入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。

藤岡記

 
汝はこれを何と呼ぶか……
藤岡啓介
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今も昔も変わらない。金もなければ仕事もない、友もなければ落着く住いも持たぬ若者にとって、図書館は、またとない隠れ家であり、勉学の場であり、ときには「生活」の主要な場とさえなっている。George R. Gissing (1857~1903)は、博覧強記の読書家、哲人として名を成した文学者だが、彼はまた、The British Museum(大英博物館)の図書閲覧室を生活の場としていたことでも知られている。

そこへ行けば暖房がある。本があり灯かりがある。洗面所には石けんもあれば温水も出る。飢えと貧乏に“翻弄”されていたというギッシングにとって、そこは夜を過ごせないという残念な条件がひとつあるだけだ。あるとき、手洗いに立ったとき、新しい掲示が出されていた。“Readers are requested to bear in mind that these basins are to be used only for casual ablutions. (……不時のご用のためのものです)”。鳴呼、何と!!

「大英博物館」といえば、ギッシングの『私記』の一節が思い出されてくるのだが、日本の生んだ不世出の博物学者、南方熊楠(みなかたくまくす)翁(1867~1941)のエピソードも欠くことはできない。

八、九才のころ、本が読みたくて十町、三十町も走っていっては借りて読む、ことごとくを記憶して帰り、反古紙に写し出して読み返していた。十二才のときには、『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』をすっかり写しとっていたし、『文選』を学べば、二度目には師よりも速かに素読ができ、それだけではない、長じては、十数ヵ国語、それも卑語・俗語にまで通じていたという。この南方翁、若き日、一八九三年(明治二六年)から一九〇〇年にわたって、ロンドンに滞在していたが、たまたまNature誌の誌上公募の天文学の問題を知って解答を作る、掲載され、一躍時の人となった。「日々食乏しく甚だしきは絶食というありさま」で、垢じみたフロックコートの日本人、それまでは、邦人でさえ相手にしてくれなかった、という有様だったのが、下宿の老婆に借りたぼろぼろのAからQまでしか綴じていない辞書で草した文章のおかげで、大英博物館にも自由に出入りして好きな学問もすれば東洋刊本写本部の仕事も手伝うことになった。アルメニア、アラビア、ペルシヤ語などの希覯(きこう)書を含めた研究ノート五三冊の『ロンドン抜書帳』(四万八百枚、「頁にあらず」と翁は記している)もいつしかできてくる。

「汝はこれを何と呼ぶか」という一問をその国の言葉でいえれば、日常の外国語は半月もあれば不自由しないほどに上達するし、「前置詞乃ち日本で申さばテニヲハ、これだけは六、七十是非おぼえるが必要なれど」、あとはpolyglot(対訳本、英―伊などの)さえあれば、読書もすぐできるようになる。外国語修得の南方流も、それらの完備した大英博物館で会得したものであろうか。

このころ、英国では、東洋はすこぶる劣等視されていた。あるとき、五百人ほどの人が読書する閲覧室の中で、「小生を軽侮せるものありを……烈しくその鼻を打ちし」こともあった。非あらば学者にも立ち向った。愛国者南方熊楠は、やがて大英博物館から放逐されてしまう。ただに直情に走る奇人だろうか。残した菌、粘菌、淡水藻類の研究、民俗学・比較文学、どれをその業績の主とするか判然とできぬほどの、それは日本の生んだ巨人のひとりであるのだ。

(MARCH 1978)

2010年1月12日号
(第4巻139号)