入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。

藤岡記

 
ホルツ小父さんの昔話……
藤岡啓介
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アルサス生れのホルツ小父さんは、よく若い者を前にして、昔話をしたものだった。
「昔の機械屋っていうのは、ひどい仕事だったんだよ。わしは十三の時から働いたんだが、そんときは、一週二ドル二十五セントだった。朝暗いうちの六時半から働いて、たっぷり十時間だったよ。四年間の徒弟奉公があけても、稼ぎはたったの九ドルだった。ロッカーなんて気のきいたものもなかったし、洗面器だってありゃしなかった。わしたちみんな、ひとつバケツで洗ったものさ。信じられるかい? ひどく汚れた水だったよ」

一八八〇年代のアメリカ、オハイオ州でのこと。大きな車輪のついた自転車、鉄道馬車、石油ランプ、手押しポンプ、それにderby hat(山高帽)、hoop skirt(タガ入りスカート)が流行っていて、発電機や電話、あるいはエジソンの電燈などが、新奇な話題となっていた頃だった。Fred Holzのように、腕のよい職人でも、時給十五セントがいい方だった、という。

腕におぼえがあって向上心があれば、だれだって親方になりたいと思う。若い時、ホルツも二、三の仲間と金を都合して、ねじ、タップ、ダイスなどを作る小さな工場を経営していた。創意工夫、発明の才があった。タップのフルート(みぞ)部を削る小さな機械(フライス盤)を作った。そしたら、タップだけでなく、その機械も売れてしまった。

「その頃だよ、フレッド・ガイヤーさんが現われたのは。きっと驚いたと思うよ。銀行勤めしていたハンサムなおぼっちゃんが、死んだ父親の跡をつぐ破目になって国へ帰ってきて、いきなりトンテンカンのおんぼろ工場に借金のとり立てにくることになったんだからな」

Fred A. Geierは、たしかに驚いた。おんぼろぶりにでなく、ホルツの作るフライス盤には、投資家の目からみてもlong-run possibility(豊かな将来性)があるとふんだのだった。それから何度も現場に足を運び、何度もホルツと語り合った。そして、借金をとり立てるどころか、母親の財産までも注ぎ込んで、ホルツと一緒に機械工場を経営するようになったのだった。

「あの人は偉いよ。自分が機械が分るだなんて、決して思っていなかったね。なに、やらせれば、いっぱしの職人並の腕はあったよ。わしが仕込んだんだからね。でも、ガイヤーさんは、自分は販売と経理と、それに工場のゴタゴタの面倒をみればよいと決めていたんだよ。ある日のことだ、実物通りに動作する、フライス盤の精密な小形模型を作ろう、っていうんだ。新しい機械だもんで、客にいくら口で説明したって、のみ込んでもらえなかったんだな。二五〇ドルしたよ、その模型が。当時の二五〇ドルは、ずい分と思いきったものだったよ。ガイヤーさんは、そいつをケースに入れて国中を歩くっていうんだ、いい根性だったな。朝一番の牛乳列車に乗り込んで、客ん所にとんでいき、事務所が開くと同時にとび込んだっていうよ。そして、何軒か歩いて、日のあるうちに戻ってくる。こんだあ、金策やら帳づけだ。よくいっていたね、口ぐせだったよ。“find a better way、 a better design, a better tool, a better method.”どうだい、いい言葉だろ」

ガイヤーは、機械作りの伝統の地ニューイングランドから離れたオハイオのシンシナティで、こうして世界一の工作機械メーカーCincinnati Milling Machine、現在の精密を売る総合メーカーCincinnati Milacronをつくっていったのであった。

(April,1977)

2009年6月1日号