1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。
藤岡記
ひとひとり、どこでどのようにして生涯を終えるのか、目論見通りに自殺でもした者でないかぎり、それはわからない。どのような“プログラム”が自分の生命に予定されているかわからないので、よほどの楽天家ででもないかぎり、個人的な未来については、かくかくしかじかとは、具体的に語らないものだが、しかし、人間社会全体とか、経済とか、技術の予測などとなると、気軽に数値を引きだしたり、想像力を働かせたりで、自由に発言できるようである。そしてまた、それを信じることも、論難することも、気ままに行っているようだ。
真空のチューブの中であったなら、空気抵抗がないのだから、列車は想像もつかぬほど早く走るだろう。さらに磁力で列車を引きつける方式をとったら、どうだろうか。計算すると、ボストン-ニューヨーク間二百十六マイルの所要時間は、わずか十分でしかない。これだ! “Traveling in 1950”。Robert Hutchings Goddard(1882~1945)は、大学で学んでいた頃、半世紀後の交通機関を、そう断定した。
幼ない頃から、病気がちの少年で、どちらかといえば現実逃避型、よくいえば、空想家であった、という。自分の身体に自信がないので、夢想の方を現実として生きていく。空気のある世界よりも、空気のない世界の方が、より身近に考えられたのだろうか。一九一九年に、“A Method of Reaching Extreme Altitudes(超高度への到達法)”を発表した。真空の宇宙空問をロケットで飛び、月にいく。月に着いたら、その到着を地上の者に知らせるための発光剤もロケットに搭載しなくてはならない…… つけたしで、こんなことも加えていた。ロケットの理論については、ロシヤのツィオルコフスキーがすでに発表していたことだったのだが、それは当時のアメリカでは知られていなかった。
だれもかれも、ゴダードの論文を本気にとりあげなかった。“moon mad〈月狂い)”これが、世評だった。真空の中をロケットが推進していくという、基本的な学理を、あの大新聞『タイムズ』までもが、揶揄したという。地球の引力圏を脱出することなど、途方もない夢であったわけだ。
ゴダードにとって、世評はあまり気にならない。そんなものは、彼には“非現実”なのだ。火薬などの固体燃料で試みていたが、やがて普通のガソリンを燃料に、そして酸化剤として液体酸素を使うことを考えついた。一九二六年三月、高さ四フィート、径六インチのロケットが、子供のジャングルジムのような枠組の中から飛び立った。“真空”へはとうてい達することできなかったが、約百フィートの高度にまで達したという。ライト兄弟が一九〇三年に有人飛行機でアメリカの歴史を飾ったように、ゴダードの、このときの記録もまた、いまではアメリカの誇りとなっている。(当時は、あまりに騒音をたてるということで、マサチューセッツ州から実験中止を申しわたされ、その後の研究はニュー・メキシコヘ行って行なったという。)
第二次大戦が終ったとき、ドイツのロケット専門家がアメリカに誘われた。ときの政府高官は、ロケットについて彼らから学ぼうとしたのだが、ドイツ人の答えは、「なぜゴダード博士に訊ねないのですか。わたしたちのロケットは、すべて彼から学んだものです」ということだった。
ゴダードは、一九四五年八月十目、ボルチモアでのどを手術して、そして超高空へと飛び立っていた。
(MAY 1977)



























