1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。
藤岡記

インターネットにはなんでもあるはずなのに、この絵は見当たらない。「フランスの画家」によるもので、“American Science And Invention,”
by Mitchell Wilson, 1954. に掲げられている。
急流に身をおどらせて、不運につきまとわれた縁を自から絶とうとする男を描いた、小さな銅版画が残っている。フランスの画家による、としか伝わっていない。しかし、この絵が、steam-driven boat(蒸気駆動船)の発明家John Fitch(1743~1798)の“自殺”を描いたものであることは、確かであるという。歴史家の調べでは、フィッチの死は自殺ではなく、病死であったことが明らかになっているが、当時、フィッチが死んだ、との報せが伝えられたとき、だれもが、このフランスの画家のように、フィッチは絶望の果、自殺したのだろうと思ったようだ。それほどまでに、“Luck was against Fitch from the moment he was born.(生れたその瞬間から、幸運はフィッチに背を向けていた)”とその伝記に記されるほどに、彼はついていなかった、という。
九人兄弟の五番目に生れた。父親は粗暴な農夫で、学校なんぞに通わせる気はなかった。八才のときから、野良へ出るだけで、学校で知ったことは、自分の親父が暴君である、ということだけだった。水夫になったり、時計屋の丁稚をしたり、真鍮工場で真黒になって働いたりした。どこでも、いやな傭い主ばかりで、楽しい思い出はなかったが、いつか真鍮や銀を加工・細工することで飯を食うようになった。独立戦争にも顔を出したが、鉄砲鍛冶だったので手柄はなかった。結婚したが、口うるさい女房にたまりかね、家出してしまった。
一七八五年のことである。突然に、蒸気で走る車を作ろう、いや船を作ろう、と思いついた。友人からニューコメンの大気圧エンジンの話をきいたのがきっかけだ、といわれているが、中年になって方向違いに乗り出した活力には、地図作りで千金をねらい踏査した折に知った大河ミシシッピの魅力があったのかも知れない。ドブ川のような人生の流れを、大河へと変えるのに、恰好のテーマではないか。フィッチはそれまでの生涯をマイナス、借りがある、と思っていた。後半生で借りを返えしたいと希った。
早速に図面をひき、モデルを作った。ペダル式、スクリュー式。一七八七年八月二十二日、the Continental Congress(諸州代表者会議)の面面の前で、45フィート長の船を蒸気で走らせた。成功した。十四の河川での蒸気船航行の独占権も得た。次々に船を作った。フィラデルフィアで定期船を運航(時速六マイル)した。人々はフィッチの会社に金を出た。だが、船は走っても客は少なかった。まだ、アメリカの西部開拓は緒についたばかりで、ミシシッピの大河はフィッチの船を必要としていなかったのだから。四番目に建造した船はもっとも大形で、これでさらに人気を得て諸外国へも、というねらいだった。だが、嵐があった。出来上ったばかりの新形船は転覆した。人々はフィッチを見棄てた。
蒸気船の特許と河川運航の独占権を持って、フィッチはロンドンヘまで出かけた。フランスヘも渡った。人々は話には興を示しても、金は出さなかった。借金の他に病気まで背負いこんで、アメリカに戻った。誤伝“フィッチの自殺”は、銅版画にだけでなく、技術の物語には、いまだに真説として記されているものもある。二十年の後にJohn Stevensがフィッチと同じことを目論み、大成功を収めた。いっそうと、フィッチの運命はいたましい。
必要は発明の母なり、というが、発明は必ずしも富や栄光の母でなかった。成功談の舞台裏には、大勢のフィッチが犇めき合って、そう、alcoholic(アル中)への途をひた走りに走っている姿があるのだ。
(July, 1977)



























