入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。

藤岡記

 
ニューコメンは聞違っている!
藤岡啓介
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晋の時代のこと、苦学生の車胤(しゃいん)と孫康(そんこう)は、ともに貧しくて灯油を買えず、蛍の光、窓の雪のてり返しを頼りに書を読んだ、という故事がある。「故事」となると、なにやら教訓じみてきて、現実感がないのだが、それから千五百年ほどたったアメリカで、似たような話が生まれた。

Oliver Evans(1755~1819)、貧しい家に、九人兄弟の五番目として育った。十六歳のとき、荷馬車作りの所に徒弟に出た。そこも貧しくて、夜、勝手にローソクを使うことはできなかった。エバンスは、昼のうち、木っ端や大鋸屑(おがくず)を集めておき、それを焚きながら暖をとり、本を読んだ、という。大鋸屑の功といえば言葉に品はないが、蛍雪よりは、信じられるような話だ。

兄弟は多かったが、オリバーのように本や機械いじりが好きな者はいなかった。それでも、兄弟が多いということは良いものだ。あるとき、兄のひとりがオリバーに自慢した。「お前、知っているかい? 鉄砲の筒に水を入れて栓をかまして、そいつを火ん中であぶるんだ。すげえ音がして爆発すんのよ。火薬どころじゃないぜ。」

兄貴にとってはゲームだったが、オリバーには、これは未来を定める十分条件だった。それだ、そいつを考えていたんだ。なにかできるはずだ! ポットのふたが蒸気で動くのをみて……というJ.ワットの「伝説」は、その頃は、まだつくられていなかった。

蒸気の力でピストンを動かせば、水車も風車も、畜力も人力もいらなくなる。以来、エバンスは新動力と自動化技術にとりつかれる。あるとき、仕事の仲間が、産業革命の引き金となった世紀の大発明、ニューコメン・エンジンの解説書を探してきた。一読するや、ぽいと投げすてた。

“But, he's doing it the wrong way!(彼は間違ったやり方をしているよ)”

高圧の蒸気を使って、直接ピストンを駆動さすことができるはずだ。ニューコメンは、蒸気を使うには使うが、大気圧でものを動かすための真空作りに使っている。これは、無駄ではないか。エバンスのねらいはhorseless carriage(馬なし馬車)の開発だった。1773年のことである。

結婚して(1775年)、夢のエンジンは夢のまま、沙汰止みとなった。もう少し現実的なことで生計をたてねばならない。製粉所をやっている兄のひとりと一緒に働き、そこで、世界最初の自動製粉プラントをつくった。引き臼にしか使われなかった水車の動力を、材料供給、分配・混合、搬出にまで配分した。それまで十人かかってやっていた仕事が、コンベアやアリキメデスねじや、たくさんの滑車やベルトで、たった一人でこなせるようになった。田舎貴族に戻っていたジョージ・ワシントンが、ぬかりなくこの自動プラントに投資していたが、政治とは違って、ワシントンも読みを誤ったようである。一世紀ほど早かった。特許は取得できたが、ビジネスにはならなかった。

晩年、エバンスは鉄道を構想し、レール、枕木、砂利、犬釘の細部にまで着想を持ったが、肝心の蒸気機関を使うhorseless carriageは周辺技術が追いつかず、ついに作ることができなかった。スチーブンソンの“ロケット号”がリバプールからマンチェスターへと突っ走ったのは、エバンスの死後10年たった、1829年のことである。

車胤は蛍の光で国子博士(こくしはくし)にまで出世したが、政変から自殺に追い込まれた。焚き火のエバンスは、新旧大陸の産業革命の時差の間で、“田舎の発明家”のまま、だが家族に看取られ、安らかに息をひきとった。書を読む術(すべ)にいろいろあるが、生き方もさまざまである……。

(SEPTEMBER 1977)

エバンスは子煩悩で、時間があると子供たちに、発明にも特許にも、ビジネスにもならない玩具を作っていたという。 上図は珍しいイラストで、さすがのGoogle画像でも出てこない。わが秘蔵の書 American Science and Invention, by M. Wilsonより。
2009年9月7日号