエット」ときこえた。フイルムは没収されなかった。トラックで元の場所に戻された。観光客がちょうと離れるところだった。何人ものアメリカ人が、窓から手を振っていた。1960年代のぼくのささやかな事件だった。

藤岡記

 
あくびをしなかった……
藤岡啓介
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地口に、「嘘と坊主の頭はゆ(云・結)ったことがない」という語呂合わせがあるが、嘘をゆわないで生涯を通すことなどあり得ぬことであって、いえば自分が、虚言家であることを証明してしまう。「巧言令色、鮮矣仁。(巧言令色、鮮(すく)ないかな仁)」と孔子はいうが、ときには言葉も、表情も、飾らなくてはならない。君子の道にはほど遠いところで世の中は動いているのだ、ときめ込んでいる方が、存外に心の平和は保たれるのだが……

斎藤永頼という牧師がいた。下級武士の出で、律気、篤実、学問を専らとした人格で、人々は文字通り“えいらいさん”と呼んで敬愛した。この人が逝ったとき、英学者の息子が、英文で墓碑銘を刻んだ。“Here lies a man who never lied in his life.”としたと伝えられた。碑文が、lieを「嘘」と「横たわる」にかけて書かれたものときいて、人々は息子にも敬意を払いながら、いっそうと“えいらいさん"の追憶にふけっては、そうであったことよ、と信じて疑わなかった、という。

息子、斎藤秀三郎が記したのは、“HERE LIES ONE WHO WAS A LOVER OF PEACE AND EVER DID HIS DUTY. ”(【この文章を訳す】※この質問は締め切りました)であって、伝えられたものと異なって伝道家の生涯をさらに正しく表しているのだが、たとえ間違いにしろ、「生涯に決して嘘をいわなかった」と墓碑に記したという誤伝を疑う人がいなかったというのだから、永頼は珍しい人格の人だったようだ。

息子は違った。良くも悪くもいわれた。毀誉褒貶はなはだしく、ある者は、豪放磊落の英雄と慕い、ある者は傲慢無礼の俗物として排した。それかあらぬか、ずい分と気負った言葉を残している“What if I am not happy in this world? I was nothing before I was born.” (【この文章を訳す】※この質問は締め切りました)波乱にとんだ生涯を、自らに課したようだ。

六歳のとき、仙台藩の英学校・辛未館に学んだのが英語を知ったときであるという。その後、一高を経て工科大学(のちの東大工学部)を十八歳で中途退学するまで、よく酒を飲み、遊ぴ、しかも英語に専念し……そう、学校に備えてあったブリタニカを全巻二度も通読するほどに。仙台に帰って英学校を創る、土井晩翠が生徒だったという。ギリシア語、ドイツ語も独学。ある時期には、レクラム文庫を一日一冊の割り合いで読破した。三十一歳、東京は神田に正則英語学校を創立。一高、東大でも教鞭をとるが、辞めたり、追われたり。死ぬまで続く三十三年間の正則では、一週に五十~六十時間の授業をしたこともある。教科書も書いた。後に斎藤文法と呼ばれる文法体系も執筆する。小冊子も含めて二百余巻の本を書き、さらに大部の英和、和英の辞書も、独りで助手も使わずに書き込んだ。

すべてが、英語と日本語という異体系を持つ言葉の対応を研究し、等価な表現を求め、組織的に遊び、教える学問へとつながっていく。秀三郎の新造語idiomologyは、英米での学説に重きをおき独創性をおそれる日本の英学者の顰蹙(ひんしゅく)を買ったようだが、やがて、世界の言語学界でも用いられるようになっていった。

身長、六尺五分。業績も仕事のエネルギーも肉体も、すべて超人的であった。晩年直腸癌に苦しんだ。一時間に四回も便所に通った。そこには、書見台があり、かたわらには百科辞典が積んであった。ひとに訊ねたことがある。「天国の言語は何だと思う」。そして自答していった。「英語だよ!」今日を予見していた。

斎藤秀三郎、昭和四年に、六四歳の生涯を終えた。四十年連れ添った妻女が、一度も欠伸をしたのをみたことがない、ともらしていたそうであるが、それほどに充実した人生が、やはりあったのだ。

(AUGUST 1978)

2010年4月12日号
(第4巻152号)