東ドイツ、東ベルリン、そういった呼び名が存在していたとき、ブランデンブルグ門の東側で、東西を隔てるベルリンの壁の空間でカメラを構えていた。突然、自動小銃を手にした兵士たちに取り囲まれ、迷彩のある軍用トラックに乗せられた。観光バスから降りたったばかりのアメリカ人観光客が、この「逮捕」をまぶしそうに見ていた。
「写真をとるな!」という警告だったが、ドイツ語はできない。「東」であることを幸いにロシア語でまくしたてた。我は貴同盟国の客である、パスポートを自慢した。ソ連、ポーランド、チェコのスタンプが並んでいる。士官らしい青年が出てきて、両手を交差させた。「フォト、ニエット」ときこえた。フイルムは没収されなかった。トラックで元の場所に戻された。観光客がちょうと離れるところだった。何人ものアメリカ人が、窓から手を振っていた。1960年代のぼくのささやかな事件だった。
藤岡記
よき師とは、よき弟子を持ったものをいうのだが、よき弟子のない者は、いくら秀れて世に抜きんでても、よき師とは呼ばれない。たいていの発明家たちは、自分の生命のうちに、ディーゼルの言葉を借りていうならば、holy fire(聖なる火)を燃やして、理論からも教育からも決して生まれることのないヒラメキを求めて創造の途を歩むので、よき弟子を求めることも、あるいはそれをアイデアと同様に育み艀化させることも、ほとんど不可能であるようにみえる。
別の見方でいえば、発明発見には理論や知識よりも直観に頼る部分が大きく、理論を修め、高度な教育を受けていてもどうにもならぬものがあるのだから、自分の抱いたholy fireをどのようにして技術の歴史に点火したのかを説明なんぞできるものではない。だから、よき師になる訳がない。こうも考えられる。ワットをみよ、グッドイヤー、フォードをみよ、正規の教育なんぞ、彼らにはまるでなかったではないか……
発明発見の物語は、ほとんどが凄まじい執念の物語となり、はたから見れば、まるで見込みのたたない劇的な成功の機会を掴むことにかけている男たちの、狂気のドラマのように思えるのだが、中には、よき師に恵まれて、天才列伝によく見られる「不遇」という時期を経験しないで、優れた仕事を残していった男たちもいる。
そのひとり、エジンバラに生まれたJames Nasmyth(1809~1890)は、生まれからして恵まれていた。父親は、肖像画家として一家をなしていた。さらに、素人ながらmechanicとしても近隣の人々から頼りにされていた。ジェームスは、幼いときから、絵筆を持つよりも、鑢や万力をいじる方を好んだのだが、父親は、それを励まして、道具の正しい使い方や図面を引くことを教えた。ジェームスは、やがて、自分で設計して蒸気エンジンを作り上げた。父親は、息子の天分をmechanicにあると判断し、よき師を選ばねば、と考えた。
ロンドンに父子して出て、Henry Maudsley(1771~1831)の門をたたいた。すでに伝説的な発明家となっていたモーズレーがその晩年の五十八歳、弟子入りに成功し、そればかりでなく助手となれ、といわれたナスミスは二十一歳であった。父親は面目を施こした。単なる親馬鹿ではなかったのだ。
"First, get a clear notion of what you desire to accomplish, and then in all probability you will succeed in doing it. (モーズレーの有名な言葉です。WEBで典拠を探せるかな? あなたの名訳をどうぞ!【この質問に答える】※この質問は締め切りました)
師が弟子に語った言葉は、まずこうだった。つづいて、素材をよくみて、なくて済ませるものだったら、とことんまで削りとれ……複雑さは敵だ、できうる限り単純化せよ……語るだけではなかった。だれよりも優れているといわれた腕前で、それは、すでに膝下を離れて名をなしていた弟子たち、クレメント、ロバーツ、ウィットワースの前でもやり、ときには彼らと仕上げを競ったこともあるという名人業で、やすりをかけ、きさげをかけた。
後に、ナスミスは従来の鍛造法を一変させるsteam hammer(気力杭打ち機, 蒸気ハンマー)を発明し、さらに数多くの機械、工具を開発する。平穏な晩年の中で、それでも、影のように折にふれて胸をふさぐものがあった、という。それは“The Lord Chancellor (大法官)”とモーズレーが呼んでいたマイクロメータだった。当時では驚異的な、1000分の1インチを測定するという、目盛つきの大型万力のような、簡単な仕掛けの道具だったが……
だから、ナスミスは、師の全てを記録して残した。大法官の裁きに立ち合った書記のように、正確に感慨を込めて。彼は自からがaccomplishすべきことを、心得ていたのだろう。
(MARCH 1978)
(第4巻149号)



























