1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。
藤岡記
十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人――いつの頃に、だれがいいだしたのか知らないが、ずいぶんと辛辣にことのなりゆきを観察した言葉がある。神童は多い。将来を嘱望されて、世に出る。ところが大方は、名を成すことも、財を成すこともなく、神童の誉れは本人と両親との記億の中に止まるだけで終ってしまう。
「そのかみの神童の名のかなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと」――思うがままに才をふるい、名をあげることのできぬ哀しさをうたって、さらに才をたかめた啄木のような、ほんとうの神童もいるには違いないのだが、世に出て、名も財も成すのは、神童とは決していわれなかった、しかし、そう呼ばれてほしいものと、心ひそかに願って成人した子供たちであるようだ。
King Camp Gillette(一八五五~一九三二)には、特記すべき幼年期はない。一書には、シカゴで学ぶ、とあり、他には、正規の技術教育はわずかしか受けなかった、とある。後年、safety razor(安全カミソリ)を発明して成功者列伝の人となるのだが、十歳では、「心ひそか」の方の子供であった。
いっとき、金物商で働き、それからは転々と職をかえ、長くは行商をやった。旅から旅へと他人の作った品物を売り歩きながら、いつか自分の作った品物を売ってやろう、売らせてやろう、と心に固く決めていた、という。ただの行商ではなかった。
bottle cap(王冠)発明したWilliam Painterの会社に傭われたとき、ジレットは生身の、本当の発明家の話をきけるというチャンスをつかんだ。ペインターはいった。
“……concentrate on developing a disposable product for which demand would be constant.”(この言葉を訳してください)
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これが、ジレット三六歳のときのことだった。ペインターの折角の助言ではあったが、王冠のようなdisposable productのアイデアは、なかなかに浮んでこなかった。年が変わるごとに、今年こそは、と心に期するのだが……。それは、四年後の一八九五年を待たねばならなかった。
ある朝、いつものように顔を当たろうと剃刃を手にした。いつものように、刃がなまっていて思うように剃れなかった。いらいらして、親指の腹で刃先をはじいた。これもいつものことだった。だが、つぎの瞬間には、表に飛び出していったのである。真鍮板の端物、時計に使う鋼、ゼンマイのようなもの、ヤスリに万力に、それから……ジレットは走りながら考えた、という。
すぐにアイデアを具体化してモデルを作った。両刃、交換可能、刃を押えるガード、一定の角度。特許を申請するまでは容易だった。だが、目的に適う鋼の薄板を得て、それに刃をつけることは至難で、実用化までには、それから六年かかってしまった。一九〇一年、会社を作り、一九〇三年、製品を市場に出した。世界初の安全カミソリは、その年、51セット売れ、替え刃は168枚売れた。
ジレットは、晩年、自分の成功は、「虹の端に金の壷がある」と信じて、専門家だったらあきらめてしまうような途を恐れずに突っ走ったからだ、といったという。
三十をすぎても、まだ夢をみて、“Go to the end of the rainbow and you’ll find a crock of money.”を信じていたというのだから、ジレットは、“神童”であったのかも知れない。
(FEBRUARY 1978)
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